第123話 不自然なベランダ
2019年7月10日水曜日の午前0時過ぎ。スマホのホーム画面に表示される時間を見ると、すでに日付が変わっていた。悠夏は欠伸をかみ殺し、鑑識がまとめた資料を眺める。
ここは愛知県警尾張警察署の会議室。事件が無ければ、今の時間、名古屋のホテルでぐっすり寝ていたはずだった。
平針巡査がノックをして会議室に入ってきた。両手には缶コーヒーを持っている。
「よろしければ、これを」
「ありがとうございます」
悠夏は缶コーヒーを受け取り、プルタブを引いて開ける。平針巡査は悠夏が見ている資料を覗き込み
「今回の事件ですが、捜査一課では殺人事件としての捜査に切り替わりました」
「ベランダの状況的に、仕組まれたと?」
「そうですね。計画的犯行の可能性もあります」
「この資料を見ると、ベランダの柵は不自然に出来た錆であり、隣との仕切り板が何度か取り外された痕が見つかった、と」
「捜査一課の考えでは、隣人の下酉さんがベランダの仕切り板を取り外して、柵の一部分を劣化させたのではないかと。事故に見せかけた殺人ですね」
柵を劣化させると簡単に言うが、長期的に何度も繰り返して少しずつ細工をして、加重で壊れるようにしたということだろうか。
「下酉さんの家庭内暴力の件ですが、防音によって知っている人はいないようです。ただ、隣に住んでいた被害者の樹神さんは、何らかのきっかけで知って、その口封じで……。まだ臆測ですが」
「反対側の1401号室は?」
「1401号室は、6月に退室したそうで、今は空き室です。当時住んでいた人には、朝一で聞き込みをする予定です。小蝶さんが目を覚ませば、色々と分かると思います。ですので、特課の方々は、休めるときに休んでください。こちらは徹夜で頑張りますので」
同日、朝9時。会議室で寝落ちしていた悠夏のもとに、鐃警がやってきた。
「佐倉巡査、大丈夫ですか?」
「あっ……、すみません。気付いたら寝てたみたいです……」
「そういうの体に良くないですよ」
「はい……」
「それと、DV被害者の証言で事件が大きく動きました」
「目を覚ましたんですね」
「ええ。下酉 小蝶被疑者をまもなく逮捕します」
「……小蝶さん?」
悠夏は目を擦って、寝起きの頭をフル回転させる。なぜ彼女が逮捕されるのだろうか。
「小蝶さんって、痣のあった女性ですよね? 私、名前と顔を間違えて覚えてないですよね?」
「合ってますよ。痣のある女性が、下酉 小蝶被疑者。夫の下酉 拳丞さんに対して、日常的に暴行をしていたようです。あの痣は、姑が」
鐃警はそう言って、最新の捜査資料を机の上に置く。
「下酉 衣世。拳丞さんの母親であり、小蝶容疑者に対して、あれこれ強く当たっていたようです。詳しい話は、その捜査資料と供述録取書に書かれてます。簡単に言うと、嫁姑問題が過激になり、暴力的になったみたいです。衣世さんに対しても、このあとの捜査次第では、逮捕状が出るかと」
悠夏は欠伸をかみ殺し、
「……えっと。整理すると……、衣世さんが加害者で、小蝶さんが被害者。さらに、小蝶さんが加害者で、拳丞さんが被害者……って、ことですか?」
「そうなりますね」
「転落する細工をしたのは……?」
「その3人のだれか……。そこはまだ分かっていません。ただ、蒲郡鑑識の非公式な見解だと、仕切り板を外したのは拳丞さんではないかと……」
「非公式な見解……?」
「仕切り板を止めているボルトですが、指紋が採れなかったそうです。原因は、飼っている犬が何度も舐めていたようで……」
「ボルトを……。確か、犬は興味のあるものを舐めることがあるって、獣医さんに聞いたことがありますけど」
癖や習慣、それが面白くて興味本位で舐めていることが考えられるそうだ。犬がストレスや病気ではないかと心配して、獣医さんのところに駆け込んでくる飼い主も多いそうだ。ただ、ごく一部に病気が見つかったケースもあったらしい。
「現場のベランダにある仕切り板ですが、構造上は両サイドからボルトが空回りしないように押さえて外すそうです。だから、両サイドに人がいないといけないそうです。1回外した後、簡単に外せるボルトに変えられて、それ以降は出入りがかなり簡単だったみたいです」
「それってつまり、お隣と会っていた……?」
「まだ”かもしれない”としか……。もうすぐ、取り調べが再開するので隣の部屋で聞いてみます?」
「行ってみます」
悠夏と鐃警は、1つ下の階にある第二取調室のお隣へ。隣の部屋では、マジックミラー越しに第二取調室の様子が窺える。会話はスピーカから流れており、末野原警部が小蝶被疑者の取り調べを行っていた。
「拳丞さんに暴行を働いていたことは認めたが、その理由について詳しく聞きたいのだが」
「単純な理由です。彼のことは好きだった。けれど、彼の母親は大嫌いだった。息子のことが好きすぎて、私への当たりは日に日に強くなって、暴力を振るってきました。拳丞さんに相談しても、効果は薄かった……。予定よりも早く帰ったとき、拳丞さんがベランダから隣の部屋へ行っていたことを知りました。すぐに部屋を出て、予定の時間に帰宅したので、本人には気付かれていません。誰も信じられなくなりました」
なぜ拳丞さんが隣の部屋へ行っていたのか。臆測で考えるよりは、聞いた方が早い。
拳丞さんは、小蝶被疑者の取り調べが終わった後、入院先の病室にて聴取が始まった。同じく末野原警部が担当する。
「お目覚めからあまり時間が経っていませんが、お話をお聞きしてもよろしいですか?」
「どう……なりましたか?」
「”どう”とは?」
「お隣さんです……」
時系列として、拳丞さんが転落時の悲鳴を聞いていてもおかしくはない。AEDによる生存率は1分ごとに7~10%低下する。悠夏たちが隣の部屋に入ったのは、転落事故から時間が経っている。小蝶被疑者も転落の悲鳴は聞いたと証言していた。犯行の関与は否認。
「残念ながら……」
「まさか……。やりすぎた……」
拳丞さんのその言い方を聞き、末野原警部は
「”やりすぎた”? どういうことですか?」
To be continued…
今回の話は、全員が悪者になりそうですかね。次回にもう少しだけ続きます。
取調室って、ドラマでのイメージしかないんですが、実際も同じですかね? パイプ椅子と机、スタンドライト。端っこには、聴取を作成する警察官。殺風景な景色。あと、カツ丼や珈琲、ジュースは賄賂に当たるから、それはジョークとして置いておいて。




