第十話:だって……お兄さん、おかしいよ
討伐証明を一個一個丁寧に取り出す。
大きな魔法を使ってしまったので、半分くらいは傷ついていた。僕はモデル・クリーナーの討伐証明――タバコの箱のような形をした、記憶装置をスイに渡す。
「フィル、全部集めたよ。これでいいのかい?」
「ああ、ありがとう……全部あるな」
続いて、皆に集めてもらったスキルチップを数える。
ここまで派手に破壊したのに、今度は三十個、全てのスキルチップが揃っていた。
それもスイに預ける。チップは小さいので、ぎりぎりでスイの道具袋に入った。
「で、どっちに行くんだい?」
「当然、奥だよ」
「……奥には何もない。主も既に討伐済み」
「どっちにしろ帰還時には船で帰ればいいだけでしょ? 行ける所まで行くのは――決して無駄な事じゃないよ」
「簡単に言うね、お兄さん。『天駆ける飛の船』ってすっごい疲れるんだよ?」
知ってる。
トネールの魔力だと一度使っただけで半分近く使うだろう。そもそも、何度も連続で使うようなものでもない。
「大丈夫、レベルが上がれば簡単に使えるようになるよ」
「……そういう問題じゃないんだけど」
ぶーぶー膨れるトネールを宥めた。
やれやれ、僕はついてきて欲しいなんて言っていない。それを決めたのは君達のリーダーだ。
いや、言っていないだけでついてきて欲しいかといえばついてきて欲しいんだけど……
先ほど行使して創りだした船を指さす。
「よし、じゃー行こうか……船に乗って」
「え!? 船で行くの?」
「そりゃそうだよ。歩いて行ったら丸一日くらいかかるでしょ。大体、討伐証明も全部揃ってるわけで」
「ま、まぁ、お兄さんがいいならいいけど……」
釈然としなさそうな表情をしているトネールを急かして、風の船に乗り込む。
狭い迷宮ならば無理だっただろうが、この迷宮は幅が広く、天井も広いため風の船でも余裕を持って移動できる。
迷宮内で乗る船は外で乗るよりもどこか感じ入る所が違った。それは僕の数年の探求者生活でも味わったことのない感覚だ。こういった新鮮味があるから例え命の危険があっても探求はやめられない。
地上よりもスピードを落として船が進み始める。
手すりにもたれ掛かるようにして眼下を覗く。
人っ子一人、クリーナー一匹いない静かな通路がただ漫然と存在している。レイスでも出てきそうな雰囲気だった。ただでさえ通路がやたら広いので、ガラーンとした印象を受けてしまう。
「誰もいないな……」
「ここは人気のない迷宮だからね。主も居ないし魔物も一種類しか出ない上に、討伐報酬も他の迷宮の魔物と比べて高くないし、採取できる部品も高いものがない。おまけに暗いしね。そりゃ誰も来ないだろ」
そりゃ人気が出ないのもわかる。
逆にセイル達がこの迷宮を探索しようと考えた理由が判らない。
「じゃーなんでセイル達はここに来たのさ」
「ああ、ここがこの辺では……一番簡単な迷宮だからだよ。ここで力試しをしてみて、いけそうだったら別の迷宮を探索しようと思ってたんだ」
「……なるほどね」
という事は、やはり僕はついてる。
一番最初にこの迷宮にこれたのは幸運だ。もし、セイル達と一緒に来れなければ僕はこの迷宮を後回しにすることになっていただろう。
船の片隅に座り込んだセイルと入れ替わるようにして今度はトネールがやってきた。
僕と同じように隣の手すりにもたれ掛かって下を見る。
船の操作はいいのだろうか?
いや、僕は別に全然構わないんだけど。
トネールの髪は風を編んだかのように透明なエメラルドグリーンに輝いている。ダブル・リンカーは決して珍しい種族ではないが、そこまで詳しく知っているわけではない。
トネールが珍しくぽつりぽつりと湿った声で尋ねてくる。
「ねえねえ、お兄さんさ、どうして自分が狙われると思ったの? 復讐に関係あるの?」
「……無関係だよ。僕が襲われると思ったのは……僕が気づいたからだよ」
むしろ今まで誰も気づいていないのが不思議なくらいだ。
「へー。何に?」
「……秘密にしておくよ」
そういうものは自分で考えるものだ。怠惰は度々、僕達の牙を鈍らせる。
不満そうな表情をするトネールに弁明するように言葉を続けた。
「もし、トネールも知っちゃったら、トネールも狙われる事になるからね」
まー、今日中に潰すつもりだがもしかしたらもしかする可能性もある。
僕の言葉が不満だったのか、トネールは膨れて言った。
「僕よりもお兄さんの方が弱いよ?」
「僕には常に仲間がついているからね」
僕は魔物使いだ。
彼らは臨時のパーティであり、もちろん仲間だが、それでもあえて区別するべきだ。彼女たちの誇りのために。
そう、僕達にとって最も頼れる存在はいつだって――スレイブだと相場が決まっているのだから。
私がいる限り、ご主人様は最強。
と、アリスの自画自賛の声が頭の中で響き渡る。
だが、アリスの言う通り、彼女は最強のスレイブだった。アリスを抜ける存在は早々いない。
ナイトウォーカーの生命力、生命操作の力は他の種族と比較して圧倒的な継戦能力と戦闘能力を与えている。燃費は悪いが、アリス以上に時間稼ぎに向いている存在を僕は今まで見たことがない。
だから僕は今ここにいることができる。
トネールが眼が一瞬きらりと光った。
「……お兄さんの中に?」
「……分かるの?」
エレメンタルとレイスは非なる存在だ。
僕の魂に憑依しているアリスの存在が、トネールには見えるというのか。エレメンタルに標準装備されているスキルではないはずだし、二重群霊の種族スキルでもないはずだ。特殊なクラスについていたりするのかもしれない。元素魔法のスキルしか使っていなかったので気付かなかったが……
……となると、トネールの情報を更新する必要がありそうだな。
トネールの眼には確信の色があった。
「勿論だよ……」
「そうか……わかるのか……」
間違いない。何らかのクラスを得ているのだろう。
僕は一時探求の事を考えるのを中止し、風を司る二重群霊の弟が選ぶであろうクラスについて予想する事にした。
*****
手すりによりかかり、腰を落ち着けた所でようやくセイルは一息ついた気分になった。
一度に三十体以上の魔物を討伐した記憶なんて、今までの経験を振り返ってもほとんどない。大規模な討伐パーティを組んで討伐を行った時くらいだろうか。だが、その時のセイル達の役割は上級探求者の支援だった。
探求者に取って最も求められているものは生存能力であり、場を見極める力であり、リスクを判断する力である。
それこそが長生きする探求者の秘訣なのだから、それは褒められこそすれ、貶される経歴ではないはずだった。
「リーダー、お疲れ。大丈夫ー?」
「何とかね……」
肉体面の疲労よりも、精神面の疲労の方が強かった。
だが、疲れているのはブリュムも同じはずだ。なんたって大きな魔法を使った上に水矢をしこたま打ち込んだのだから。同時に、感謝もある。ブリュムの援護がなければ、セイルならともかくフィルの方は殺されていただろう。
傍目に見て、フィルが生きているのはどう考えても奇跡だとしか思えなかった。
スイ――水精霊の少女もため息を付いて隅に座り込む。
いつもならば口では感情を表さないスイも、さすがに今の状況には閉口しているようだ。その口調には疲労が滲んでいた。
「勝てたから良かったものの……滅茶苦茶過ぎる……」
「ああ、スイもよく戦ってくれた。お疲れ様」
「……当たり前の事をしただけ」
その、パーティの和をひたすら乱しまくった張本人は、眠そうな表情で手すりに身体を預けて地上を見下ろしている。その表情には、あれほどの死地を乗り越えたというのに何一つ気負いというものが存在していない。
あんなに今にも倒れそうに膝を震えさせ、汗びっしょりで死にそうな表情をしていたのに元気なものだ。
「どうする? リーダー。今なら帰れるよ」
ブリュムの言葉の意味が、セイルにははっきりわかった。
風の船の制御はトネールにある。リーダーであるセイルが指示を出せば、進行方向を反転させて地上に向かっていくだろう。
それを止める手段はフィルにはないはずだ。
「……ああ、そうだね。でも、それでたどり着けるのは出口の直前までだ。外に出るには一旦降りて扉を開かなくちゃならない」
「……お兄さんを見捨てて行くっていう手もあると思うんだよねー、私は」
その言葉は、セイルに取っては予想外の言葉だった。
思わずブリュムの顔をまじまじと見る。
確かに、その全てが自己責任の一言で片付けられるとされる探求者の思考で考えると、今付き合っているのは余りにも人が良いと言えるだろう。
ブリュムは、自分が『らしくない』事を言っていると分かっているのだろう。罰が悪そうに、だけど、全く迷いない表情で言い切る。
「だって……お兄さん、おかしいよ。言ってることも、やってることも……全然力に見合ってない」
それはセイルも薄々感じていた事だった。
力はない。間違いなくない。逃げるだけでクリーナーの一体も倒していない。今でもセイルの眼に移るのは迷宮にいることがおかしいくらいに脆弱な存在だけだ。
だが、それにしてはあまりにもおかしい。
ブリュムが堰を切ったように言葉を続ける。小声で、しかしセイル達だけに十分聞こえる大きさで。
「ねぇ、リーダー。私達、お兄さんに何も言ってないよね? 戦闘スタイルも、スキルも、クラスですら」
「ああ。詳細には話してないな」
そもそも、戦闘スタイルはパーティにとってある程度秘匿する事項だ。スキルやクラスを知られるという事は弱点を知られるという事でもある。ずっと組んでいるパーティならばまずない話だが、臨時パーティでは最低限の情報を除いて、お互い教えない事すらある程に、それは重要なファクターだった。
だから、いくらアギさんの紹介であったとしても、セイルは言わなかった。ブリーフィングに参加していいのかと聞いてきたフィルの台詞も存外、的はずれなものではない。
そもそもの話、フィルは戦闘には参加しない予定だったのだから。
「あのお兄さん、全然『ない』んだよね。私とスイの水魔法を見ても、トネールの飛の船を見ても、リーダーの魔法剣を見ても、全然驚いてないんだよ。私達のスキルは、レイブンシティではあまり見ない珍しいタイプのスキルなのに。まるで全て『既知』であるかのように、冷たい眼で観察するみたいに見てるんだ。口では凄いとかさすがだねとか言っておいて……全然驚いてない。私とスイの広範囲攻撃魔法を見てすら」
「……確かに、フィルは僕のクラスも予想しているかのようだった」
思い出す。
火か土の付加を使えるか、と聞かれた時の事を。
付加は魔法剣士のスキルの名前だ。知っていなければ絶対に出てこない言葉だし、それまでの戦闘でも使用していなかった。
きちんと伝わっていることを確認して、ブリュムがさらに続ける。
「怖い……いや、得体が知れないんだ。別に、経験が厚い探求者ならおかしくない。私達の種族とか、リーダーの武器とか、今まで見たことがあるとか、そういった理由で予想できるというのは別におかしい話じゃない。けど、お兄さんは――凄みがないんだ。能力が上級探求者のものじゃないし、それは今見ても同じように見える。大体お兄さんは……若すぎる。絶対におかしいよ」
「……ブリュムの言いたいことも分かる。だけど、今すぐに引くわけにもいかないよ。フィルは僕達がたとえ引いても、一人で奥に向かうだろう」
それだけの覚悟が、意志がフィルの眼にはあった。
それが異様さを際立てていたのは言うまでもない。
事実、セイルは、圧されたのだ。その視線、言葉、そして何よりその『意志』に。
たった一人、自分より遥かに弱い人の身でより危険度の高い迷宮の奥に進もうというその気概は、セイルにある探求者としてのプライドを大きく刺激するものだった。
多分それは、生まれついて、脆弱な肉体しか持たないフィルが可哀想だとか、そういう同情を込めたものとは違う。
ブリュムはそのセイルの表情を見て、諦めたようにため息をついた。
「まぁ、リーダーがそういうなら従うよ。私も若干、気になってはいるしね」
「……ああ、ありがとう。だが、危険がありそうだったら……すぐに引き返そう」
「……引き返すだけの余裕があったらいいけどねー。あはは、お兄さんはともかく、リーダーに死なれちゃ困るよ?」
「死なないように全力を尽くすよ」
軽口だったが、ブリュムの言葉には本気で心配している色が見えた。
真剣な表情で答えたセイルに、ブリュムは言いたいことを全て言い切ったと感じたのか、口を噤んだ。
スイが後を継ぐようにセイルを見上げる。
「リーダー……私が見たフィルのギルドカードは……灰色……だった」
スイがフィルの落し物に気づいたのは、ただ偶然近くに座っていたからだ。
カードが落ちているのに気づいたのも偶然だ。スイはそれを見て、忘れかけていたフィルが探求者だったという事実をようやく思い出したのだ。
「灰色……Gランクの探求者か」
「……だと思う。フィルが触れていないから詳細な情報は見えなかったけど」
ギルドカードは持ち主が触れない限り詳細な情報は表示されない。だが、持ち主のランクくらいならカードの色で判断できる。
確かに、フィルの能力値ならばGランク――よくてFランク程度が相場だろう。勿論、能力だけで一概にランクを判断することはできないのだが。
「確かに納得できるランクではあるが……」
しかし、釈然としない。
スイが首を傾げる。
「……最近のGランクは皆あんな感じ?」
「……違うと思いたいが……」
Gランクが三ランク上であるDランクの迷宮をソロで探索しようとするか?
Cランクのセイルですら、迷宮を一人で探索するのは遠慮したい。
アクシデントが起きた時に対応できない事を考えると、リスクが高すぎるのだ。
そもそも迷宮探索でなくとも、ソロで探求なんて、余程の物好きか馬鹿じゃないとやらないし、わざわざそれを回避するためにギルドでパーティの斡旋のシステムがあったりする。
「何にせよ、この探求が終わったら一旦休みを取ろうか」
「賛成」
「そうだねー、大分疲れちゃったし」
ちょうどその時、フィルの横で何事か話していたトネールが戻ってきた。
この四人の中ではトネールが一番元気だった。飛の船の魔法は発動こそ膨大な魔力を要するが、発動してしまえば後は僅かな魔力で飛ばせるのだ。
「何か言ってた?」
「狙われてる理由は秘密だってー。僕が知っちゃったら僕も狙われるから、だって」
一番重要な部分を聞き出せなかったトネールがあっけらかんという。
ブリュムが呆れたように『弟』を見る。トネールとブリュムは二身一体とも言うべき存在だが、見た目はともかく性格の方には差異があった。
「いや、トネールの方が強いんじゃ……」
「んー……」
その言葉に、トネールの表情が曇る。
逡巡したように瞬きをしたが、すぐに顔を上げた。
「……お兄さんは、心の中に仲間がいるから大丈夫なんだって……」
「……そうか」
その言葉、意味にセイルは何も言えなかった。
心の中に仲間がいるから大丈夫。
実利を考えると言語道断な言葉ではある。理屈にもなっていない。
だが、人は論理のみで動く生き物でもない。それを一概に否定することはあまりにも重すぎてセイルにはできない。
一人、地上を見下ろすフィルを見る。何を考えているのか、黄昏れているような、今にも消えてしまいそうな儚げな表情でぼんやりと宙を追っている視線は、確かに悲劇を背負っているようにも見える。
さすがのブリュムもその言葉には出す言葉がないようだ。気まずそうにフィルに一度視線を向け、再び弟を見る。
「……ま、まあ……元気出して」
その言葉を聞いているのか聞いていないのか、トネールがぼんやりとした表情で一言こぼす。
「……僕、女の子になろうかな……」
「っ!? ゴホッゴホッゴホッ!」
ブリュムがいきなりの言葉、しかも信じられない言葉に息を呑み、呑み過ぎて派手に咳き込んだ。
スイも何を言っているんだ、こいつという眼でトネールを見る。まるで珍動物でも見るかのような眼だ。
セイルも唐突なパーティメンバーのカミングアウトに、フィルの事なんて頭からぶっ飛んでいた。耳を疑い、気のせいという事にしかけたが、すぐにトネールが続けた言葉に一縷の希望が打ち砕かれる。
「……僕、お兄さんの事、好きかも……」
「ト、トネ!? あ、あ、貴方、男でしょ!?」
ブリュムの人格が崩壊しかけていたが、トネールの内心はそれどころじゃなかった。
セイルが顔面を蒼白にしてトネールと、ぼんやりしているフィルを見比べる。確かに、フィルは顔はそこそこよかった。が、あくまでそこそこだし、多分トネールと二人並べたらトネールの方に軍配が上がるだろう。それに、性格まで知って好きになるというのは……ありうるのか?
「女の子にだってなれるよ……元素精霊種だもん」
「いやいやいやいやいや、早まっちゃだめよ!?」
ブリュムが半身が犯しかけている過ちに、必死な表情でトネールの肩を揺する。
身体のほとんどが物質ではない元素精霊種の性別は自意識で決まる。だから、性別が変える事ができるというのもあながち『間違い』ではない。
だが、それには既存の経験をぶち壊す程の強い想いが必要だった。なろうと思ってなれるものではないし、自意識が固まってからの年月が長ければ長いほど変わることは難しくなる。
トネールは性別が決まってから既に数十年生きているので、変わるのは絶望的と思えた。
トネールが熱のこもった眼でブリュムに話しかける。初めて見るその感情に、ブリュムは一瞬圧し負けそうになった。
「別に男性として好きだとかそういうわけじゃないんだ。……でもさ、お兄さんさ、僕とブリュムを見る眼ではっきり色が違うんだよね。船でスイを抱きしめてたじゃん? あの時も、抱き寄せる前に一瞬僕の顔を見て、あ、こいつはないなって眼で見たんだよね……」
「い、いや、でも、あの時そんな余裕は――」
「いや、絶対に見たよ。姉さん」
元素精霊種は有機生命種になかなか慣れない。文化が大きく異なっているからだ。
だが、その壁を超えた時、どうしてそこまで助けてくれるのかわからないくらいに彼らは人に傾倒する事がある。
精霊が人に手を貸すお伽話が星の数程あるように。
突然今まで呼ばれた事のない呼称をされ、ブリュムは目をむいた。
トネールはそれを気にする気配すらない。
「協力、してくれるよね?」
「え……や、でも、えええ?」
「してくれるよね?」
「や、いや、いや……だって……」
ブリュムが縋るような目でセイルを見上げる。
さすがにパーティリーダーだからといって、そんなデリケートな問題に部外者が首をつっこむことはできない。
後が怖かったが、セイルは見捨てることにした。
目を背けるリーダーにブリュムの表情が絶望に染まる。
トネールが熱に浮かされた表情でずいと顔を近づける。
至近距離で見る弟の眼は今までないほどに真剣だった。
「してくれるよね?」
半身なのに、さっぱり考えていることがわからない。ブリュムはただ怖かった。
スイを見るが、他者にあまり興味を抱かない水精霊はまるで他人ごとのようにブリュムを見返すのみだった。
ブリュムは四面楚歌だった。味方は誰も居なかった。いつも味方だったはずの半身はよりにもよって敵だった。
「し、て、く、れ、る、よ、ね?」
トネールの顔がさらに近づく。唇を突き出せばキスしてしまいそうなほどの距離で。
ついに眼前に視線の刃をつきつけられ、ブリュムは屈した。
もう駄目だと思ってしまった。フィルなんかよりも、今はこの弟の方がよほど怖い。
視線を横にずらしながら、耳を澄ましてもほとんど聞こえないような声で呟く。無駄だと知りつつも聞こえない事を祈って。
「……ま、まあ……暇な時なら?」
「……やったー、ありがとう! ブリュム!」
いつものように邪気のない声を上げるトネール。
崩れ落ちる打ちひしがれるブリュムに、スイが慰めるように肩を叩く。
こいつ……肝心な時に無視したくせに。
一瞬だけパーティメンバーに対して殺意が沸いた。もうこの世には神も仏もないのかもしれない。
もうブリュムの内心は探求どころではなかった。弟が新たな世界を探求しようとしているのだ。これが――現世。
初めてブリュムはこの世界が怖いと思った。常識が――通じない。
どうして自分たちは精霊界から出ようとしてしまったのだろうか。
その時、フィルが大きく動いた。
「トネール、ちょっと来てもらえる?」
「あ、はーい! ぐぇっ!?」
喜色満面の笑みでフィルに駆け寄ろうとしたトネールの首を手刀で反射的に打った。魔力の篭った手刀が元素核を揺らし、打ちどころが良かったのか悪かったのか、変な声を上げてトネールの身体から力が抜ける。
セイルとスイがぎょっとした眼でブリュムを見た。その視線に、文句あるの? とばかりに睨みつける。その視線には殺意が篭っていた。
大丈夫。トネールは……一時の気の迷いにやられてるだけ。
そう自分自身に言い聞かせながら、トネールの代わりに諸悪の根源の元に向かった。
心情的には魔王に立ち向かう勇者の気分だった。
「……『弟』に何か用?」
「ん……ああ。ちょっと探査魔法を使って欲しくてさ。トネールは?」
「……寝てるわ」
貴方も寝かせてあげましょうか?
と、ブリュムは本気で言いかけてなんとか止めた。
「どうしたの? 動揺してるみたいだけど」
「いや、ソンナコトナイヨー?」
「あはは、変なの」
裏返ってしまった声に大して特に何のコメントもなく笑われ、スルーされていらっとする。
自分でも理不尽だとは思っているが、目の前のこの男さえ殺してしまえばもしかしたら万事解決なのでは? という物騒な考えさえ浮かんでくる。
「境界線の向こう側の北の街にはさ――」
唐突にフィルが話し始める。
その眼は地上に向いたままだ。どこまで続くのっぺりとした黒い通路、闇の先は暗視のスキルがついていても薄暗くて見通せない。
「無機生命種の魔物はほとんど存在しないんだ。悪性霊体種と有機生命種が多くてその二種だけで七割を占めてる」
出てくる言葉は予想に反して全然関係ない話だ。
まるで世間話でもするかのようにたんたんと続く言葉に、ブリュムは仕方なく相槌を打った。
「へー、そうなんだ」
「何故なら彼らは――製造されなければ増えないからさ」
相槌を無視して、フィルはぼんやりと眼で続ける。
製造されなければ増えない。
その意味がブリュムにはわからなかった。
その他の種族だって――例えばヴィータだって、ある意味作らなければ増えないのだから。
「とても不思議だよね。それなのに、この地にはマキーナが溢れてる。いや、マキーナしかいない。その他の種族は……魔物は、どこに行ったんだ?」
「……知らないけど、ずっと西に行けばレイスの魔物しか出ない所もあるらしいよ?」
「…………」
フィルはブリュムの言葉を聞いて沈黙した。
何かを考えているかのように口元を隠す。
「後は……南の方に行くと幻想精霊種が構成する街があるらしいし……偶然じゃない?」
「そうだね……もしかしたら偶然かもしれない」
何だそれは。
反論されるかと思ったのに、肯定されてブリュムは呆気にとられた。
言っている内容は、今までブリュムが考えもしなかった事だ。
何故? どうして?
ブリュムがこの地にやってきた時には、既にこの地は機械種の支配する土地だった。
そうだったから、としか言えない。
しばらく、黙ったまま下を見下ろしてたフィルが、暗い声で言いづらそうに言った。
「ねぇ、ブリュム……」
「……何?」
くるりと顔がこちらを向く。
確かに、今にも消えてしまいそうなその儚い存在感を好きになる者がいてもおかしくないのかもしれない。儚げな美貌とまではいかないが。
とか何とか考えて、そこでブリュムは気づいた。
その顔色は暗闇だからとか、そういう理由とは関係なしに酷く悪い。
涙目でフィルが呻く。
「……揺れ、だめ。もう、吐きそう」
「え? ちょ……」
予想外の言葉に、ブリュムが慌てて駆け寄ろうとして、間に合わなかった。
盛大にフィルが嘔吐する。幸いな事に、いや、そのために下を覗きこんでいたのか、吐瀉物は下に吐き捨てられたので船が被害にあうのは免れている。
「ちょ……どうした? フィル!? 大丈夫か!?」
「……げほっ、ゴホッ、うえぇ……だ、駄目かも……やっぱり、船嫌いだわ。境界船……どうしよ」
フィルの異変に気づいて駆け寄ってくるセイルは、その様を見て顔色をなくす。
余りの無様さに、ブリュムは身構えていたことが馬鹿らしくなった。精霊種は基本的に気まぐれと言われている。トネールもすぐに目を覚ますだろう。
「あはは、お兄さん。こんな短い距離で何もしてないのに吐くなんて……今までどうやって探求者してきたのさ!」
「……周りが頑張った。ブリュム、水、欲しい」
「あはははははは……」
周りが頑張った。
冷静に考えてみれば、それはそうだろう。その身に秘めた魔力は決して経験や知識で覆せるような魔力の高さではない。
ブリュムの差し出した水を飲んでまた吐き始めたフィルを見て、ブリュムは本心から笑った。




