【掌編】嗤うハイドランジア【恋愛】
MOTTAINAI精神でのせる過去の遺物。一目惚れの話。
坂の上のオンボロアパート。
築云十年の本当にオンボロと呼ぶに相応しいこの新しい我が家は、周囲の一定の基準を守ったかのように似たり寄ったりな一軒家に囲まれて少なからず浮いていた。
傾斜のきつい坂道を登ってすぐのアパートの二階。角から二番目の部屋が先々月越してきたばかりの新居である。
南向きの錆び切った手すりが少し不安なベランダからは、坂の下の町が見渡せる。
家賃が安くて景色も綺麗。難点は駅からちょっとばかり遠いところと壁も床も薄いところだろうか。
ユニットバス付き、キッチンと四畳一間。
貧乏学生に相応しいアパートである。
大学入学を機に、親元を離れて初めての一人暮らし。
先々月に引越し業者に荷物を運び入れてもらったばかりの新居は、まだ部屋の半分がダンボール箱で埋まっている。
取り敢えず、学校に着ていく服と布団と教科書類しか出していない。
それ以外は全てダンボールの中に眠っている。
早く片付けないとと思っても、何故か捗らない不思議。
部屋の半分をダンボールに占拠されていても、一月以上も暮らしていると不思議とその空間に落ち着いてくる。
このまま片付けなくてもいいか、と思えば更に片付けは捗らない。
もしかしたら半年先も自分の部屋は半分ダンボール置き場かもしれない。
夏までには片付けよう。
そんな思いで部屋が片付く筈もなく、気がつけばダンボール置き場に暮らして二月が過ぎていた。
世間は梅雨入り。
連日の雨にじとじとした空気。
湿気が多くてついにはバスルームにカビを発見することとなり、慌ててカビ取り用洗剤を購入するためにドラッグストアに走ることになったのは先週の話だ。
先月から始めたバイトの帰り道。
しとしとと降り続ける雨も傘さえあれば風流に感じたかもしれないが、残念な事に傘を忘れた自分には鬱陶しい以外の何者でもなかった。
雨は好きだが、濡れるのは嫌いだ。
窓辺で楽しむのは大好きだが、雨の中を濡れて走るのは大嫌いだ。
それもこれも、今朝一日晴れ間が続くと告げたお天気キャスターの所為である。
信じていたのに裏切られた気分だ。
実際に天候にもキャスターにも裏切られたのだが。
もう天気予報なんて信じるものか。
そう思っても後の祭り。
後悔先に立たずとは本当に良く言ったものである。
傾斜のきつい坂を駆け上る。明日は筋肉痛かもしれない。
濡れてガポガポと音を立てる靴が気持ち悪い。
お気に入りのメッセンジャーバックを胸に抱えて薄いパーカーの帽子を被っている自分は、晴れの日なら職務質問の対象かもしれない。
雨の日でも十分不審者かもしれないが。
坂の途中、漂ってきた花の香りに足を止めた。
匂いを辿ればレンガの塀の向こう側から。
近所に多い庭付きの一軒家の中でも特に上等に見えるのは、このレンガの塀の為だと思う。
塀越しに庭が見える。
沢山の植物が植えられた美しい庭、雨粒を受け止めて咲き誇る紫陽花に息を飲んだ。
本当に美しい光景の中に、一つだけ。
細い、紫陽花の茎のような指が頁をめくる。
淡く色付いた萼のように薄い色合いの唇はきゅっと引き結ばれている。
雨の中、庭に向かって開け放たれた窓辺に、白いハイドランジア。
庭の一部のようなその華に、立ち止まり見蕩れていれば、視線を感じたのか。
目が合った。
そして唇がゆっくりと見せつけるように弧を描き、それは嗤った。
嘲るように、嗤った。
その表情を見た途端、顔がカッと熱くなり、不快感から眉間に深い皺を作った。
それから逃げるように再び走り始め、びしょ濡れになって家に帰り着いても、頬の熱は下がることはなかった。