1話
桜の木が枯れた。
眼に映るものは少しずつ、生きる力をなくしているように感じる。
「光、地球はもうすぐ無くなるんだ」
去年まで満開に咲き誇っていたそれを眺めながらお父さんはぼそっと呟いた。
寿命を迎えた木の下でずっと立ち止まっていることがなんとなく不安だったから、
その大きな手を引こうと掴んだら、
逆にギュと握り締められて、
その場を離れることができなくなってしまった。
「もう行こうよ」
逃げるような気持ちでそう言うと、お父さんは同じ視線になるように膝を曲げ、真剣な表情でじっと見つめてきた。
「生きてれば必ず終わりが来るんだ
だから、今を一生懸命生きるんだぞ」
さっきまでの硬い表情が嘘みたいにぱっと柔和になり、その右手で僕の頭を撫でる。
地球がなくなるなんてどうでもいいと思っていた。
お父さんが怖い顔をすることの方が僕にとっては大変なことだから、
そうやって、優しい表情をしてくれるのはなによりも嬉しかった。
地球がなくなることは、生まれた時から決まっていたことだ。
だから怖くはない。
それが僕の寿命だって、わかりきっていることだから。
僕は18歳で死ぬ。
18歳の冬だ。
太陽がおかしくなったんだとお父さんは言った。
そのせいで地球に悪い影響が出ているんだって。
難しいことはわからないけれど最後に太陽が爆発して、地球が無くなってしまう。
そんな信じられないことが後10年後に起こるのに、柔らかな光は体いっぱいを包み込んで、僕に生きる歓びを教えてくれている。
お父さんが言っていることが嘘みたいに、
この陽をずっと浴びていたいと思った。
お父さんは立ち上がると、青い空を見上げてゆっくりと前へ進んだ。
まだ綺麗に咲いている桜もあるから、それを近くで見てもらいたくて手を引く。
僕の前で元気なふりをしていることくらいわかる。
けど、本当は辛くて苦しいんだ。
1年前にお母さんが死んだ。
すごく悲しかった。
地球が無くなる日に一緒に死ぬんだと思いこんでいたから、まさかこんな早くにお別れが来るなんて思ってもみなかった。
最後お母さんが息を引き取るとき、僕はずっと泣いていた。
お父さんも泣いていた。お母さんの名前をずっと叫んで泣いていた。
お母さんはとても優しい人だった。
お母さんの匂いはまだ僕の記憶の中に残ってる。
ちょうど今みたいな春の匂い。お日様の匂い。
暖かく包み込んでくれるお母さんの胸の中。
僕のことを優しく見守ってくれた。
「ねぇ、お母さんはどうして死んじゃったの?」
涙ながらに訴える僕をお父さんは強く抱きしめてくれた。
お母さんは、病気だったんだ。
だけど、一生懸命生きたんだって。
そう言ってくれた。
お父さんが泣くのを我慢しているのはわかった。
だからすごく優しい人だって、そう思った。
僕を悲しませないために。
必死に強く見せようとしていた。
だから僕も泣くのをやめた。
残りの人生を懸命に生きることを決めた。
お父さんはその日以来、本当の自分を出さないように上辺だけの笑顔を振りまいている。
だから、心の底から笑顔になってもらいたい一心で誘った散歩だったけれど、このままではいつもより悲しませることになってしまう。
なんとかして調子を取り戻そうと目当ての桜までずんずんと進む。
数は少ないけれど立派に咲いてるものはまだある。
その中でも一番美しい桜だ。
満開の木に近づくと心が踊って、思わずその太い腕を引っ張っていた。
「見てよ、お父さん!
この桜一番綺麗だね!!」
お父さんから自然な笑みがこぼれる。
「そうだな。一番綺麗だな」
「お父さんには、この桜を見せたかったんだ。
一番立派で輝いてる!」
「そうだな、輝いてるよ」
「お父さんみたいだね!」
お父さんは身を丸くして僕の顔を見た。
「...俺みたいか?」
「うん、お父さんみたい輝いてる!」
「...俺、輝いてるか?」
「うん、輝いてる!一番輝いてる!!」
ブッと吹き出すと、ハッハッハと笑い始めた。
その笑顔は作り物じゃなかった。
僕も嬉しくなって笑い出す。
「そうか、俺輝いてるか。嬉しいな...」
その元気な姿が見れてやっとホッとすることができた。
お父さんは大きな右手で僕の髪をくしゃくしゃにした。
「光、お前が一番輝いてるぞ」
その言葉は僕の胸に何度も何度も響いて、なんとなくむず痒い気持ちでいっぱいになってしまった。