7話
光は桜が好きなのね
遥の眼に映る小さな男の子はずっと満開に咲き誇る桜の木を眺めて動こうとはしなかった。
「綺麗な桜だね」
「そうね」
「僕、桜が好きなんだ」
「私も、桜が好きよ」
「桜は春の匂いがするの、それでお母さんからも春の匂いがするの。だから桜が好きなんだ」
遥の心が静かに揺れ動く。
この愛おしい男の子が死ぬ時に一緒にいてやれないのは心残りだけれど、こうやって今、一緒に桜を見ていることが現実なのが不思議に思えてくる。
この世界からいなくなってしまうのか嘘みたいに遥の五感にはたしかに春の匂いが感じられた。
眩い日光が木の隙間から漏れて
ユラユラゆれる枝花の影が映る。
ふわりと落ちてくるのは薄ピンクで
ふと見上げれば美しい花びら舞った。
光の小さな手を握って、今見ている光景をずっと記憶に残しておきたいと思った。
「もう、長くはないです」
医者のその一言は遥と賢治にとってかつてない衝撃だった。
「お願いです、治してください。私は、最後まで夫と息子と一緒に生きていたいんです。」
「善処します」という言葉は医者にとっての精一杯の励ましだった。
遥が入院したのは光と桜を見に行った1週間後のことである。
もう人数だって少ないこの街の唯一ある病院。
フレアの影響は、もともと体の強くなかった遥にとって深刻なものであり、
次第に弱っていく遥の体を治すことのできる人間はもういなかった。
入院して10日過ぎた頃、遥は自分の死期が近いことを直感した。
小さな個室の一角。
窓の外はオーシャンビューが広がるが、
そこに生き物の気配を感じることは出来ない。
時が止まったかのようなその空間、
確かに時計の針がカチカチと動いている。
点滴から色のついた液体が管を通り体に流れこむのを見て、生きている心地はしなかった。
目を閉じて耳を澄ますと、かすかに聞こえる
風の音、海の音。
そうしてやっと落ち着くことができた。
思い出される昔の記憶。
遥が賢治と一緒に生きようと決めたあの日の記憶。
「なあなあ、知ってるか? 大移民団の話。
この地球はもうダメかも知んねえけど、宇宙には俺たちが住める場所があるかもしれないんだったよ」
「へぇ、そーなんだー」
遥は興味なさげにそう言った。
「だからさあ、もしかしたらさあ、俺たちもさあ、もっと生きられるかもしんねぇよ?」
賢治はにっこり笑ってみせる。
「でもさあ、賢治。そんなこと言ったってアンタ地球を出るつもりはないんでしょ?」
「……まあ、そうだけどさ」
「あとさ、もう私影響出ちゃってるじゃん。
地球にいてもどこにいても死ぬもんは死ぬんだよ。寿命だってわかんないよ」
冷静に答える私の目をじっと見て賢治は少し真面目な声色でこう言った。
「だからさ、変わるんだって、体も、環境が変われば、体調も変わるだろ?そういうもんなんだって人間」
「本当にそうかなぁ」
賢治の純粋で澄んだ目にぱっと目をそらす。
内心ドキドキしながらそんなことを答えた。
夏の太陽はギラギラ輝き、額に汗が流れる。
こんな直接日光に当たっていいのかなと思いながらもずっと2人で話していたいと思った。
「ねぇ、賢治は何かやりたいことある?」
「俺か?俺は地球で生き残る方法を探すね」
「えぇ、もう地球無くなっちゃうんだよ。
どうやって生き残るのさ」
「どうやってでもねえよ、俺はこれでも研究者のはしくれなんだ。俺は最後の最後まで、この地球が人間が、生き残る方法を探してたいんだよ。
だから俺は地球に残るし、駄目ならこの地球で死ぬ。
最後までこの地球で命を輝かせていたいん―――
ふっと目を覚ますともう夕暮れだった。
カーテンの隙間から遥の顔に日差しが照りつける。
左に顔を傾けると
顔を涙でグシャグシャにした光が立っていた。
「光、ありがとう。
ずっと居てくれたのね。」
遥は必死になって身を起こした。
「死なないで、お母さん」
光は声をしゃくりあげて、もうそれしか言うことができなかった。
力を振り絞って遥はベッドから足を下ろすと
素足に地べたの冷たさが伝わってくる。
その場で膝を落とすとちょうど光の顔がよく見える。
光のことを優しく抱き寄せると、
その小さな身体はとても柔らかくて暖かかった。
「光、大好きだよ」
「お母さん...死なないでよ...」
ポツポツと必死に訴えかける光。
「ごめんね、光。もう、お母さん生きられないの。もう直ぐお別れなの。」
「別れるなんてやだよぉ」
「...ごめんね、光。」
「もう、会えないの?」
「ううん、会えるよ。何度だって会える。
生き物はね、何度だって生まれ変わるの。
それでね、神様は本当に好きな人とは何回だっ
て会わせてくれるの。
だからね...また会えるよ。」
感情が抑えきれなくなってしまった遥から大粒の涙が溢れ落ちる。
「お母さん、泣かないで。
僕ね、お母さんのこと大好きだから。
絶対会えるよね?
生まれ変わってもお母さんの子供でいたい。
それでね、お父さんが言ってたんだ。
新しい星では、みんな一生懸命暮らしてるんだ
って。
だからね、生まれ変わったら向こうでお父さん
も一緒にまた家族でいようね」
「ありがとう
光は宇宙一可愛い私の子供なんだから、会えな
いはずないよ。
新しい星で また会おうね 」
指切りをしたその小指から、小さな脈が伝わって来た。
なぜだかわからないが、その約束が絶対に果たされるのだと確信してならなかった。
しばらく母の胸の中で泣いていると、ついに力尽きたように光は寝てしまった。
遥は窓際のソファーまでその男の子を抱えて、横たわらせると、上からそっと自分の毛布を掛けた。
「ありがとう、光」
やっと死ぬ覚悟ができた。
夫と息子と一緒に生きていく未来を想像して、幸せに死んでいくことが、遥の夢だった。
だけどその夢は儚く散った。
でも息子を抱きしめて泣き腫らすうちに、もう充分だと思った。
充分、愛を受け取ったんだと。
だから、もうこの世界に未練を残すことはない。
遥はとても晴れやかな気持ちになった。
しばらくすると
ガラガラと病室の扉が開いた。
賢治の姿が映る。
「光は、寝てしまったか」
「うん」
「一旦帰るって言っても遥のそばにいたいって
って聞かなかったんだ」
「知ってるよ」
「私ね、そろそろ死ぬと思う」
「縁起でもないこと言うなよ」
「ううん、違うの。もうわかるの。死ぬって」
「 遥」
「賢治、今までありがとうね。
私ね、あなたと出会えて本当に嬉しかったよ」
「さっきね、あなたの夢を見たの。あなたのこと
が好きになった日の夢」
賢治は何も言わずに遥を見つめた。
「 賢治、本当は全部嘘だってわかってたんだ。 全部、あなたがついた優しい嘘。
あなたは優しいひとだから、みんなを悲しませ
たくなかったんだよね」
「 ばれていたのか」
「そんなのすぐばれるよ。すぐ顔に出ちゃうから
ね、賢治は」
遥がくすりと笑う。
賢治の目からはぼろぼろと涙が溢れた。
「 ごめんな、遥。
本当は、もっと一緒に居たかったんだ。
それで光と一緒に幸せに暮らしたかったんだ」
「いいの。全部しょうがないことだったんだから。さっきね、光と話してたの。
生まれ変わってもまた会いたいって。だからね、またどこかで会えるよ」
2人は抱きしめ合った。
また出会える日のことを信じて。
遥は次の日息を引き取った。
彼女は最後まで柔らかい表情だった。