指輪のゆくえ~ポケット一杯のワン・シーン
指環のゆくえ
「ねえ、この赤ワイン‥‥‥」
話を切りだそうとしたまさにそのとき、彼女が話し
かけてきて、まさかっと狼狽した。
「味が柔らかくて、美味しい」
そう言うと彼女は顔の横でワイングラスを軽く振り、
艶然と微笑んだ。グラスが煌めき、テーブルクロスに
赤い影を落とした。
胸を撫で下ろすと同時に、喉から出かけた言葉をワ
インと共に飲みこんだ。
「サンテミリオン産のシャトーカロン1955年産っ
て、高級よね」
「うん、星が三個つくね」
ワインが苦く感じられた。
「神秘的な光を放つ星、ね」
良い感じだ。ふっと小さく息を吐いて、ズボンのポ
ケットに手を伸ばし、神秘的なと言えば、君の・・・、
と切りだそうとしたとき、またもや、
「サンテミリオン産のワインって、特に品質に厳しか
ったんですってね」
喉が詰った。このうっ、と思ったけれども悟られな
いようワイングラスに口をつけ、いかにも美味そうな
表情を繕った。
「ジュラードって言う自治組織があってね、国王から
絶対的な権限を与えられていたんですって。この組織
がワインの品質管理をしていたのね」
ウンチクは、いい。どうでもよろしい。ちょっと話
させてくれと心の中で哀願しながらも億尾には出さず、
「それじゃあ、国王の支配権も及ばない、ちょっとし
た独立国みたいだね」
と話を合わせる。
彼女は組み合わせた手に顔を乗せ、
「ワインの質が悪かったりすると、大変だったみたい」
そうして私の方に少し顔を近づけ、
「作った人は棒で叩かれたんですって」
と彼女は当りを憚るように小声で言った。
「ふーん、それはひどい」
この流れをどうもって行こうかと考える。
「だからサンテミリオン産のワインは、作った人の血
と涙が染み込んでいるのよ」
「そ、そうなんだ」
彼女は髪を軽く払うと、左手を頬に当てて首を傾け、
夢を見ているかのような恍惚とした目でグラスのワイ
ンを見詰めている。そのうるんだ瞳、開きかけた蕾の
ような唇、少し上気した頬。吸い込まれる。まるで香
り立つようだ。
あ、と我に返った。女神は前髪垂らしたもうた。
と、まさにそのとき。まさにそのとき、蕾が開いた。
「まるで、今日の患者さんの血尿みたい」
そう言うと、彼女はにっこり微笑んだ。