<淘汰>
「昔ね、この辺りの山には神様がいたの。」
姉さんはいつもこの話をする。僕が夜に縁側から山を眺めていると、そっと隣に座って話す。
「その話、前も聞いたよ?」
「えっ、そうだっけ…?でもダメだよ。秋なんだから、夜風にあたってたら風邪引くよ?」
そう言って姉さんは障子の向こうへと消えた。
姉さんは病気なのだ。一日で、その日の記憶が消えてしまう恐ろしい病気だ。だから、僕に毎日この話をした事も覚えていない。
「今日も…来てくれるよね…?」
約束の相手を星空の中待つなんて、光源氏の恋噺みたいだ。原作にそんな描写はなかったけれど、そんな風に胸が高鳴る。
こんな日々が続く事が幸せなのだろうか。
すると、求めていた声が囁いた。
「おまたせ。」
一日離れるだけでも心許なくなるその温もりに包まれ、僕は彼の背に揺られた。
僕達が出逢ったのは、恐ろしい神がいるという山の中だった。今年の夏の出来事だ。
僕は新しく貰った弓矢を試したくて、山で兎か野鳥でも狩ろうと思っていた。でも、僕は十七で、山の歩き方を教わるのは二十になってからだった。案の定、道に迷った僕は、湖底が透きとおる程綺麗な湖に辿り着いた。
「うわぁ…綺麗な水…。」
その頃には日も落ちかけていて、朝から歩き回っていた僕は喉も渇ききっていた。
「飲んでもバチは当たらないよね…?よしっ。」
そう思い飲もうと湖面に手を差し入れようとした刹那。
「何をする気だ?」
突如ふりかかったその声に僕はかなり驚いた。
「うわぁぁぁぁあ!!だっ、誰だ!!?」
僕は腰を抜かし、その場にへたり込んでしまった。
「五月蝿いぞ、人間。早くこの山から出ていけ。」
「は、はぁあ?人間!?お前も人間じゃんか!それに出たくても出れねぇからここにいるんだ!」
「俺はここらの山や森の主だ。お前等の一族はずっと昔から知っている。なんだ、お前成人していないのか。」
そいつの言う事には心当たりがあった。姉さんから聞いていた山の神様の事だ。俺達の集落一帯の山々を守る存在、それが山の神様だと。
「じゃ、じゃあ…あなたは、神…様…!?」
「は?違う。俺は妖だ。あいつら…そんなに驚いたのか……。」
神様じゃない。妖。初めて聞く名だった。
「お前、妖を知らねぇのか?」
「ちっさい頃から此処には神様がいるとしか聞いてないし…妖の話なんて…。」
そう言うと彼は僕の隣に腰掛けた。
「ふーん。でもお前、俺のことそこまで怖がらないんだな。なら教えてやろう。妖ってのはなーーー」
ーーー神の使い魔。
このセカイを作った創造主が、神というセカイを構成する存在を生み出し、その神もまた、自分を生み出したのだと、彼は語った。
「まぁたまに奴等と接触するぐらいで、お供してるってわけじゃない。俺はずっとこの森林にいるし、この先もずっといるだろうな。」
「へぇ…。でも、お前って怖くないんだな。」
「怖くする必要がないだろう。俺に何かしようってんなら、その瞬間に殺してやればいい。」
殺す、という単語に思わず身の毛がよだった。油断したら死ぬ。そう一瞬で理解した。
「じゃあ、僕のことも…殺す?」
「ハッハッハハッハッ!お前面白いこというなぁ。ま、今のところは殺さねぇよ。…ていうかお前、此処には“迷ってきた”んだよな?」
何が面白いんだ。此方は生死が関わっているのに。でも、殺さないからと言って油断はできない。機嫌を損ねないよう、細心の注意を払う必要がある。
「……はい。」
応えると、彼は顔を顰めた。迷い辿り着いた事が何かの罪なのだろうか。だとしたら、僕はもう諦めるしかないではないか。
そう死の覚悟をしていると、彼は徐ろに口を開いた。
「…此処はな、多分聞いたことはあるだろうが、“聖域”なんだよ。」
「…聖域……?」
「あぁ。絶対に神と妖以外は入ることが許されない、神聖で隔絶された領域。」
「えっ…じゃあ…なんで僕…。」
「知らねぇよそんな事。でもまぁお前も〝何か〟であることに間違いはない。しばらく集落に帰す訳にはいかないな。」
ニヤリと無気味な笑みを浮かべ、彼は僕の首根っこを掴み、森の奥へと進んでいった。
end?