【掌編】百合子が今日、死んだなら【恋愛】
※胸糞注意。自殺を匂わせる表現がありますが、自殺幇助の意図等はありません。
私、榊薔子にはそれはそれは素晴らしい妹がいる。
妹の名前は百合子。
百合子は幼い頃から聡明で、可愛くて、誰からも愛される子だった。
私の両親も、専ら子供というと百合子のこと。
百合子のことを本当にかわいがって、自慢に思ってる。
私も昔はそうだった。
こんなに素晴らしい女の子が、私の妹なんだって。
百合子の存在が誇らしかった。
でも、それがいつからだろう? 嫌になったのは、疎ましくなったのは。
皆、百合子がいい。
百合子が好き。
百合子が可愛い。
薔子はいらない。
いてもいなくても困らない。
あれは私が小学校四年生の時、クラスで一番足の早かった男の子に恋をした。
まるっきり子供の恋だったけど、私は真剣だった。
友達に相談したりもした。
でもある時、私は聞いてしまった。
私の好きな男の子が、百合子を好きだって。
私の初恋は実らず散った。
その時からだ、周りが百合子を褒める言葉が嫌になったのは。
皆、百合子を褒める。
でも誰も薔子を褒めない。
薔子が何かを上手くやったって、皆、百合子の方が上手いって言う。
薔子が何かを失敗すれば、皆、百合子なら失敗しなかったって言う。
親戚の集まり、お父さんの仕事の付き合い、家族のお出かけ、全部百合子を連れて行った。
薔子はいつもお留守番。
いつだったか、叔母さんが言った。
「あなたが不出来な子だから、外にだすのが恥ずかしいのよ」
その言葉は幼い私の心にぐさりと刺さった。
いつだったか、伯父さんが言った。
「百合子が両親のいいところ全部全部持って生まれたから、お前には何もなかったんだなあ」
その言葉は幼い私の心に暗い影を落とした。
中学に上がると、私は名前で呼ばれなくなった。
百合子の姉。
それが私の呼び名だった。
影では、榊姉妹の出来損ないの方、なんて呼ばれ方もした。
辛かった。
誰も私を見てくれない。
皆百合子を見てるから。
いつしか、百合子がいるから誰も私を見てくれない、そんな風に思うようになった。
中学に上がって、祖母が百合子のおまけのように日記帳を買ってくれた。
百合子が雑貨店で気に入って、買ってもらったらしい。
百合子はすぐに飽きて本棚の奥に仕舞い込んでいたけれど、私は丁寧に使っていた。
鍵付きの赤い日記帳。
私は鍵も予備の鍵にも紐を通して、絶対に離さず身につけていた。
私は鍵付きの日記帳に、毎日あることを書き綴るようになった。
――百合子が今日、死んだなら。
日記の一行目はこうだ。
百合子が今日死んだなら、いなくなったなら、皆は、私はどうなるのか。
日記に綴られる文字の羅列の中でだけ、私は主役になれる。
百合子のような、愛される女の子になれる。
でも、結局最後は虚しくなった。
どんなに自分なりの幸せを思い描いてみても、きっと現実はこうじゃないとわかっている。
百合子がもし、死んだなら。
皆が悲しむだろう。
そしていつまでも、忘れたりしない。
百合子がいなくなったからって、私を見てくれやしない。
そして、百合子の姉という価値のなくなった私に、きっと何も残らない。
それでも、私は日記を書き続けた。
恨み言は全て日記にぶつけて、私はただ、今日も大人しくお留守番をするのだ。
高校に進学する時、私は家からは遠い寮のある高校に行きたいと言ってみた。
百合子から離れれば、誰も百合子を知らないところに行けば、誰かが私を見てくれると思ったのだ。
でもそれは、それを聞いた百合子の一言で崩れた。
「私も同じ学校に行く」
百合子だけを部屋に戻してから、両親は私に言った。
「この学校に行きなさい」
それは決定事項だった。
百合子が家を出ないように、私に百合子と同じ学校に行けと、命令した。
翌朝、私は結局百合子に、やっぱり家から通えるとこにすると言った。
「じゃあ一緒の学校に行こうね」
と笑った百合子の向こうで、両親が満足気に頷いていた。
私には自由もなかった。
高校に入っても、私は変わらず百合子の姉だった。
新入生代表を務めて、生徒会にも早々に勧誘された百合子の姉として、いろんな人が私を見に教室へやってきた。
私は動物園のパンダじゃないのに、遠巻きに見られた。
そして皆、がっかりして帰るのだ。
中には私にも聞こえる声で「本当にあれが姉かよ、血がつながってないんじゃないか」なんて言う人もいた。
悔しかった。
でも、同時に本当に血がつながっていなければよかったのに、と思った。
同じ血が流れているから、こんなにも比べられるんだ。
辛かった。
でもそれも入学して一月も経てば落ち着いて、私はひっそりと高校生活を送っていた。
何かをして百合子と比べられるのが嫌だったから、常に消極的だった。
部活にも委員会にも属さず、私はいつも誰より早く学校を出て、家から少し遠い公園で時間を潰した。
古くなってギイギイ鳴るブランコに座って、ぼんやり空を眺める。
それから目を閉じて、空想の世界にこもる。
私が主役の私の世界。
百合子のいない世界。
大学生になった時、お父さんが居間に私と百合子を呼んだ。
珍しいことだった。
お父さんは真剣な顔をして、こう切り出した。
「取引先の重役の方が、うちの娘をあちらのご子息の婚約者にしたいと仰ってな」
その時、私はもうお父さんの話を聞く気がなくなっていた。
だってお父さんの仕事の付き合いも、家族の外出も、私はお留守番だった。
だからその取引先の人がいう榊家の娘とは、百合子のことだ。
だってお父さんやお母さんの知り合いには、榊家の子供が二人いることも知らない人だっているのだ。
だからきっとこの話は百合子にきたもの。
薔子には関係のないものだった。
「私いやよ、お付き合いしている人がいるもの」
百合子の言葉に、一番驚いたのは私だった。
百合子に恋人がいたなんて、全く知らなかったのだ。
でもすぐに相手に思い至った。
百合子と仲の良い先輩の志木結弦だ。
さらりとした黒髪に切れ長の目が涼し気な美男子で、家がお金持ちで、学校でも人気がある。
彼と百合子が付き合っているという噂は聞いたことがあった。
でも本当にそうだとは思わなかった。
しかしそれ以上に驚いたのが、その後のお父さんの言葉だった。
「なら仕方ないな、しかし断れないから、薔子にしよう」
お父さんはなんでもないことのように言った。
それは私にも、取引先の人にもその人の息子にも失礼なことだった。
百合子の代わり。
薔子の価値はそれだけのようだった。
泣きたくなった。
お父さんは、次の週末に会う約束になっていると言った。
私に拒否権はなかった。
その日の日記には久しぶりに、百合子が今日死んだならと書き始めなかった。
代わりに、私の両親が今の両親じゃなかったら、と書き始めた。
日記の中の私が幸せになればなるほど、現実の私には虚しさが残った。
その日はあっという間にやってきた。
私は百合子のワンピースを借りて、お父さんと一緒に近くのホテルのラウンジにいた。
どうせ相手は百合子が来ると思っている。
そこでここにいるのは私。
これまでのように、私にがっかりしてこの話もなかったことになる。
百合子じゃなきゃ価値が無いんだから。
出来損ないの薔子じゃ、駄目。
「おまたせしてしまったかな?」
やってきたのはまるで芸能人のようなかっこいい男の人だった。
黒いスーツがよく似合ってて、品があって、かっこいい。
思わずその人に見とれてしまった私の背を、お父さんが相手にわからないように小突いた。
お父さんがにこやかに挨拶をしている。
その横で、私は固まっていた。
その人の後ろにいた人を見て、私は何も言えなくなった。
だってそこにいたのは、志木結弦その人だったのだ。
――百合子の、恋人……。
私が何も言えない内に話は進み、食事を食べに移動して、そして後は二人で、とお父さんたちはどこかへ行ってしまった。
私はやっぱり何も言えないままで、高級な料理も少しも味がしなかった。
「薔子さん、だっけ?」
あまりにカチコチに緊張している私がおかしかったのか、志木先輩はくすくすと笑っていた。
それから名前を呼ばれて、私はうっかり湯のみを落としそうになった。
「はい」
「百合子さんのお姉さん?」
ここに来たのが百合子じゃないことを咎められるのかと思った。
「はい」
「百合子さんから君の話を聞いているよ、とても物静かな子だって」
そんなことはなかった。
昔は百合子を引っ張って方方を走り回る程やんちゃな子だった。
「はい」
「さっきからそれしか言わないね」
「はい……あ……」
「緊張してる?」
「はい……」
「大丈夫だよ、落ち着いて」
志木先輩は優しかった。
彼は私と百合子を比べたりしなかった。
彼は、私をきちんと見てくれた。
私は苦しくなった。
彼は優しい。
彼は私と百合子を比べない。
彼は私を見てくれる。
でも、彼は百合子の恋人。
私を選んでくれない。
私はこの短い間に、どうしようもなく、この人に惹かれていた。
恋だった。
許されない、けして実らない、恋だった。
その日の日記も、書き始めはこうだった。
――百合子が今日、死んだなら。
百合子がいなければ、私の恋は実ったかもしれない。
そう考えて、自分の浅ましさに涙が出た。
その日の日記は、消しゴムで乱雑に消した。
その後、おかしなことが起きた。
どうやら志木先輩のお父さんが、私を気に入ってくれたらしい。
それで、もう一度、会うことになった。
そうして三度目に会った後、私はなぜだか、志木先輩の婚約者になっていた。
志木先輩のお父さんが、私のお父さんにお願いした結果らしい。
お父さんは何も言わなかった。
百合子が、素敵な人だったんでしょう? よかったね、と言ってくれた。
そして婚約者となって初めての食事で、彼は明らかにそれまでと態度が変わっていた。
やっぱり彼は百合子が良かったんだ。
喜びがゴミ箱に投げ入れられた。
そして季節がめぐり、大学を卒業して、私は彼と籍を入れることになった。
彼のお父さんと、私のお父さんが決めたことだった。
私は荷造りをして、家をでることになった。
彼と、彼に与えられたマンションで暮らすことになった。
結婚式は彼が頑なに拒んだので、挙げなかった。
そんなことをしても、私には呼ぶ友達もいなかったから、どっちでもよかった。
ただ少しだけ、胸が痛んだ。
それだけだった。
新居にも、私は日記を持って行った。
新居でも、私は日記を書き続けた。
仕事で帰りが遅いから、そう言って彼は私と寝室を分けた。
専業主婦になった私は、それなりに忙しかった。
朝は彼より早く起きて、彼のためにお弁当を作る。
昼間は掃除や買い物をして、夜には帰ってきてすぐに温まれるようにとお風呂を用意する。
夕飯の用意は、彼に外で食べてくるからいらないと言われて以来していない。
でも私は一人だった。
朝食の時だけ、彼の顔を見る。
でも会話はない。
私はやっぱり一人で、毎日日記を書き続けた。
ある日、百合子が私を訪ねて来た。
夕方で、どうせあの人は今日も遅いから、私は百合子を家にあげた。
そしてダイニングで食事をしながら百合子の話を聞いた。
恋人が中々プロポーズしてくれない。
それが百合子の悩みだった。
私は適当な相槌を打ちながら、そういえば百合子に自分の結婚相手を打ち明けていないことに気づいた。
私と結婚したのだから、百合子とは別れたのだろうと思っていた。
百合子にはずっと恋人がいるのだから、きっとあれはただの噂で、百合子とあの人は本当は恋人ではなかったんだろう。
そう言い聞かせていた。
食事を終えて、リビングに移動した時、百合子があるものに目を止めた。
それは今朝忘れていったあの人のネクタイピンだった。
百合子は酷く驚いた顔でそのタイピンを見つめて、それから手にとって慎重に眺めた。
裏返してみたり、指先でつまんでみたり、つついてみたりした。
それから急に私の方へ振り返って、大きな声で言った。
「薔子、あなた誰と結婚したの!?」
「志木……結弦さんよ、百合子も知ってるでしょ? 大学の先輩」
嫌な予感がした。
そしてそれは的中した。
百合子は大きな目いっぱいに涙をためて、唇を噛んで、私の頬を叩いた。
それからタイピンを持ったまま、家を飛び出した。
叩かれたことに呆然としつつも、私は慌てて百合子の後を追った。
百合子には恋人がいるのに、まだあの人が好きなのだろうか。
それとも好きだったのに別れることになって、忘れられないのだろうか。
それとも……実は二人は別れてなどいなかったのだろうか。
百合子がエレベーターに飛び込んだのを見て、私は慌ててその横の階段を駆け下りた。
エントランスにたどり着くと、百合子が外へでるところだった。
「待って、百合子!」
百合子は振り向きもしない。
立ち止まりもしなかった。
でも咄嗟に身体が呼ばれた名前に反応したのだろう。
外の数段しかない階段の上から、足をもつれさせた。
百合子の身体が宙に浮く。
それはスローモーションのようだった。
ゆっくりと、浮き上がった身体が、頭から落ちていった。
「百合子!!」
私は悲鳴を上げた。
そこに、あの人が帰ってきた。
いつもよりとても早い帰宅だった。
階段下に頭から血を流して倒れた百合子。
階段の上で顔面蒼白の私。
彼は百合子にかけよって、それから階段上の私を見上げた。
怒りと憎悪に染まった二つの目が、私を射抜いた。
「殺したいほど憎かったのか!?」
その鋭い声は私の心を切り裂いた。
膝から崩れ落ちて呆然とする私をよそに、彼は百合子のために救急車を呼んだ。
暫くして到着した救急車に、百合子の付き添いで彼は乗り込んでいった。
私はその車が見えなくなるまで、呆然としていた。
やがて同じマンションの住人たちがちらほらと帰ってきて、私は慌てて部屋に戻った。
日記帳が、テーブルの上にあった。
私はそれを開いて、可能な限り小さく破った。
そしてビニール袋に詰めて、口を縛ったあとゴミ箱の底に沈めた。
涙は出なかった。
ただ頭のなかで彼の言葉がぐるぐると回り続けていた。
――百合子が今日、死んだなら。
私は恐ろしくなった。
百合子が本当に死んでしまったら。
気が気じゃなかった。
その日、彼は帰ってこなかった。
翌日も、帰ってこなかった。
何か連絡があるかもしれないと思って、ケータイを握りしめて、リビングの固定電話の横から動かなかった。
連絡はなかった。
どんどん怖くなって、私は電話をしようとした。
でも、ケータイの電話帳を開いて気づいた。
彼の番号はそこになかった。
思えば、彼と会うときはお父さんを通して連絡をとっていた。
この部屋で暮らし始めてからは、私は家を長く開けることがないから必要がなかった。
恐る恐る、私は実家にかけてみた。
数回のコール音の後、お母さんが出た。
「どちら様でしょうか?」
久しぶりに聞く、お母さんの声だった。
「あの、お母さん?」
問いかけて、暫く沈黙が続いた。
私だとわからなかったのだろうか。
「電話番号を間違っていませんか?」
そう言って、切られた。
私はケータイを握りしめたまま、動けなかった。
――百合子が今日、死んだなら。
日記の一文が頭に浮かぶ。
百合子が今日、死んだなら。
――百合子のいない薔子に価値なんてない。
やっぱり涙は出なかった。
暫くして、私は自分の寝室に戻った。
取り敢えず適当な服をかばんに詰めてみた。
キッチンに買い置きしてあったゴミ袋をあるだけ持ってきて、ものを詰めた。
まるで引っ越してきたすぐの頃のようになった部屋で、違うのはダンボールに入っていたものがゴミ袋に入っていることだけだ。
私自身も、ゴミ袋に入れて処分出来たらいいのに。
私は大きくふくらんだゴミ袋を抱えて、部屋とマンションのゴミ捨て場を往復した。
家の中も掃除して、ゴミも塵もないようにした。
作りおきのタッパーも処分して、食材はそのままにした。
部屋の中から、私の痕跡を消し去った。
まるで引っ越してきた当初のように、どこもかしこも綺麗にした。
そうしてやりきって満足して、私は寝室に戻った。
適当な服を詰めたかばんと、財布と通帳を持って、家を出た。
籍は入れたけれど、指輪なんて貰っていなかったから、あの人に返すものは何もなかった。
きちんと記入した離婚届だけ、リビングのテーブルの上に置いた。
――百合子はどうなっただろう?
寂れたローカル線で、車体の揺れに合わせてウトウトしながら、考える。
ケータイは途中で壊して捨てた。
薔子は昔、初めて百合子と両親と訪れた海を目指していた。
思い返せば、あれが最初で最後の、薔子込みの家族旅行だった。
どんどん建物が少なくなる車窓の景色に、これまでの私の人生が写っているようだった。
――百合子が今日、死んだなら。
薔子はなんの価値もないゴミになる。
ゴミなのにゴミ袋に詰めて捨てられないんだから、邪魔で仕方ないだろう。
――薔子が今日、死んだなら。
かばんにつめて一緒に持ってきた、赤い日記帳。
薔子の虚しくて浅ましい夢の在り処。
もう全ての頁を破り捨ててきたけれど、その日記帳の表紙を指先で何度も撫でた。
それだけで、心が落ち着いていく。
――薔子が今日、死んだなら。
あの人が百合子にプロポーズして、百合子がそれにはにかんで頷く。
それは絵になる光景だと思う。
そして結婚式のドレスを二人で選んで、純白のウエディングドレスで、百合子は神に誓うのだ。
あの人と、健やかなる時も、病める時も、共にあることを。
それから沢山の友達を呼んで、盛大な披露宴をする。
沢山の人が二人を祝福するだろう。
両親は体裁の為に薔子に何かする必要もなくなって、幸せな百合子を祝って、今度は孫の誕生を待つに違いない。
薔子を気に入ってくれたあの人のお父さんも、お母さんも、薔子より素晴らしい百合子をすぐに受け入れる。
そして物語は大団円。
皆みんな、幸せになる。
――薔子が今日、死んだなら……薔子だって、幸せになる。
もう、誰も私を見てくれないなんて悲しまない。
もう、誰も私と百合子を比べない。
もう、あの人の本当はなかった愛情を疑わない。
もう、誰かの幸せの邪魔にならない。
もう、お留守番なんてしない。
私は一人だった。
私は一人で平気だった。
私は一人で大丈夫だから。
私は一人でどこでも行ける。
私は一人で生きて行ける。
私は一人で……。
――私は一人で死ねる。
私は一人で死ねる。
大丈夫。
私は一人で大丈夫。
私は一人で平気。
私は、一人で生きて行きたくない。
私は誰かに愛されたかった。
私は百合子に勝ちたかった。
私は私の価値が欲しかった。
私は私を見てくれる人に好かれたかった。
ガタンゴトン、ガタンゴトン。
車体の揺れに合わせて、薔子はウトウトと船を漕ぐ。
百合子が窓にかじりついて、あれはなんだこれはなんだと目につくもの全てをお父さんに問いかけている。
お父さんはそれに笑顔で答え、そんな二人を見てお母さんが優しく微笑んでいる。
幸せな家族の情景。
薔子だけがいない、幸せな世界。
揺れがおさまって、駅についた。
海が近くて、潮の香りが鼻をかすめる。
よく晴れた日差しが眩しくて、目を細めた。
ここからはじまるのだ。
薔子の幸せが、ここから、始まる。