5話 2ヶ月前
光は今日18になった。
だが、それは嬉しいことではない。
その年齢は光にとっての死を意味するからだ。
誕生日は回を重ねるごとに憂鬱なものになっていく。
ついに来てしまった。
それが光の素直な感想であった。
「光、誕生日おめでとう」
カップにコーヒーを注ぎながら父はシンプルな祝福をする。
いつもと変わらない調子でパクパクと朝食を食べている。
なにも変わらないということが何となく嬉しいことだった。
「ありがとう、親父」
光も変わらない様子で朝食を食べ始める。
「光も18か、大きくなったな」
「そうかな」
「そうだよ」
何気ない会話が続く。
朝食もなんとなく美味しいものだと感じられた。
「お母さんもきっと喜んでるよ」
「うん」
母親のことをこの十年忘れた時はない。
だから、父のその言葉は、なにより光の胸に届いた。
「美咲ちゃんにも祝ってもらえるといいな」
「余計なお世話だよ」
言葉とは裏腹に、光の顔は真っ赤になる。
父はいつも美咲との関係を悪戯に騒ぎ立ててくる。
それは彼なりの愛情表現なのだが、光にとっては煩わしくて仕方のないことであった。
直ぐにでもこの場を離れたいと思った。
美咲にまだ自身の思いの全てを伝えきれてないことへの後ろめたさが、父からの愛ある冗談を素直に受け入れることを困難にしたのだ。
皿の残りを口に掻き込み、コーヒーを流し入れる。
「ごちそうさま!」
そう言うとすぐさま食器を洗い、家を飛び出た。
「行ってきます!!」
「美咲ちゃんによろしく!」
そんな声が背後から聞こえたが外に出ればもはや気にならない。
さっきまでを恥ずかしさを玄関口に脱ぎ捨て、光は小走りで美咲の待つ海へ向かった。
浜辺は閑散としていた。
人の数さえも、もう多くないというのだからあたりを見回しても人影が見えないのは当たり前のことであるが、どうしてもこの情景は寂しいとしか思えなかった。
海風がひゅうひゅうと吹いている。
少し早く来すぎたのは父親のせいだと決めつけて、冷え切ってざらざらした砂に横になった。
しばらくして、遠くの方から足音が聞こえて来た。
光の頭上で音が止まる。
「ごめん、待った?」
ふと顔を見上げると
美咲は息を切らしている。肩には大きなカバンをかけていた。
本当は何十分も待っていたがそんなことないよと伝え、がばりと起き上がると、
光は黙って歩き始めた。
美咲もその後ろからついていく。
呼び出したのは美咲からだ。
どちらも何も話そうとはしなかった。
用件はなんとなくわかっていたけれど、
だからといってそれを自分から言うのも野暮だなと思った。
波の音だけがざばんざばんと反復する。
ふと立ち止まって何か感傷的なことを考えようとした。
季節は移り変わっていく。
だんだんと冷たくなっていく風の温度が心を締め付ける。
もう暖かくならないな。
ボーっと水平線を眺めていると美咲が肩を叩いた。
「どうしたの?さっきから元気ないけど」
「ううん、なんでもない。」
「それで、今日はどうしたの?」
話を変えるようにそう尋ねると、美咲は不意をつかれたように遠くの方をサッと見た。
「なんだと思う?」
「俺の誕生日?」
「なんで答えちゃうのさ」
「もう何年一緒だと思ってるんだよ」
美咲がえへへと笑う。
毎年この日は美咲が祝ってくれる。だから大体の見当はつくし驚きはしない。
それでも美咲に面と向かって祝われることは何よりも変えがたい幸せである。
「まあ、そういうことだから。
改めまして、光、誕生日おめでとう!」
「ありがとう」
「それでね、誕生日プレゼントがあるの」
美咲は肩にかけているカバンの中からそれを取り出す。
「はい、これ」
瞬間彼女の手にまとわりついているふわふわとした物体が何なのか理解することができなかったが、少しの間をおいてようやく自分が知っているものだと認識することができた。
「マフラー!?」
思わず大きな声を上げてしまう。まさかのプレゼントに驚きを隠せなかった。冬に死ぬ人間が、冬を越すことのできない人間がもらうとは考えてもいなかった代物だ。
「光、寒がりでしょ?だからこれ。自分で編んだんだよ。今年の冬は寒くなるらしいから」
美咲は光の頭の後ろに手を回し、そのマフラーをぐるぐると首に巻きつけた。
「もうちょっとしか生きられないんだぜ?」
美咲の顔が近くに来るのが急に恥ずかしくなって、そっけないことを言ってしまう。
「けどそのちょっとは使えるよ。最後の最後まであったかくしていたいでしょ?」
美咲のやることには驚かされる。ついさっきまで自身の誕生日を悲しいものだと思い込んでいたのに、今の光にとってそれが何よりの喜びになり、胸を弾ませるものになった。
「ありがとう、美咲」
感情が爆発しそうになるのを必死に抑える。
まだ死ぬわけでもないのに過去の色々な経験が思い出されるのは、予想だにしないことだった。
グッと泣くのを堪えて唇を噛みしめるのを見て、美咲に思わず笑みがこぼれる。
「なにその顔?もしかして嬉しくて泣いちゃった?」
意地悪そうに、それでいて心の底から愛する人を見るようなその目で見つめられると死ぬことがどうでもいいように思えてくる。
「まさかマフラーだなんで思ってもいなかった」
「どうせ何あげてもあとちょっとだからね、なら私は光に最後まで幸せでいて欲しいの」
美咲は目線を外して、海辺を歩き始めた。
涼しげな風が海の方から吹いている。
まだ10月も上旬である。
マフラーを着けるのは少しばかり早い気もするが、
光は少し暑いなと思いながらも、美咲からのプレゼントに顔を埋めた。