第二十二話:なんて馬鹿な事を
レイブンシティ近郊のほぼ全ては荒れ果てた大地である。
生息している機械種の残骸、熱と油と動力たるエネルギーは大地を殺し、植物すらほとんど生えぬ広範囲の荒れ地を創りだした。
そのような地に通常の生き物が住み着けるわけもなく、また、いつの間にか蔓延った多種多様な機械種の魔物が強力な力を持つこともあって、かつてレイブンシティ近郊を根城にしていた生態は、機械種の割合が少ない東に撤退しつつある。
今や、機械種の天敵と呼べるのは探求者くらいしか存在しない。
「ふんっ!!」
裂帛の気合を込めて、広谷が目前に迫る機械種に刀を振った。
基本的に頑強な金属で作られた機械種の防御力は際立って高い。
二メートルある広谷と同程度の体長を持つ蜘蛛型の機械種は八本の脚を器用に使い、荒野を時速六十キロ近い速度で動く。その重量、速度によるエネルギーはただそれだけで大抵の生き物ならば押しつぶせる。
幅広の刃と蜘蛛の脚がぶつかり火花を散らす。
あまりの重さに踏ん張った広谷の脚が軋みずるずると地面を噛んだ。
だが、同じく機械種の素材から打ち込まれた特殊合金の刀はその程度の衝撃で折れる程、柔ではない。
「うおおおおおおおおおおおおおお!!」
半分とは言え、鬼種の、悪性霊体種の力が混じった咆哮が空気を揺るがせる。
膨張した二の腕が、握りしめられた刃が蜘蛛の巨体を押し返す。
蜘蛛の突撃が完全に停止する。四方から襲いかかる脚を、翻った刀が迎え撃った。
広谷の得た『侍』のクラスは速度に特化したクラスであり、攻撃力への補正も勿論あるが、それ程高くはない。
如何に広谷が筋力の高い鬼種であったとしても、金属の身体はやすやすと切り裂けるものではない。
蜘蛛を模した複眼――感情の見えぬ複眼に不気味な紫電が奔る。
八本の脚の中でも発達した前脚二本――その先から生えた鎌が大きく振りかぶられる。
その瞬間を狙って、リンがスキルを行使した。
「栄光たる兵の導き」
戦士系のクラスを持つスレイブに対して攻撃力と速度に補正をかけるスキル。一端の魔物使いならば誰でも使える戦士の加護が透明な光となって一瞬で離れた距離で戦う広谷の身体に染みこむ。
まるで高純度の燃料を注ぎ込まれたように広谷の魂が輝きを増した。
攻撃速度が、鋭さが別人のように跳ね上がる。もとより、彼の力量は低くはなかったが、それでも今の広谷の斬撃は明らかに数秒前までのそれを見てはっきり分かる程に凌駕していた。
それが魔物使いの戦闘でのスタンス。
契約したスレイブにしか施せない魔物使いの加護は加護を専門とする他クラスのそれを凌駕する。
基本的に付与系のスキルは対象の範囲が狭ければ狭い程効果が大きい。
ある程度汎用的に使える僧侶や付与術士のそれと比べて、魔物使いの付与スキルは細分化されすぎているが故に強力で、それ故に魔物使いは己のスレイブを選び、長く行動を共にするのだ。
それは一種の絆による力とも言えた。
重い音が二撃響く。鋭利な切断面。両断された二本の鎌が空中を舞い、地面に突き刺さる。
広谷の口元が残虐な笑みに歪む。加護が浸透した刃は自身よりも遥かに厚い刃を両断したにもかかわらず傷一つない。
蜘蛛が奇妙な音声で咆哮する。同時に、広谷が地面を蹴った。
速度を上げるため身を低くし、刃を後方に向ける。左右から振り下ろされた脚を、横から飛び込んできた金髪の少女が跳ね上げた。
装備している白銀の剣こそ立派な拵えだったが、その様は熟達した者のそれではない。
しかし、一瞬攻撃を止めるに十分な力があった。
真正面の敵との戦闘に集中している最中、今まで意識していなかった方向からの攻撃に、蜘蛛の動きが一瞬止まる。
明確なその隙を逃すわけもなく、広谷が刃を振り上げた。陽光に煌めく刃がスキルの発動に一瞬色を無くす。
侍の攻撃スキル――『斬鉄』
装甲が厚ければ厚い程に深く切り裂くスキルが、加護を受けて鋭さを増し、蜘蛛の頭部を一直線に切り裂いた。
最も硬度の高い頭蓋を軽やかに切り抜いたそれは思考の一部を担う回路に至るまで、深く切り裂き破壊する。
存在核さえ残っていれば、まだ『死んで』はいない。
だが、思考が制限され動きが鈍くなった以上、もはや蜘蛛は敵ではなかった。
蜘蛛が最後の藻掻きを見せる。残った六本の脚が全力で地を穿ち、大地に穴を開ける音が連続して轟く。明確に誰かを狙っているわけでもないそれは、死への最後の抵抗だった。
最後の足掻きを冷静に躱し、振り下ろした刃が腹の最奥に含まれた存在核を破壊する。停止する機体。
機械種の身体に流れる特殊な『血液』で濡れた刀身を布で拭き取り、広谷は刀を鞘に収めた。
「ふぅ……こんな所か……」
「お疲れ様!」
遠く十メートル以上離れた位置で指示を出していたリンが駆け寄った。
自らの全身を検分する。気づかないうちにダメージを受けている可能性も低くはなかったが、幸いな事に広谷の身体に傷はなかった。
ただ日に焼けた鬼種特有の褐色の肌にうっすらと汗が浮いているのみだ。
「どうだった?」
「問題無いな……やはりサポートが居ると居ないとでは効率が段違いだ。二匹までなら同時に相手もできるだろう」
ちょいちょいと蜘蛛の死骸を脚で突っついているアムが振り返る。視線に気付いたアムが自信満々に応える。
「大したことない……かな。私はフィルさんのスレイブよ?」
「……はぁ……」
自信満々の友人の姿にリンは深い溜息をついた。
アムはナイトメアだ。悪性霊体種の中でもB級に分類される強力な悪霊。
かの有名なヴァンパイアと同格のその存在は、しかしリンの眼にはおっちょこちょいの女の子にしか見えない。
一見、アムの行動は、性格は、昔リンと組んでいた頃と何一つ進歩していないように見える。
「……この辺りの機械種は装甲は勿論だが攻撃力もかなり高い。油断するなよ」
「大丈夫大丈夫、勉強してますから! B608モデルスパイダー……B級以下の機械種の装備のほぼ大部分は――」
アムの姿が一瞬薄れる。スキルの起動だ。存在感が薄くなり、背景が透ける。
にこりと微笑んだまま、今度は手の平でモデルスパイダーに触れ、そして――
あっさりと装甲をすり抜けた。
「――B級以下の機械種の大部分の装甲は霊体種の対策をしていない。だからどんなに攻撃力が高くたって私には『通じない』」
ナイトメアは半人半魂の広谷――ヘルフレッドと異なり完全な霊体種だ。種族スキルである『透過』は一部例外を除いた万物をすり抜ける。
これは大きなメリットだ。何しろ対策を持たない機械種はどうあがこうが透過したアムにダメージを与えられないのだから。
アムが鼻歌を歌いながら、討伐証名の採取のためにモデルスパイダーの残骸にメスを入れた。
その様子に、リンの背筋に冷たい何かが流れる。
フィルさん、アムにいらない知恵つけすぎです……
フィルはアムの事を徹頭徹尾鍛えあげる予定だったはずだ。それが、何の因果か中途半端でリンが預かることになってしまった。
今のアムは危なっかしい中級者だ。小手先のテクニックと覚悟を伴わない知識。そして、SSS級探求者のスレイブなのだという無駄な自負。
確かにかつての彼女と比べれば比較にならない程に強くなっているが、その精神性は何も変わっていない。
自ら修行のために離れることを決めたというのに、何も変わっていない。
リンは、はらはらしっぱなしだった。
A級の機械種の討伐経験があるという話を聞いていたので油断していた。
もちろん、その話は嘘ではないのだろう。彼女の調子がとてつもなく良ければ倒せるだろう。
ただし、その調子を上げたのはアム自身の功績ではなく、多分そのマスターの功績なのだ。
その思考は、佇まいは熟達した探求者のそれではない。もちろん、探求者になってからまだ一年程度しか経っていないリンに指摘できるような事でもないが、それは素人目に見てもはっきりと気が急きすぎている。危険を危険と感じずに前に前に進もうとしている。進み過ぎようとしている。
リンのパーティはもともと、広谷とのペアだった。前衛に高い膂力と素早さを併せ持つ侍の広谷、後衛にそれを補佐する多種多様なサポートスキルを扱うリン。
そこにフィルから頼まれたアムを前衛に入れ、前衛二人に後衛一人。それなりにバランスのいいパーティ。
「ほら、アム。傷の確認をするわよ! そこに立って!」
「え? 攻撃とか受けてないけど……」
戦闘後のダメージの確認は探求者としての基本である。特にアムは前衛、後衛であるリンより遥かにダメージを受ける事が多いのだ。
棒立ちになったアムの全身を検分する。
アムの言う通り、リンの眼からも攻撃を受けたようには見えなかったがそれでも万が一という事がある。何より預かり物であるアムを傷つけたらフィルに顔向けができない。
完全な霊体種である事はメリットにもデメリットにもなる。アムの存在は不安定だ。
腕に触れ、体幹を確認し、足元まで簡単に見終えて、頷いた。
ダメージはないようだ。
「まったく、リンは心配性なんだから……」
アムが溜息をついて白銀の剣を鞘に収めた。
フィルさんに言いつけるわよ、という台詞を、リンは寸での所で飲み込んだ。仮初とはいえ、アムを任されている以上今のアムのマスターはリンだ。ならば全てはリンの手腕によって成されるべき。
「蟻は種類が多いが、一部を除いて能力はそれ程高くないはずだ。油断は出来ないがこのランクの蜘蛛が倒せれば足手まといになる事はないだろう。少なくとも、高ランクの探求者の補佐くらいはできるはずだ」
「そう……ね。付与スキルさえ使えばA級の機械種でもなんとか対抗できるし……」
リンの探求者としてのランクはC。
灰王の零落に参加するにはそもそもの最低限のラインさえ満たせていない。スレイブは強力だが、準備はしてし足りぬという事はなかった。
何よりも問題はアムの方だ。契約を結んでいる広谷ならばリンの魔物使いの付与スキルが使えるが、預かっているだけのアムには使えない。可能な限り一塊で動く予定だが、いざという時にできるサポートが限られてしまう。
「やはり、アムにはリンの護衛を頼んだほうが――」
「……え? いや、私にも蟻くらいなら――」
アムは今の所、猪突猛進だ。つっこんで攻撃、それしかできない。
強力な種族スキルによる付与に強力な身体能力を活かした近接攻撃。今の彼女にできるのはただそれだけだ。他の固有スキルも使えなくはないが、いざという時に頼れる程練度がない。
それだけでも確かに強力ではあるが、そんな事をしていたらアムの命がいくつあっても足りない。モデルアントと一口に言っても種類は多岐にわたる。その中には霊体種の透過が効かないB級以上のランクを持つ蟻も数多い。
パーティで重要なのは役割分担とバランスだ。リンのパーティで最も能力値が低いのは他ならぬプライマリーヒューマンのリンだった。
ならばその護衛を置くというのは理にかなった話。もとより魔物使いというのは本体が基本的に弱点となるから、複数のスレイブを得た際は一人は護衛として側に置くものなのだ。
本来ならば命令してでも辞めさせるべきだったが、フィルのスレイブという事実がその手を鈍らせる。リンにはアムが蟻の群れにつっこんで八つ裂きにされる様が簡単に予想できた。
ああ、もうそんな事になったら私はどうフィルさんに顔向けしたらいいのよ!
「アム、いい? いくらフィルさんの意志で大規模討伐に参加するからといって、私達の役割は補佐なのよ? 絶対に前に出ない事、上位の探求者の命令に従う事、これは絶対よ?」
「わかってるって!」
わかってない。絶対にわかってない。
今までの経験的にリンは知っていた。こういう状態のアムはまったくもって信用ならないのだ。
そわそわしながらアムがリンの方に顔を向ける。
「それで……リン、次は私にメインアタッカーを……」
ほら、すぐこれだ。
「広谷に勝てるようになったらね」
「う……むぅ……いじわる……」
アムが拗ねたように呟いた。
でも、成長している所もある。
やるなといったことはやらない。それはきっと成長だ。
まだ不安定だが、アムにはポテンシャルがあった。だからこそリンは初めのスレイブにアムを選ぼうとしていたのだから。
そしてそれは徐々に発揮されつつある。後は考え方の問題だった。
大規模討伐依頼『灰王の零落』まで後一週間。
戦術の調整はせめてその三日前までに終わらせなければならない。
作戦は変わらずメインアタッカーとして広谷、遊撃のアムに補助のリン。
可能ならば蟻を相手に確認したい所だが、既にモデルアントの機械種は王の命の元、一所に集結しているという情報が来ていた。高レベルの探求者ならばともかく、たった三人のリン達でその場所に近寄るのはいくらなんでも危険過ぎる。
「広谷、調子は?」
「問題ない」
「アムは?」
「……やれやれ、リン。私はまだノーダメージだよ?」
……ならばよし。
深呼吸をして心身を充実させる。頬を叩いて気合を入れなおす。
マスターの不安はスレイブに伝わる。それは魔物使いとして知っておくべき鉄則ではあったが、一般のパーティのリーダーとメンバーの関係にも言えた。
今回の討伐対象であるモデルスパイダーはB級に区分されるに相応しい力を持っている。
機械種であるが故の硬さと、八本の脚による高い機動力。毒針と糸による独特の攻撃手段。今まで単純にぶん殴って戦って来た者にとっては大きな壁となる存在。既に情報は得ており、戦闘経験もあるとは言え、油断できる相手ではない。
広谷がリンの意志を汲み取り、再び討伐対象を探るべく、目を瞑り、意識を集中し、周囲の気配を探る。
アムが不意に困ったような声を上げた。
「……あれ? ねぇねぇ、リン」
モデルスパイダーの解体をしていたアムの手元を覗きこむ。
数センチ程の装甲は既に分解ペンにより外され、内部には奇々怪々な装置が所狭しと詰まっていた。魔力を通すための導管とリンの知識程度では何の用途かわからない計器。
機械種の解体は他の生き物の解体よりも遥かに特殊な知識が必要とされる。
完全に分解しようとするのならばそれを専門に学んだ者が必要となる程に。だから、機械種の討伐証明は基本的に分解しやすい箇所になっているし、だから、機械種の素材の、特に中枢を司る部分は高額で取引されているのだ。
モデルスパイダーの場合の討伐証明は存在核だ。胸部の奥深く、最も硬度の高い装甲の奥に設計されたそれは、装甲が厚いだけでその周囲に他の装置などが取り付けられておらず、分解ペンさえあれば素人でも簡単に取り外せる。
ましてや、今回は広谷がその装甲を破壊しているのだ。超初心者でもできるだろう仕事。
「……アム、存在核はそこにはないわよ」
「いや、知ってるけど……」
不要な導管を破ったことにより溢れでた魔力が分解ペンを伝いアムの手の平に流れ、ナイトメアの持つ生来の高い魔力耐性に弾かれる。耐性のない種族であったのならばダメージを受けていただろう。反発する際に発生した明らかに身体に悪そうな黒い光に、リンは顔を顰めて一歩引いた。
アムは平然としている。首をかしげながら導管を恐る恐る切り裂いた。
再び黒色の発光がアムの手元を照らした。
「ちょ……アム? 存在核は胸部よ? そこじゃないわ。本当にわかってるの?」
「いや……知ってるけど……」
二メートルの金属の身体を縦横無尽に動かす程のエネルギー。アムに耐性がなければ既に死んでいたかもしれない。
止めたいが、耐性のないリンには無理だった。触れた瞬間にエネルギーはプライマリーヒューマン生来の貧弱な身体を破壊するだろう。
「あれ? まさかリン、知らないの? モデルスパイダーの一番高価な部位は――」
「いやいやいや、勿論知っているわよ! っていうかそれ一緒に調べた事よね? 勿論、知ってるけど――」
ドヤ顔で講釈し始めたアムを止める。
モデルスパイダーの最も高価な部位はその糸の射出のスキルを司るスキルチップだ。しかし、その部位はスパイダーの動きを制御する多くの装置が絡み合うその奥に設計されていて、素人に剥ぎ取れるものではない。それをアムは自らの身体が頑丈な事にかこつけて好き勝手にいじっていた。
「アム、採取するのは存在核だけでいいから今すぐやめて!」
「あれぇ? 前見たのと違う、どうやって分解すればいいんだろう……ねぇ、リン、知ってる?」
「知らない! 知らないから!! もうやめて!」
悲鳴のようなリンの叫びを聞いてもアムは首を傾げて指を動かすばかりだった。
手元から視線を外し、リンの方を向きながら言い訳のように言う。
「いや、でもフィルさんはスキルチップは高いし、ちゃんと剥ぎ取らないと新たな機械種に利用されちゃうからちゃんと剥ぎ取れって――」
「……それ、前回分解したのは誰?」
「フィルさんだけど、私も側で見てたから私でも……」
「ちょ、今すぐ離れ――」
「リン、危ないッ!!」
広谷が一歩でリンを抱きかかえ、二歩でアムから十メートル以上離れる。
「……え!?」
アムが呆気に取られたような表情でそれを見送る。
手元の光が今までの数倍強く瞬く。笛の音のような奇妙な音が響く。
間の抜けたアムの表情を光が包み込んだ。
大地が大きく揺らぎ、金属の礫が嵐のように周囲に撒き散らされた。背中を連続で打ち付ける衝撃に広谷が低く呻く。
スパイダーの死骸が爆発したのだとリンが気付いたのは、小型の太陽のような光が収まった後だった。
荒野に出来上がった小規模のクレーター。スパイダーの死骸は欠片すら残っていない。
「……へ?」
「っ……なんて馬鹿な事を……」
地に伏せて爆風をやり過ごした広谷が呻く。ダメージはゼロではないが、鎧に阻まれていたため行動を阻害されるような致命的なダメージはない。
発生した事態を理解し、慌てて広谷の腕の中から離れる。
青ざめた表情でクレーターに近寄り、その中央部の身が焼けるような熱に後退った。
「……自……爆……?」
「……知識もないのに分解しようとするからだ。アムめ、そんなに命を無駄にしたいのか……」
「あ……あああ……ア、ムが……死んじゃった……?」
跪き、呆然と惨状を見る。
機械種が残らぬ程の爆発。一番側にいて、真正面から爆発を受けたのはアムだ。金属の塊でも耐えられぬ爆発をアムが耐え切れる道理がない。
脳内を様々な考え、感情が廻る。アムとの出会いやアムとの探求の日々、別れに再会までまるで走馬灯のように。
僅かな油断による致命的なミス。徹頭徹尾アムが悪いとは言え、パーティのリーダーはリンだ。
これまでの事、これからの事。何より、アムのマスターになんと釈明したらいいのか。
色の消えた眼で停止するリンの側で、広谷が難しい表情をして腕を組んだ。
「……フィルの奴、仕込んだな。いや、そのせいで今のアムがあるのか……それにしても――酷い。足手まといなんてもんじゃ無いぞ……」
「広谷……私……どうしよう?」
「……落ち着け、リン。奴は……生きてる」
「……生きて……え?」
リンが顔を上げたちょうどその瞬間に、空から人影が降りてきた。
四肢を使って衝撃を殺し、リンの目の前に降り立つ。
「……はぁ……びっくりしたぁ……」
「……え……あれ? ……え?」
平然とした顔でアムがぱんぱんと埃を払う。傷は勿論、衣装にも乱れはない。
間近で爆発を受けておきながら、リンよりも遥かに平然とした様子に、リンの思考が別の意味で停止した。
「……『透過』と『重力無効』……か。よくもまあとっさに展開できるもんだ。フィルの仕込みか……」
「うん。とりあえず危険を感じたら反射的にやるようにって何度も練習させられたから……あれ? リン、どうしたの?」
破片を『透過』で躱し、衝撃を『重力無効』で逃がす。もとより、霊体種は基本的に物理攻撃は効きにくい。
あまりにも乱暴な仕込みに広谷の表情が苦々しく変わる。単純な『生存能力』を伸ばすためだけの仕込み。
そんな練習をさせる暇があったらもう少しまともな危機意識を持たせるのに使ったらいいんじゃないか、という言葉を広谷は飲み込んだ。
そして同時に、アムを預ける事を頼まれた際に、フィルがリンに鞭を渡した理由を理解した。
僅か十日程度の期間では、ただひとつの動作を仕込むので精一杯だったのだろう。こうなる事をあの男は予見していたのだ。
へっぽこ駄スレイブ。如何な音に聞こえるSSS級探求者といえど、これを強化するのは並大抵の努力ではないに違いない。
それがまだ成り立ての魔物使いとなれば尚更の事。
さっそく大きな壁にぶつかった可哀想なマスターを促す。
「……リン、鞭だ」
「へ? ……あ、う……そ、そうね……」
死んでしまうよりは鞭で撃たれる方がマシに違いない。
決して使うまいと考えていた腰に下げられた鞭。フィルから受け取った、リンのランクでは本来持つ事適わない鞭を手に取り、紐の部分を右手で強く引っ張る。
ピシリという音に、アムがびくりと身体を震わせた。
「そう、これはアムのため……アムのためなのよ……このままじゃこの子、きっとダメになるわ……全てはアムのため……」
「あの……リ、リン?」
鞭の練習はしているが、物分かりがよくなった広谷を撃つ機会はまずないため、リンが生き物を撃つのはこれが初めてだ。
よもやその相手が他人のスレイブであり、そして友人となるとは。意味不明な運命にリンはもう泣きそうだった。
反射的に透過をしようとして、リンの持つ鞭の輝きにアムは青ざめた。
『鞭だね。スレイブを調教するための。特殊な素材で出来てるから、『透過』を使用したレイスやスピリットにも当たるんだよ』
フィルの言葉が脳内に蘇る。そして、アムには何故かわかった。その鞭が偶然リンが同じものを購入したわけではなく、フィルの持っていたあの鞭だと。
「悪い事は悪いとちゃんと教えないと。パーティを危険に晒すような子にしちゃいけない、これは躾よ、躾。落ち着いて、リン。フィルさんからもちゃんと許可は貰ってるし……私なら――やれる!」
「リ、リン? あの……こ、今回は誰にも被害がなかったわけだから――」
アムが後退る。リンが一歩踏み込む。広谷は周りを警戒した。
「アム、ちゃんと私の指示に従わなきゃだめよ? 私がこのパーティのリーダーなんだから」
「ご、ごめんなさい、私が悪かったです。私が悪かったですからぁ!」
アムの謝罪を断ち切るように、鞭の先端がぶれた。
腕全体と手首のスナップを使って振った鞭。音速を突破した事で鋭い音が響いた。
「ッ……危な――」
だが、音速近い鞭の速さも、人ならぬアムに取っては避けられる程度しかない。
ましてや油断していない現状、鞭の扱いに慣れていないそれが当たる道理がない。
反射的に避けたアムにリンが引きつった笑みを向けた。
「……アム? 避けちゃだめよ?」
「!?」
襲い掛かる鞭の先端。あたっても問題はない。魔物使いの鞭が戦闘用ではなく調教用である以上、多少痛みはあるがダメージの残るものではないはずだ。だが、アムは避けた。
複雑な軌道で襲いかかる鞭の先端が、集中したアムには止まって見えた。斜め上から襲いかかる鞭をステップを踏んで避ける。先端が地面にあたり甲高い音をたてた。
「……くッ!!」
鞭は剣や刀と比べて、最低限動かすだけでも高い技術力を必要とする。
止まっているものならば高い精度で当てられるリンでも、回避しようとするアムには当たらない。ぴょんと小さく飛んで足元を凪いだ鞭を躱したアムが、屈んでリンの顔を覗きこんだ。
「リン、やめといた方がいいよ。どうせ当てられないから」
「くっ……こ、この娘は――」
嵐のような連撃をアムは全て躱した。
アムは知らない事だったが、鞭を躱される事は魔物使いにとって酷く屈辱な事だった。スレイブを御せていない証だからだ。
リンの顔色がショックから怒りでリンゴのように真っ赤に変わる。
怒りは腕を鈍らせる。例え気合が入っていたとしても、いや、気合が入っているからこそ命中しない。
ただ無意味に空を切ること数十撃、そろそろまずいだろうと広谷が口を開こうとしたその瞬間、リンが手を止めた。
息一つ乱していないアムの顔を親の敵のように睨みつける。口元がわなわなと怒りで震えていた。
まさか一生懸命勉強した自分がこんな状態に陥るなんて――
我慢できず、リンは奥の手を使った。
「言いつける」
「……へ?」
涙の浮かんだ眼でリンは最後にもう一度鞭を叩きつけ、また躱されたのを見て叫んだ。
震えるような声。魔物使い特有のよく通る声で。
「フィルさんに言いつけてやるんだからっ!!」
「!? ちょ……待ってリン! 話を! 話をしましょう!」
荒野のど真ん中、魔物の縄張りのど真ん中で騒ぎ出した二人の少女を見て、広谷は深い深い溜息をついた。




