4話 4ヶ月前
「ねえ、光、海に行かない?」
美咲が無邪気に言った。
「海かぁ、泳ぐの?」
「泳がないよ、
海が見たいだけ!」
そう言って、美咲は光の手を取った。
海辺までは美咲の家から遠くないから、歩いてしばらくすればつく。
もともとこの街は国有数の港町だった。
かつては港に何隻もの船が並んでいたそうだか、今ではもうそんな面影はない。
光が生まれた頃からこの海はガランとしていて、ただただ波の音が聞こえるだけの寂しい場所である。
だが、光は海が嫌いではない。
その大きな波の動きはどうやら地球という生き物がまだ動きを続けているように感じられて、安心することができる。
美咲も海が好きだから、頻繁に2人の遊び場となった。
大きな浜辺のど真ん中。
2人並んで体育座りをする。
「暇だね光」
美咲の言葉は嘘じゃない。
もうこの地球でやることなんてたかが知れているから、あと半年別段やるべきことなどないのだ。
働きたい人は働き、
遊びたい人は遊ぶ。
そんな人類の夢のようなことが地球最後の期間にようやく現実のものとなった。
光と美咲も例外ではない。
1年前までは、街のボランティアが2人に勉強を教えていた。
もはや教育というものも自由に選択できるわけだから、どうせ18で死ぬのなら勉強する意味というものもあまり見出すことはできなかった。
それでも、光の父と美咲の両親は子供達に教育を受けさせようとした。
それは彼らの愛だった。
この世界のことを何も知らずに死なせるのは、それこそ無駄なことだと思ったのである。
だから2人は一緒に勉強した。
科学、国語、歴史、多くのことを勉強したことは
2人にとって幸福な時間であったことに間違いない。
しかし、死が迫った一年前、2人の中で漠然とした虚無感のようなものが生まれた。
それは自分たちの存在理由、そして勉強への意味づけの問題である。
学問が今後の生活にに役立つわけでもなく
問答無用で死はやってくる。
そう思った瞬間、全てが馬鹿らしくなったのだ。
しかしそれは今まで学んでいた期間が全部無駄であったということではない。
現に光と美咲は世界の広さ、そして、人類の歴史の偉大さを知ることができた。
だが、残りの人生もそれに費やすのは何か違うと思った。
そのことを親に話すと、案外すんなりと受け入れてくれた。
勉強がしたくなければしなくてよいし、働きたくなければ働かなくてもよい。
光と美咲は全ての縛りから自由の身となった。
最後の1年間だけ自由人であることの許しを得たのだ。
食料は充分にある。
率先して食肉やら野菜を育てている人間がいるから、彼らからの配給で充分生きている。
また彼ら自身もその仕事の大半を機械に頼っているから、もはや労働そのものも趣味という感覚である。
だからこその暇だ。
美咲のその言葉は実に的を射ているものだった。
光も「暇だな」
と答えるとしばし沈黙が続く。
「暑いね」
「うん、暑い」
「なんかもうやり尽くしちゃったよね」
「うん」
「今、8月だよね?」
「うん」
「あと、4ヶ月か」
「そうだね」
「うわーーー!!!」
美咲が急に走り出した。
ものすごい奇声をあげて海へ走り出した。
光は暑さで頭でもおかしなったのかと訝しく彼女を眺めたがどうやらそうではない。
彼女の退屈がとうとう限界に達しただけのことである。
水がひざ下まで浸かるところまで全力で走りきると、その場で腕を大きく広げ、海に飛び込んだ。
飛び込んだというよりも体を海に叩きつけた。
バタバタと手と足を動かしている様子は美咲にとっての生へのしがみつきのようにも思えた。
8月の太陽はギラギラと輝き、鋭い陽が皮膚を射す。
光の目に映る美咲の姿は他の人とは比較にできないほど美しいものだった。
ざばんざばんと緩やかに白い横線を引いた波がリズムよく浜辺に打ち上がり、
それに合わせて、美咲は浜に戻ってくると次は全力で走り出した。
素足が波にあたって水が弾ける。
バシャバシャと音を立てながら足に襲いかかる海水をものともせずに走る。
左から右へ何もするわけでもなくただ走る彼女の姿に何故だか光の胸の鼓動は激しく高鳴った。
光が一緒に混ざりたくなるほど美咲の笑顔は輝いていた。
子どもに戻ったように水を掛け合う2人は、
気がつくと着ている服はビショビショになり体力も底を尽きていた。
浜に戻り、力尽きたようにその場に倒れ込む。
はぁはぁはぁと荒い息を整え、しばらく2人で仰向けになり雲ひとつない青い空を眺めた。
「俺たちってちっぽけだよな」
「そうだね」
「この地球が消えてしまうほどの爆発どれくらいなんだろう」
「すごく大きいんだろうなぁ。
でも私たちが想像つかないほど宇宙はもっと大きくて、爆発でさえ小さく見えちゃうんだろうね」
想像しただけで気の遠くなることだ。
視界に広がる青をじっと眺め、頭の中では宇宙のことに思いをはせる。
光はふと美咲の方に顔をやると、彼女がすでにこちらを向いて微笑んでいた。
わずか20cmほどの距離だった。
「うっ」
咄嗟に変な声が出でて、逆の方向に寝返りを打つと後ろからはあははと言う彼女の笑い声が聞こえた。
美咲はざっと立ち上がるやいなや
風邪をひくといけないからと、やや足早にコンクリート階段を登り、
「私のうちに来て」
と言った。
美咲に促されるようにそそくさと一本道の街道を通って目的の場所を目指した。
家には両親がいなかった。
彼女の両親はそれこそ、趣味で野菜を作っている人だから、この時間は畑仕事の最中である。
流石にビショビショの状態で家の中に上り込むのは気が引けたため、光は玄関口で足踏みした。
美咲は家の中からバスタオルを持ってくると、それを渡し、
今お風呂を沸かすからと再び小走りに家の中へ戻っていく。
光はその場でしばらく立ち尽くして
美咲の家の風呂を借りるのは何年ぶりだろうかなどと考えているうち彼女がまた戻ってきた。
「ごめんね、少し待っててね」
光を玄関の段差に座らせると美咲もその隣に座る。
美咲の服はびっしょりと濡れ、下着が透けて見える。
光は彼女をあまり見ないようにし、視線を斜め上に保つことに努めるが、
そんなこと知っては知らずか、美咲はその彼の横顔をまじまじと眺めた。
「今日は楽しかったね」
「うん、楽しかった、
昔を思い出した」
「えへへ、昔もよくこうしてビショビショになって帰ってきたよね。
それでお母さんに怒られたっけ」
「そうだったね」
「ねえ、光こっちを向いて」
美咲が純真な眼差しでこちらを見ていた。
湿った髪と、肌の透けた服。
光の心臓が高鳴る。
美咲が目をつぶり、顔を近づけてくる。
張り裂けそうな気持ちでいっぱいになり、
ドクドクと体の中から音が聞こえる。
もうどうにでもなれ、と
光はその艶めかしく濡れた唇に自分のを重ね合わせた。
頭がぐらぐらして、胸が冷たくキュッとなる。
もう自分の理性を保つことができない。
ただちに美咲を抱き寄せようとすると、彼女は少しの距離を保ち「私のこと好き?」と言った。
少しの沈黙の後
「決まってるだろ」
それだけ答えて、光は美咲の腰に手を回した。