【掌編】同居人【ホラー】
なんちゃって怖い話。実質何もおきてません。
私がそれに気づいたのは、この部屋に引っ越してきて二週間がたった日の夜のこと。
何の変哲もない単身向けのワンルーム。
風呂・トイレ別で家賃が二万七千円。
築年数こそ古いものの、綺麗に管理されているその部屋を、私はひと目で気に入って即決した。
見学に来たその日の内に契約を済ませ、引越し業者を手配して、新居で荷解きを漸く終えたそんな頃。
それはただそこに居たのです。
簡易キッチンのシンクの前に立つ、見知らぬ人。
今となってはすっかり見慣れた姿だが、それに気づいた時は随分驚いたものだ。
なにせ一人暮らしでまだ友人もよんだことのない部屋に、自分以外の誰かがいるのだ。
私は驚いて、それから注意深く相手を伺った。
それは男性だった。
背は私より少し高いくらいだろうか。
すらりとした細身に、黒のスキニーがよく似合っている。
ストライプの模様が入ったカッターシャツは、肩のあたりが真っ黒に染まり、それは雨だれのように下へ垂れていた。
横顔にも髪とは別の黒い筋が入っている。
多分、血だろう。
頭から出血して、顔を、シャツを、汚している。
顔立ちは整っているようで、鼻が高く彫りが深い。
全体的に薄い印象で、表情もないのに、未開かれた目だけが爛々と妖しく輝いていた。
彼はただじっと、そこに立っていた。
ただじっと、シンクを見つめている。
穴があきそうな程、強い視線で。
私はそれを初めて見た時、てっきり寝ぼけているんだと思った。
その日は夢見が悪く、それが原因で夜中に目が覚めた。
そして彼を見つけたものだから、私はそれを悪夢の延長と捉え、そのまま二度寝した。
翌日も予定が詰まっていたし、夢に構っていられなかった。
次に彼を見たのは、それから更に一週間が過ぎたころだった。
その日は久しぶりの休日を前に、友人と飲みに出かけた。
居酒屋を三軒ハシゴして、すっかり千鳥足のへべれけになっていた。
あっちへふらふら、こっちへふらふらしながらも、なんとか家に帰り着いた時。
玄関の鍵を開けて、靴を放り投げるように脱ぎ捨てて、まっすぐベッドにダイブした。
そして着の身着のまま、うとうとと船を漕いでいた時。
やっぱり簡易キッチンのシンクの前に、彼は立っていた。
同じ格好、同じ汚れ、同じ姿でただそこにいた。
酔って正体をなくしていた私は、それもやっぱり夢だと考えて、そのまま寝た。
その日は酒で溺れる夢を見た。
翌日、完全な二日酔いでガンガン痛む頭を抑えながら起き上がった私は、夢で彼が立っていたシンクの前に立った。
酷い吐き気がしていたからだ。
そしてとりあえずと水を出そうとしたところで、私は悲鳴を上げた。
シンクは真っ赤に染まっていた。
多分、血だった。
固まった私を正気に戻したのは、薄い壁で仕切られた隣人の、いかにも迷惑だと言わんばかりの壁ドンの音だった。
私は慌ててシンクに水を流した。
真っ赤な水たまりは流れていった。
それからは特におかしなこともなく、二週間過ぎた。
二週間が過ぎた頃。
また彼を見た。
彼はやっぱりシンクの前に立っていたが、少しだけ、こちらを向いている気がした。
それでも夜中だったから、私はやっぱり夢だと思ってもう一度寝た。
その頃は特に忙しかったので、疲れていた。
その翌日、シンクは真っ赤に染まっていなかったが、代わりと言わんばかりに、髪の毛が大量に落ちていた。
買い換える予定だった焦げた箸ですくって、ゴミ箱に入れた。
すくいきれなかった毛は流した。
詰まらないことを祈った。
それから五日程たった頃だろうか。
また彼を見た。
彼はやっぱりシンクの前に立っていたが、やっぱり、少しずつこちらを向いているようだった。
私は酷く疲れていたので、これも夢かともう一度寝た。
この頃、どれだけ休んでも疲れが取れない状態だった。
寝ても寝ても寝足りない。
肩は重いし頭の働きも良くない。
散々だった。
その翌日、シンクは真っ赤に染まることもなく、髪の毛が大量に落ちていることもなかったが、代わりと言わんばかりにシンクからは異臭がした。
とりあえず排水口に強力洗浄剤を流し入れておいた。
それから三日後。
また彼を見た。
彼を見る頻度が増え、見ない期間はどんどん短くなっていた。
この頃には、漸く私はシンクの異常は彼が原因だと考えるようになっていた。
彼はやっぱりシンクの前に立っていた。
しかしこちらを向いていた。
斜めではあるが、もう彼の顔全体を見ることが出来た。
片方の目が、眼孔になかった。
そこから黒い液体が流れ出していた。
潰れたのだろうか。
これは幽霊なのだろうなと、漸く感じていた。
感じてはいたが、私はどうすることも出来なかった。
私はこれまで霊感など持ち合わせていないと思っていたし、彼のような不可思議なものを見たこともなかった。
実家が寺ということもなければ、そういう修行をかじったこともない。
だから私は、彼からそっと視線を外して、そのまま寝た。
酷く疲れていた。
とにかく夜現れる不審者にかまっている暇はなかった。
少しでも長く休みたかった。
その翌日、シンクにはなんの異常もなかった。
その晩、私はまた彼を見た。
彼は遂に、完全に私の方を向いていた。
正面から、彼を見る。
どういう怪我なんだろうか。
頭から出血し、片目は潰れている。
肩も血で汚れ、そのくせ腰から下には何もない。
何かの事故とも考え難い。
自殺か、他殺か。
どちらにせよ面倒くさそうだ。
私は彼がシンクの前から動かないのを確認してから、もう一度寝た。
目をあけているだけですら、酷く疲れることだった。
その翌日、シンクには何も異常がなかった。
その日の晩も、彼を見た。
彼はただじっと、シンクの前に立って、ベッドに横たわる私を一つしかない目で見つめていた。
酷く居心地が悪かった。
その時ばかりは、そのまま寝る事もできなかった。
ただ睨み合った。
睨み合って、朝を迎えた。
朝日がカーテンの隙間から差し込んで、部屋が明るくなるにつれて、彼の姿は薄く透明になっていった。
私は漸く、彼が幽霊であることを確信した。
その日の予定を全てキャンセルして、友人に連絡した。
友人に教えてもらった、そういうものに強い寺に行った。
住職に相談をして、御札を買い、家に帰って、住職に聞いたとおりに御札を貼った。
その日の晩は、夜中に目が覚めることもなく、夢を見ることもなかった。
翌日、疲れはすっかりなくなっていて、気持ちのいい朝を迎えた。
軽くなった身体に、今更に私はあのどうしようもない疲れは彼が原因なのだと考えていた。
それから三日後の晩。
私はまた彼を見た。
彼はやっぱりシンクの前に立っていて、シンクを見つめていた。
どうやら御札で彼を追い払うことは出来なかったようだ。
私は妙に冷静な頭で考えていた。
ただ、彼の動きはリセット出来たようだ。
私はそれから定期的に彼を見て、定期的にシンクの掃除をして、定期的に寺に行って御札を買った。
御札を貼って彼の動きをリセットして、それからはまた最初からだ。
特に実害がないようなので、私は今もその部屋に住んでいる。
彼も相変わらず、その部屋にいる。
家賃も払わず、時折シンクを汚しながら。
そしてそれを咎めず、定期的にシンクの掃除をしながら、私は幽霊の、名前も知らない彼と同居している。