第四十四話:それが僕の――愛だ
「魔物使いにとって大切な事がなんだかわかる?」
「え……」
リンが目を丸くして、首を傾げた。
アムをリンに預けることを決定してから早二十日弱。
それは、僕がリンの間に上下関係が出来てからの期間を表している。といっても、師匠と弟子という程に重い関係ではない。先輩と後輩というそれなりにリーズナブルな関係だ。
そして、その一環……という言い方をするのはあまりに虫のいい話ではあるが、リンには週に一度、アムの様子を報告してもらっていた。
今日は正確に言えば報告の日ではないのだが、大規模討伐を間近に控えていたので特別に来てもらったのだ。
リンも広谷の世話で忙しいだろうに、先輩として非常に心苦しいが、快諾してくれたのでお言葉に甘えている結果だ。
魔物使いにとって、スレイブの貸し借りというのは、親しい間柄なら十分発生しうる現象である。
特に、相手がまだ自らスレイブを手に入れられない未熟な魔物使いだった場合に、魔物使いとしてのノウハウをつけさせるために預けるというのは十分有用な手段だ。
実際に僕がまだ学生だった頃、魔物使いの科目では学院側が所有していた一部のスレイブ候補を預かり、実技の勉強をしていた。
もちろん、基本的にスレイブ側の意図を無視した貸し借りは発生しないが。
リンは持ってきたカバンをテーブルの上に置くと、上目遣いで首を小さく傾げた。
結わえられた二本の長いツインテールが僅かに揺れる。
しばらく黙ったまま考えていたが、やがてその唇が僅かに開いた。
「信頼……ですか?」
信頼。いい言葉だ。宝石のように美しい言葉だ。
魔物使いに限らず、それなくしては何事も成り立たない。
セイル達と行った黒鉄の墓標散策も然り、エティ達と行った機神の祭壇強襲も然り。
彼等への信頼なくして、探求は成り立たなかっただろう。
そして、使いようによっては信頼は毒にも薬にもなる。無闇矢鱈と他者を信頼していいわけではない。
僕は椅子に腰を下ろす小柄な魔物使いの少女にちらりと視線を向け、事前に用意してあった茶器でお茶を入れる。
「その答えは全くもって正しい。そもそも、マスターとスレイブの関係は信頼なくして成り立たないからね。でもそれは大前提だ」
椅子の上で神妙に、一字一句聞き漏らさぬ気迫で座っているリンの前にティーカップを置いた。
「あ、ありがとう……ございます」
小さくお礼をいい、両手でカップを取る。
リンは以前見た探求者用の装備とは違う、落ち着いた紺色のブラウスを着ている。小柄で華奢な事もあって、一見探求者のようには見えない。
嗅覚に意識を集中させるが、香水の香りなどはない。化粧などもしていない。それが恐らくリンにとってのポリシーなのだろう。
肘をつき、その眼を観察する。眼は度々、口よりもよほど正確に物事を語るのだ。
「広谷は元気? 上手くやってる?」
「はい! おかげ様で……特に問題なくやってます。最近はちょっとずつ信頼も深まってきて付与がかかりやすくなってきたので、もう少し経ったら依頼の難易度を上げていこうかと」
付与魔法の効力は契約の強さに比例する。かかりやすくなってきたのならばそれは、彼我の結びつきが強くなってきた証明になる。
リンがとても嬉しそうに報告してくる。初めて会った時とは表情も声色も全く違った。
今の所問題はないのだろう。広谷も自ら歩み寄ろうとしているはずだ。問題があるとしたら……うちの子だな。
広谷のついている侍のクラスは速度を重視したクラスだ。
硬い機械種しかいないこの地では相性が良くないが、逆にここで十分に戦えるのならば他の種と戦う際もある程度安心していい。
生命体と非生命体という大きな違いはあるが、鬼種が命を殺す事にためらいを覚えるとは思えないし。
「そうか、それはよかった。くれぐれも油断だけはしないように」
「はい!」
元気の良い挨拶を見て、僕は頬が僅かに緩むのを感じていた。
昔、僕を弟子に取ったばかりの師匠もこんな気分だったのだろうか。
アネットさん曰く、リンは僕と同い年らしいが、背丈が小さいせいか、ずっと年下に見える。
紅茶を一口含み、唇を湿らせる。
「それで、さっきの話の続きなんだけど……魔物使いにとって重要な事は如何に対象にやる気を出させるか、だよ」
「やる気を出させるか……」
魔物使いの教本にだって載っている事だ。リンも既に知っているだろう。
だけど、本に書いてあるのを読む事とそれを実感する事はまた別の話。
僕達魔物使いは一人の探求者にして、常にパーティのリーダーと同じ立ち位置である事を意識せねばならない。
僕達の剣は――僕達の思った通りに動かないのだ。
口の中でその言葉を何度も呟くリンに、笑みを作って尋ねる。
「アムはちゃんと言うこと聞いた?」
「えッ!?」
リンがぴょんと立ち上がった。
カウンターの下でリンの様子を窺っていた時に感じた通り、やはり上手く動いていなかったのか。
アムの動きは良くも悪くも――酷くトリッキーだ。
初めにスレイブにする相手としてはなかなか苦労する事だろう。
彼女は我儘で自尊心が高く自らの意志で動き繊細で感情的で故に――必ずしも忠実でない。
悪性霊体種である以上その力は感情に大きく左右され、自らの実力以上の成果を平然と出したと思ったら、出来て当然の事を出来なかったりする。
それは短所だと一概には言えないが、彼女をよく知らなければ度し難い性能だろう。
――だから、僕はアムをリンに預けても大丈夫だと思ったのだ。
そうでなければ、可愛いスレイブを預けたりはしない。
「そ、そんな事ないですよ……?」
リンが僕の言葉を聞き、眉を顰めると、可愛らしく頬を膨らませる。
「アムにもいい所はちゃんとあると思います。やる気はありますし……そう。自分でも色々勉強してるみたいで!」
「空回りしていた?」
「……少しだけ……」
「いい子だった?」
困ったように眼をハの字に歪めると、とても言いづらそうにリンが口ごもる。
カバンの中を探り、茶色の表紙の薄い冊子を出すと、僕の方に差し出してきた。
「……あ……あんまり……」
「僕はアムを預ける際にリンでは恐らく苦労するだろうなあと想定していた。僕はアムをそこまで『仕込んで』いなかったからだ」
出来が悪かった成果を報告するのはストレスになる。
リンから受け取った冊子――ここ一週間のアムの行動記録と性能記録をぱらぱらとめくりながら続ける。
実はこれも、見る必要はない。一週間程度の記録、なくてもどうとでもやっていけるからだ。薬を仕込んだ場合は具に観察する必要があるが、もし仕込むなら僕に一言入れるだろう。
だから、どちらかというとこれはアムのためではなくリンのためだった。
「リン、アムと君の広谷に存在する差異がわかるか?」
僕の問いに、少し戸惑った様子でリンが答える。
「……あらゆる全てが」
「そうだ。あらゆる全てが違う」
種族、性別、年齢、保有クラス、経歴。
あのヘルフレッドは元B級の探求者だ。ハーフとは言え、悪性霊体種であるにもかかわらず、人に混じってそこまでランクを上げることが出来たのは人並み外れた自制心の賜物、最終的には鬼に飲まれる結果になったとは言え、彼は『できた』悪霊だった。
「広谷は譲歩するがアムは譲歩しない。広谷には経験があり、そしてリンを成長させなくてはいけないという自覚があるがアムにはそれが無い」
「……それだけ聞くと、アムって――」
「そうだ。彼女は――まだまだ未熟だよ」
そういう意味で、リンにとってアムは格好のスレイブである。難易度の高いアムを使ってうまい具合に探求者として大成できれば、次のスレイブをより上手く成長させることができるだろう。
逆に変な癖がついてしまうかもしれないが。
一分程かけて捲り終え、全てを頭に入れると、僕は冊子を机の上に置いた。
「だが、まだ悪性霊体種の中では扱いやすい方だ。僕は『夜を征く者』をスレイブにするのに一度完膚なきまでに叩き潰してやらねばならなかった」
「……やっぱり他の種と違って難易度は高いんですか?」
一番目にアムとパーティを組み、そして今は広谷をスレイブとして上手くやっている。
他の種をスレイブにした事がないのならば、その発言も無理はない。彼女には経験がないのだ。
僕もある意味イレギュラーなスレイブばかりを扱ってきた。だが、僕は一流の教育機関で教材用のスレイブを使ってじっくりと講義を受けている。
リンもできれば正式な教育機関で学んだ方がいいのだが、年齢もあるし、そもそももう探求者として上手くやっている。今更だろう。
なるべく危機感を煽る言葉を選択し、リンに告げた。
「高いね。リン、間違っても勘違いしないように言っておくけど――彼等は人に仇なす悪霊だよ。主観が人側だから悪の定義も僕達が定義した勝手なものだが――彼等は理由なく呼吸をするように人を害する他種にとっての天敵だ。彼等の存在は毒そのもので、薄める事はできてもそれを抜くことは出来ない」
「毒……そのもの……」
リンが呆然と呟くと、小さな手帳を出してメモを取り始める。
僕は先程アムを我儘と表現したが、それは実は正しくない。
我儘なのではない。自分の欲に従う事こそが悪性霊体種の性質の一つなのだ。言わばそれは――本能。
僕達はその性質を忌避してはならない。理解した上で受け入れ、それを有効活用する必要がある。
「だから僕達魔物使いが悪性霊体種をスレイブとする際に考えるべき事は……その毒の指向性を定める事だ。無理なく、彼等の意志で戦ってもらう。行動してもらう。やる気を出させるというのは……そういう事だよ」
「毒の指向性……ですか」
そうだ。
要はその決して消し去れない要素を、マスター側が如何に有効活用するのか? そういう話。
慣れれば悪性霊体種ほどに使っていて面白い種もない。
「そうだ。彼等の一番の強みは――その爆発力だよ。同じ霊体種である善性霊体種と比べても上がり幅が非常に高い。その身に煮えたぎる欲望と命令が一致した時、彼等は本来の実力を大幅に上回る力を発揮できる」
逆を言えば、欲望と一致しない命令について、彼等は本来の力すら発揮できないが、悪性霊体種は長所を伸ばせば欠点もおのずと克服される。
そこでようやく、僕は本題に入った。
「リン、僕は大規模討伐中もアムの事を君に任せたいと思っているんだ」
「え……」
予想外だったのか、リンが僅かに目を見開く。
リンは大規模討伐参加のための下限ランクを満たせていない。
恐らく、大規模討伐では僕に返却すると思っていたのだろう。
それは勿体無い。スキルを使える魔力があるだけ、リンには成長の余地がある。
確かに、慣れないスレイブを連れての格上の依頼は非常にハードルが高いが、試練で人は磨かれるのだ。
きっと、リンの限界は彼女自身が思っているよりも遥かに高い。
「不満? もちろん、問題があるようなら無理強いはできないけど」
「え……えっと……不満とかじゃないんですけど……」
リンがきょろきょろと忙しなく周囲を見渡し、一言、本当に自信なさげに言った。
「その……危険なダンジョンでアムの事を扱うのに自信がないというか……」
「……誰だって初めは自信がないもんだし、根拠がない自信を持っているのもそれはそれで問題だ」
解析する。観察する。言動には育った環境と経験が如実に反映される。
自暴自棄に広谷と契約して失敗した経験が尾を引いているのか。
「その慎重さはリンの武器だ。後、必要なのは……踏み出す勇気。大丈夫、リンなら上手くやれる。失敗してもフォローしてくれる仲間だって居る」
「……出来ます、かね?」
「もちろん」
自信を持って答えた僕の言葉に、リンの自信なさげな双眸がやや緩んだ。
そうだ。それでいい。立ち止まっていても、いい事は何もない。
僕達はプライマリー・ヒューマンだ。探求者という職につく上で、その事実は大きなハンデとなる。
能力値が低いのはもちろんの事、一番のハードルになっているもの。
それは『寿命』だ。
有機生命種の寿命は他種と違って基本的にかなり短い。
霊体種や精霊種には寿命と呼べるものが存在しないし、無機生命種の殆どには肉体が劣化しないように定期的に整備する本能が存在する。そして、有機生命種の中でさえ、プライマリー・ヒューマンの寿命は短い方なのだ。
生き急がねばならない。それだけが僕達が上に行ける唯一の方法だ。
慎重に、時に大胆に、恐怖を噛み締め、命をベットし。
他種と比べてはならない。他種のように探求してはならない。
燃えあがる情念を燃料に前に進め。死に追われるように走り続けよ。欲望を全て満たすその時まで立ち止まるな。
リンが少し照れくさそうに自らの髪に触れた。くるくると先端を指先に巻きつけながら聞いてくる。
「ちなみに、私に出来るか出来ないかは置いておいて……アムのやる気を出すコツってありますか?」
「抱き締める事だね。契約の条件に入っている位だし……彼女はとても欲望に忠実で、とても分かりやすい」
「抱き締める……事?」
頬を僅かに朱に染め、戸惑いの表情を隠せないリンにノウハウを伝授する。
「悪性霊体種に有効な手段は身体的な接触だ。彼等は変な話――愛される事に慣れてない。特に、人の中で生きてきた悪性霊体種はそうだ。だから抱き締めるだけで彼等の心は容易く揺れ動く」
心の揺らぎこそが、本来天敵である彼等につけ込む大きな隙となる。
この辺り、同じ悪性霊体種を相手にするクラスである死霊魔術師がレイスと結ぶビジネスライクな関係との大きな差異である。
困ったようにリンが頬を掻いた。
「……それは、つまり、その……たらしこめ、と?」
「違うね。愛情を人よりも多めに注ぎ込め、と言っているんだ」
「……なるほど」
小さな納得の声をあげるリン。
これは、わかっていないな。
感情に訴えるという意味で、僕達の立ち位置はレイスに対して非常にいい位置にいる。
彼等は天敵であり、天敵であるが故に僕達に隙を見せやすい。そしてそれは時に、非常に有効な錯覚を引き起こす。
「リン、僕が自身の研究の結果知った事を教えてあげよう。僕達にとって悪性霊体種は天敵だ。ならば逆に、彼等にとって僕達はなんだかわかるか?」
「え……っと……」
リンはしばらく首を傾げ、
「有利な……相手? とか?」
「そうだ。言うなれば彼等にとって僕達は――捕食対象だよ。そして、場合によってはその要素が僕達、魔物使いにとって非常に有利に働く」
「……油断を誘えるから、という意味ですか?」
彼女は聡い。教えがいがある。ただし、理解するのとそれを実行出来るかどうかはまた話が別だ。
僕の教えるノウハウは僕自身の性格に沿って構築されたものだ。いくらリンが僕を尊敬しているからといって、そのままでは間違いなく使えない。
しかし、知っているという事は武器になる。
「かなり近いね。正確に言うのならば――ああ、そういえば僕はアムを抱きしめた事がある。アム本人にリンから振られた話を聞き出した時だ。その時、アムの鼓動は高まっていた。これが何故だかわかるか?」
「……」
リンは何も答えなかった。きっと、自分の言葉が当たらないという事がわかっていたのだろう。
いや、当たらないという事を知りたくなかったのかもしれない。
かつて僕の師は僕の手法を外法と呼んだ。僕のノウハウは勝つためのノウハウ、先に進むためのノウハウだ。きっとそれは一般的な感性とはかけ離れている。
でも恐らく、その手法自体は悪く無い。要は使う側がどのようにその知識を扱うのか。
僕は唇を一度舐めて、リンに教えてあげた。
「答えは――捕食衝動だ」
反応を見せないリンに続ける。
「その時、アムが感じていたのは、まさしく僕という『魂』に対して抱いた食欲だよ。そしてそれは――恋に似ている」
物事の本質を見誤ってはならない。
本来、あらゆる種に取って他種というのは異質なものだ。
例え他種に好意を抱いたとしても、その心の根幹には線引――抑制が存在する。
無意識に存在するそれを抑えるプライマリーヒューマンの持つ嫌悪値増加抑制の特性は魔物使いにとって、もしかしたら最適なものなのかもしれない。
そして、その特性とレイスの本性が交じり合った結果、その感情が発生するのだ。
「フィルさん……それは――」
「有効に使うんだ。生まれながら能力にハンデのある僕達に許されたそれは、『切り札』になりうる。プライマリー・ヒューマンの有する他者からの敵意を抑える種族スキルは使うにしろ使わないにしろ、大きな武器となる」
他種は肉体こそ僕達よりも遥かに強くとも、その心は身体能力程に差異がない。
リンが唇を歪め、僅かに目を潤ませる
「ふ……不誠実、では?」
「かもしれないな。だから、誠実にそれを扱う」
「意味が……意味がわからないです」
耳を押さえ、首をいやいやと左右に振るリンに続ける。
僕の言葉はきっと、リンが想像したことのない類のものだったに違いない。
「ただ心の隙につけこめばそれは不誠実だろう。レイスと何ら変わらない、ただの悪性だよ。だから僕達は常に誠実にそれを扱わなければならない。それが……信頼という奴だよ。全ては僕達の手腕とモラルにかかってくる」
かつて、師を共通とする僕の相弟子はそれを見誤った。だから僕はそれを徹底的に糾弾し罰した。
規範に反する事は百も承知だ。だが、知らねばならない。知っておかねばならない。
「アムが……可哀想です」
「リン。この情報をどう扱うのかは……リン次第だよ。僕はこの知識を最大限利用し、その代償として富と名誉と力を与える。それが僕の――愛だ」
持って生まれた性能の差を埋めるには方法がいる。
愛や運や勇気など不明瞭なものだけで先に進めるのは才能あるごく一部だけだ。
まくし立てるようにリンの頭に言葉を刻みつける。
「スレイブと話し合え。自身の長所を見極めろ。手法を確立しろ。残酷になれ。愛情深くなれ。どのような魔物使いになるかは――自分で決めるんだ」
「……はい」
積み重ねて来た覚悟、知識、経験は個々の行動に現れる。
きっと今与えたこの知識はリンの行動に大きな影響を及ぼすだろう。そして、リンに与えた影響はアムにも伝わるに違いない。
すっかり温くなってしまったお茶を入れなおすべく、僕は席を立った。




