第四十一話:例え世界の全てが敵に回ったとしても
歯を食いしばった悲壮の表情で僕のスレイブが僕を見ていた。
その言葉に何の意味があるのか、その表情に込められている感情が何なのか、僕には全くわからなかった。
何故、どうして……そんな勘違いを……
視野が狭窄し、今にも落ちてしまいそうな意識の中、凄まじい勢いで心臓が鳴り響く中、なんとか集中をそちらに傾け意識を保つ。
十日前から記憶を振り返る。確かに、確かに僕はアムの前でアシュリーの名前を出してはいなかった。
それは、魔物使いのセオリーの一つ。
それ程大きな意味はないが、同時にあえて破る意味もない他愛のない常道。恋人の前で前の恋人の話しをしないように、魔物使いはスレイブの前で以前のスレイブの話をしない。
経緯を語る上で出さざるを得なかったアリスの名は仕方ないが、全く今回の件とは関係のないアシュリーの名を僕が出さなかったのは当……仕方のない事だといえるだろう。
「私が見たのは、決勝戦の前半分しか見ていませんが、あのスレイブは……明らかにアリスじゃありませんでした。だって、あのスレイブ、アシュリー・ブラウニーは――幻想精霊種なんですから。名前だとか容姿だとか、それ以前に……種族すら違う」
確かに、友魔祭の映像を見たのならばすぐにわかるだろう。彼女にはレイス特有の陰がない。
アムの言葉に、今まで黙っていた小夜が納得したように頷いた。
「……ああ……なるほど……それでフィルさんはスレイブ候補を探していた時に、元素精霊種か善性霊体種を望んだんですね?」
漆黒の虹彩が僕を射抜く。
驚くべき事に、機械種であり、論理的に思考する能力に長けているはずの小夜もアムの言う茶番を信じているのか、その視線から感じる感情は、酷く昏いものだった。
「確かに……不思議だったんです。有機生命種は自分と同じ種族だから避けるとしても、他の候補は機械種、エレメンタル、スピリット、テイル、レイスの五種類ある。レイスはもう契約済みだからという理由、機械種との契約は特殊だという理由から避けたとしても、選択肢は三つ残っているはず……」
そう、そう、全くもって、その通りだ。
僕は……契約を破らない。誠意を反故にしない。
「確かに……その、通りだよ。僕は、幻想精霊種は、既に契約済みだったから、避けたんだ。大切な、大切な、アシュリー・ブラウニーが、僕の大切な『魂の契約』で結ばれていたはずの、スレイブが、いるからーー僕が、今まで、探求者になってから、ずっと今まで、付き合ってくれた、彼女を裏切るわけがないじゃないか!」
僕の慟哭が虚しく工場内に響き渡る。
魔物使いのクラスを得る前から、弱い僕に付き合ってくれたアシュリーの姿形が脳裏に浮かぶ。無性に会いたかった。ただ、無性に。
だが、今この地に彼女はいない。
いるのは僕の世界を壊そうとする一人のナイトメアのみ。
「そう、冷静に考えると、フィルさんは魔物使いのセオリーを大切にする。種族ランクがSSであるナイトウォーカーを初めのスレイブとして選択するわけがない。なんたってフィルさんは、種族ランクが最低であり、魔力も筋力もその程度しかないプライマリーヒューマンですから、選ぶのはせいぜいが同じクラス。例えば、そう……G級幻想精霊種の……家事妖精とか」
「ま、待って頂戴、アム……」
リンが愕然としてアムと、僕を見た。
「家事妖精? 家事妖精って言ったの?もし仮に……いえ、ブラウニーが、フィルさんの、一番初めのスレイブだったとしたら、あの友魔祭で戦っていたのは……」
友魔祭。
マスターとスレイブの祭典。
魔物使いとしての矜持を、才能を、スレイブとの絆を見せるための……魔物使いのお祭り。
僕の脳裏にその光景が走馬灯のように蘇る。もう四年も前の事だが、あの栄光は未だつい昨日の事であるかのように僕の記憶に鮮明に刻まれていた。
「そう、そこがフィルさんの凄まじい所です。フィルさんは魔力も筋力もないけど、魔物使いの才だけは、天稟のものでした。フィルさんは……魂すら捨て打って、ブラウニーなんていう低級のスレイブと契約したフィルさんは……そのスレイブを竜種と一対一で戦えるまでに成長させたんですよ!」
違う。それは違う。僕は何もしていない。
ただ彼女が勝手に成長しただけだ。僕はただ側にいただけ。
種族ランクの差。才能の差。
持つものと、持たざるもの。
そんなものがなんだって言うんだ。僕はそれを、全員に知らしめたかった。
僕の、愛しいスレイブと共に。
ただ側にいるだけで
「ええええ!? そ、そんな馬鹿な話が!? ブラウニーって、ただの家事がちょっと得意なだけの妖精よ!? なんで、そんな種族が、友魔祭に出ているのよ!」
「それは……それこそが、恐らくは、全ての元凶です」
アムがそう、断言した。
全ての……元凶……?
「友魔祭への出場。恐らくそれは、アシュリー・ブラウニーの忠誠心、意志ですよ。ねぇ、リン。覚えているでしょ? あの映像……フィルさんのインタビューを聞いたでしょ? フィルさん、こう言ってたじゃない。『スレイブ』が勝手に応募したって」
「あ……確かに……確かに言ってた。あれ、冗談じゃなかったの!?」
冗談なんかじゃない。
自分から言ったのだ。一緒に友魔祭に出てほしい、と。
自らのスレイブの意志。長年のパートナーの意志。是非もない。
リンが、呆然と呟いた。
「でも、確かに。確かに、言っていたわ……そして、あのスレイブの忠誠心は、竜に立ち向かう勇気は、見事だった。私が……魔物使いになりたいと思った程に」
その言葉に、アムは大きく頷く。
工場内は、逼迫した雰囲気にあった。皆が、アムの声に飲まれ、何も言えずにいる。
「そう、アシュリーの忠誠心は凄まじいものでした。そして、あんなに眠そうにしつつも、見惚れるような笑顔でマスターに勝利を捧げると言い切ったあの表情にはーー間違いなく『忠誠』以上の感情があった」
忠誠以上。
さもありなん。
彼女は僕の命だった。きっと、魂の契約なんかで結ばれていなかったとしても。
アシュリーこそが、僕が魔物使いとなった、原点なのだから。
「そして、きっとそれが……アリス・ナイトウォーカーには気に食わなかった」
当たり前の事を当たり前に言うかのように、平然と続ける。
どれが真実でどれが嘘なのか、白と黒さえ解らない。
解らない。判らない。わからない。
一つ一つの言葉が刃となって僕の思考をかき乱す。
「どういう経緯でナイトウォーカーなんていう怪物をスレイブにしたのか、私にはわかりません。ですが、何でこんな事になったのかはわかります」
「何で……こんなことに?」
そうだ。何でこんなことに……いや。
まだだ。まだだ。こんなことになる理由がない。
僕は、何も間違えてはいない。ありとあらゆる行動を、気持ちを、スキルを、力を、アリスに捧げる。
信頼は極度に高く、アリスは間違いなく僕の最高のスレイブだったのだから。
そうだ。信じるんだ。自らのスレイブを。
例え世界の全てが敵に回ったとしても。
「フィルさんは……与えすぎたんです。アリス・ナイトウォーカーに。奈落を心中に有するレイス相手に。フィルさんの与えた薬は、きっとアリスにとっては極めて強力な毒だった」
「ど、どういうこと!?」
「……なんとなくわかったのです。そして、もしそれが本当だったとしたら……スレイブ失格なのです」
エティが機嫌が悪そうにそう吐き捨てた。
手がまるで何かを我慢しているかのように、ギリギリと『機神』の裾を掴んでいる。
「最後のピースがアシュリーでした。アリスの動機は……至極単純なものです。私もよーくわかります。ただ、ヒントがなさすぎて、フィルさんがアシュリーの影すら見せなかったから気づかなかっただけで……」
「……焦らさずに教えてもらえるかい? SSS級の魔物使いが、そのスレイブが、主を裏切るに足る程の理由とは……何だ?」
ランドさんの言葉に、アムが昏い瞳を向けた。
自分よりも遥かに弱いアムの視線に、ランドさんが威圧される。
しかし、すぐにアムは僕の方に再度向き直った。
濁った沼の底のような、淀んだ瞳。アリスのそれによく似た美しい眼。
そして、アムはあっさりと答えを口にした。
「アリスの動機は……嫉妬です。決して敵わない絆で結ばれたアシュリー・ブラウニーとフィル・ガーデンに対する、醜い『嫉妬』なんですよ」
「嫉……妬?」
ランドさんが愕然と呟く。
わからなかった。言葉の意味がわからなかった。
数秒かけて脳がその言葉を変換した時、その意味は、僕を確かな衝撃を持って叩きのめした。
頭が、まるで釘を打ち込まれたかのように痛む、。胃の中からせり上がってくる吐き気。
そんなもの、その言葉の『ありえなさ』と比べたら取るに足らないものだ。
「!? ば、馬鹿……な。そんな、わけが、ない。」
そんな……わけがない!
ああ、そうだとも。アリスが、僕に、嫉妬なんて抱くわけがない。僕は、全てのスレイブに平等に接していたんだ!
平等に。レイスであろうと、テイルであろうと、最初のスレイブであろうと、二番目のスレイブだろうと、三番目のスレイブだろうと、全て平等に。僕は、愛していた。
「だからアリスは、フィルさんを決して、アシュリーの手には届かない場所に飛ばし、同時にフィルさんとアシュリーの間に繋がれたアストラル・リンクと呼ばれる絆を断ち切ったんですよ。どんな手段で解除したのかはわかりませんが、本来、スレイブ契約というものは外から解除するようなものじゃないはずです。なんたって、互いに互いへの信頼がないと成り立たないものなんですから。そして、アストラル・リンクもそれは同じ」
そんなわけがない。嫉妬? そんな下らない感情で、取るに足らない感情で、裏切る?
あの常に冷静で聡明で、この僕のためにその力を振るってくれた、優しいアリスが?
ない。ありえない。ありえるわけがない。
「ちょっと調べました。アストラル・リンクは確かに強固だと言われていますが、それは『何もない』状態での話。自然と切れることはなくても、外からの解除はその想定外でしょう。並の術者ならば無理でも、超長距離転移を可能にするほどの凄まじいエネルギーを持つアリスならば、可能だったんだと思います。いや、もしかしたら、そういう事を可能にするクラスにすらついていたのかもしれませんよ? 魂の絆はアリスにとっては、腸が煮えくり返るくらいに気に食わないものだったはずなので」
いや、ない。そんなわけがない。そんなものがあるわけがない。アリスが得ていたのは空間魔術師のクラスだけで、そのクラスにはそんなスキルはない。
何より、アリスが、僕とアシュリーの魂の絆を切るわけがない。アリスが、僕のスレイブが、僕に対してそんな事するわけがない。
アリスのキス。非情なまでの覚悟を秘めた瞳が僕の瞼の裏でちらつく。
確かに。確かに、だ。ありうる事ではある。できるかできないか言えばできるかもしれない。いや、できる可能性はある。
思考回路、最も大切な感情や思考を無視するのならば、アムの推理するそのパターンも、ありえない事ではない。ゼロパーセントではない。全てが、僕の知識が、脳が、心以外の全てが、アムのその推理を、決してありえない事ではない事を認めている。
冷静になるんだ。フィル・ガーデン。
凄まじい鼓動を刻む心臓を、意志を持って落ち着かせようとするが、今まで容易かったそれは今日という日に限っては全く効果がない。
脳が言う事を聞かない。
「……た、確かに、見事な推理だよ。論理的な矛盾も綻びも多くない。でも……それはただの推測じゃないのか?」
「……フィルさん」
アムが目を伏せる。
その隙に、頭の中の全てを吐き出す。
機関銃のように言葉を吐き出す。ここで打ち負けては全てが終わってしまうような気がして。
「そうだ、ただの推測だ。確かに、アムの言うとおりである可能性も……なくはない。だが、全て偶然だという可能性もあるんじゃないか? シィラは偶然にも僕の予想を遥かに上回るくらいに強かった。アリスは偶然、緊急時の対応を忘れて僕を転移で逃がそうとした。偶然僕はここに飛ばされた。そして偶然……アストラル・リンクは切れてしまった。なぁ、全て辻褄が合うだろう? なぁ、サファリ?」
「……些か論理にかけるな」
サファリが重々しくそう言う。
ああ、そうさ、確かに、そんな風に聞こえるかもしれない。
「ああ、そうさ。論理にかけるかもしれない。だが、それが事実だ! サファリ! この世は、全て、論理で、動いているわけじゃ、ないんだ。確かにこれが小説だったら、アムの言葉が正しいんだろう。よく出来たトリックだよ。あははははは、いやいや、全くもってアムにこんな才能があるなんて知らなかった。小説家でも目指してみるかい? だけど、これは現実だ! 現実なんだ! そんな下らないトリックーー不必要だ」
「……よく出来てなんてないのです……」
エティがさっきから何か機嫌が悪そうにしている。
まさか、聡明で、優秀な、難関なクラスである機械魔術師のクラスを得るまで至った、エティまで、この茶番を、真実だと、考えているのか?
エティがゆっくりと話しを続ける。
「このトリック……いえ、トリックと呼べない程に穴だらけなのです。フィルが何も気づかない前提、境界線の外という、見たこともない場所に飛ばすというリスク、不確定事項が多すぎるのです……大体、フィルを飛ばしてアシュリーというスレイブとの絆を断ち切ることに成功した所で、アリスに得るものはないのです。動機も不純ですし、正直、推理小説としては三流以下なのです」
エティの言葉はすんなりと僕の中に入ってきた。
「……そうだ。その通りだよ、エティ。こんなの、何かの間違いだ! こんな下らない茶番に惑わされちゃ行けない!」
エティがゆっくりと顔を僕に向けた。
「……フィル、もう一回『再起動』してあげるのです」
エティが優しく微笑んで、僕の方に一歩近づく。
僕は反射的に後ろに下がった。下がっていた。
機械魔術師
クラスの中でも最上級の取得難易度を誇る、S級の魔術師職。遠距離、中距離、近距離、攻撃、補助、回復、極めて汎用性の高いアクティブスキルに、パッシブスキルによる器用と筋力、魔力の大幅な上昇。全てが全て魔物使いより遥かに上。
どうすれば逃げ切れる? 逃走? 愚の骨頂。戦う? 不可能だ。
否、そもそも、どうして逃げ切る必要がある?
女の子の方から接吻したいと言ってきているのだ。男として冥利に尽きるじゃないか?
だが、僕の足は脳の命令を無視した。止まらない。
「……フィルさん、私一つだけ謝らなきゃいけない事があるんです」
アムが、ふと一言付け足すように言葉を出す。
まだ……何かあるのか?
そうさ、これは全て偶然だ。僕の中ではもうその真実は揺るがない。
そう、フィル・ガーデン。お前は魔物使いのフィル・ガーデンなんだ。
「フィルさん、初めて契約した時の事、覚えてますか?」
「……もちろんだよ。昨日の事のように覚えてる」
僕が、この僕が、魔物使いの僕が、スレイブとの大切な思い出を忘れるわけがない。
「じゃあ、契約した後に小夜がいった言葉、覚えてますか?」
「え? わ、私ですか?」
緊張に顔を強張らせていた小夜が目を見開く。
「……小夜、フィルさんに言いましたよね? 『憑依』による精神汚染を受けているわけでもなさそうですね……って」
「ああ、言ったね」
「あ、あれは……その……」
小夜がいきなり過去の事を蒸し返され、慌てる。
だが、アムの次の台詞は信じられないものだった。
「そして私は言いました。『そんなことしません!』って。ごめんなさい、それ、嘘です」
「え!?」
僕は呆然とアムの方を見る。
ちょっと墨色の入った金髪に、同色の濁った瞳をしたレイス。
「私、しようとしました。『憑依』。悪意があってとかじゃなくて、ついつい、ですけど……初めて分かり合える人に出会えた気がして、その魂を知りたくて……突発的に……スキルを使用しようとしたんです。小夜が確認するなんて予想もしていなかったので、ちょっと慌てちゃいました」
「いやいやいや、アム。あの時、確かに私は、フィルさんの精神が汚染されていないことを確認しましたよ?」
「失敗したんですよ……スキルを使おうとしたのに」
アムがぎこちなく微笑む。
悍ましい気配。何故か突然に前触れもなく身体中がガタガタ震え始め、意識がいきなり遠のき始める。
王手です。
と、アムの目が確かにそう言った気がした。
『憑依』
『ライフドレイン』と『恐怖』に並ぶレイスの固有スキル。
その能力はーー絆の強化。被憑依者の魂に自分の存在を割りこませる事で、自分の精神の波長によって他者の精神に影響を齎すことができる。
「フィルさん、私は憑依しなかったんじゃない。できなかったんです。もう既にフィルさんには一人、憑依していたので……」
耳をその声が通り抜ける。脳がその単語の意味を意識するその瞬間に、僕は意識を失った。
*****
フィルの身体から意識が、力が抜け、崩れ落ちる。
だが、その身体が倒れる事はなかった。即座に抱えられたためだ。
それだけで人を殺せそうな程に険しい眼で、エティが唐突に実体化した『それ』を睨みつける。
「な……あ……」
「…………」
白銀の髪に同色の眼。フィルと同じくらいの長身。
すらっとした身体、華奢な腕に、病的なまでに白い肌。
少女は、ゆっくりと自分の手に横たわったフィルの身体を地面にそっと丁寧に横たえた。
少女は満身創痍だった。
かつて銀の絹糸とも称された美しい髪はぼさぼさ一部が焼け焦げ、白い肌にもそこかしこに深い切り傷が穿たれており、黒い液体がぽたぽたとその着込んだ純白のエプロンドレスに幾筋もの染みを作っていた。
左腕は骨折しているのか、あらぬ方向に曲がり、血のような瞳も、その片方には銀色の棒が突き刺さり、濁った黒い孔がぽっかりと虚空を表している。だが、それでも、全身に重度の傷を負いながらも、少女は異常なまでに美しく、その表情には何の痛痒もない。
「あ……な……」
ガルドは、その姿に、言葉ひとつ出すことができなかった。
身体がただがたがたと意味もなく震える。それすらもどうでも良かった。
数多くの高位な依頼を熟してきたS級探求者にして、無類の豪腕を持つライカン・スロープは、初めて圧倒的な上位個体というものを眼にしていた。それも、種族相性が最悪である悪性霊体種を。
少女がゆっくりと振り返る。
その視線は、とても無機質だ。その肌の色と同じように、その視線は透明感ある白で、目の前の存在に完全に何の興味も抱いていなかった。
アムがその絶対零度の視線に真正面から相対する。
「……アリス・ナイトウォーカー……やっぱり、ずっと居たんですね。すぐ側に。小夜のメンタルスキャンでも気づかない程の完璧な憑依……フィルさんの精神に影響を与えないように細心の注意を払って……」
アリスがゆっくりと周辺を見つめる。
小夜と白夜が目を細め、リンが怯え広谷がそれを背に隠す。
サファリが唸り、ガルドが戦慄し、セーラが怯え、ランドとエティが戦意を持ってそれに相対する。
そしてフィルはまだ意識を失ったままだった。
アリスの視線が再びアムに戻る。
アムには分かっていた。アリスがやったのは単純な『憑依』の解除。フィルの魂に混じらせていた自分の半身、絆を元に自身を現界させたのだ。全ての取り返しがつかなくなる前に。
『憑依』のスキルは、酷く『魂の契約』と似ていた。
その両者にあるのは、共生か寄生であるかという違いのみ。宿主の知らぬうちにその魂に潜り込む在り方は悪性霊体種の名に相応しい。
「……憑依による回帰……もう、諦めたんですね」
「生命循環」
ただ一言、アリスが単語を呟く。
瞬間、全身が白く輝いた。それは生命の輝きだった。今まで、アリスが奪ってきた生命の片鱗が今アリスの傷ついた身体に回帰していく。
そこかしこ、全身についていた傷が一瞬で消え、折れていた腕が元に戻る。ぽっかり空いていた眼窩にはルビーのような暗く輝く瞳が復元していた。焦げていた髪まで完全に回復する。
完璧な造形美、傷ひとつない肌、血の滴る白のドレス。
アリスが眉一つ動かさずに、自分を観ている者達に視線を向けた。
エティが嫌悪に耐えかねたように、地面に唾でも吐くかのように、吐き捨てる。
「……なるほど、これが動機、ですか。変だと思ったのです。嫉妬が原因なら……フィルを転移させても、自分が会えなきゃ意味が無い。分断して、自分だけ見守る? ふん、レイスらしい汚らしい手なのです……まだスレイブさんの方がマシなのですよ」
その侮蔑を、戦意を受け、アリスが初めて動いた。
「……エティ。エトランジュ・セントラルドール。SS級の機械魔術師。何を言われようと、私は心底、貴方達の事なんてどうでもいい」
アリスが透明感のある声で言い切る。口調は酷く堅苦しく、端的で、感情というものが何一つ込められていない。
推理を聞いている分では、極度に悍ましかったはずの悪性霊体種の思わぬ言葉に、会話を『できる』とは思っていなかったランドが眉を上げた。
その内在する魔力は莫大なれど、その佇まいは冷静そのもの。傷を回復した時には、どうしてもっと早くかからなかったのか後悔したが、その眼には戦意がない。
それが異常に不気味だった。
戦意がない。悪意もない。そこにはその言葉通り興味もない。何もない。
「貴方達、ご主人様のお友達。私は貴方達に危害を加えるつもりはない」
ゆっくりとアリスは、周囲のメンバーを確かめるように見つめ、平然と何の躊躇いもなくその言葉を告げた。
「私達の目の前から消えて、もう二度と現れないで。それだけで、貴方達の命は助けてあげる」
「は……?」
セーラが、スピリットのセーラが、善性を信じるセーラが、アリスを見た。
この女は、このフィルのスレイブは、今、なんと言ったんだ?
目の前から、消えて? 貴方達の命は助けてあげる?
平然と、何の感情も込めることなく、言い切るその態度。
愕然とする。その言葉に嘘も冗談もない。
アリスは心の底から言っているのだ。マスターを裏切ったくせに、まるで何も悪びれもせずに。
悪意を超えた底知れぬその感情はレイスの持つ『悍ましい悪寒』
殺意も悪意もない、悪気を感じさせないその声に、セーラは初めて善性を信じられないものに出会った気がした。
「……フィルを……どうするつもりなのですか?」
「私のマスターになってもらう」
「は?」
意味が分からなかった。
この場にいる誰にもその意味はわからなかった。
その意味が分かっていたのは、唯一この状況を最後まで予測していたアムだけだった。
アムが一歩前に出る。アリスからは恐怖のスキルの気配は感じない。だが、その手の震え、足の震えは止まる気配がない。
初めてアムは、自分より遥かに強力な『悪性霊体種』に出会った。距離を置いてでもはっきりわかる、絶望的なまでの力の差。
魂に巣食う闇の深さが、精神に空いた奈落の深さが違う。
その力の差は間違いなく二回りは違う。
アリスという魔剣に比べれば、発展途上のアムなどただの銅の剣に過ぎない。
だがそれでも、アムの戦意に些かの衰えもない。覚悟さえあれば、どんな恐怖も乗り越えられる。
「アリスは……フィルさんと正式な契約を結べなかったんですよ……」
「…………」
その言葉に、アリスの表情が初めて変わった。
目が僅かに見開き、頬が僅かに引きつり、感情が僅かに宿る。初めてアムを睨みつける。
色のなかった表情に炎が灯り、瞳の中に激情が見え隠れする。それこそが、人形のような透明な相貌、鋼の意志に隠された悪性霊体種の悪性たる理由
濁り固まり発生した漆黒の魂。
アムは思い出していた。B級のレイスとの契約に全精力を使い、倒れかけたSSS級魔物使いの姿を。
「だってほら、種族ランクがB級の私と契約を結ぶのにやっとだったフィルさんがーー私よりよほど強力なアリスと契約を結べるわけがないじゃないですか」
そして、それがアリスの気には食わなかった。
契約の紋章もない自分と、魂の絆で結ばれたアシュリー。それは、魔力とか身体能力とかではどうにもならない途方も無い差。絶望的な差。
数年の間、苦楽を共にしたマスターを謀るに十分なくらいには。
その身に秘める奈落。纏う覇者の気配に、莫大な命のエネルギー。
そして、それを統括する高度な理性と知性。
その全てがアムには理解できた。同情はできないけれど。
アリスがそれに被せるように、冷えた声で囁いた。
「……確かに、ご主人様の契約魔法では私をスレイブにはできない。だけど……魂の契約なら違う」
「フィルさんは……結びませんよ。例え、魂の契約が切れていたとしても……アシュリーがいる限りは」
そう言い切るアムに、アリスは鼻で笑った。何も分かっていないこの新参者は、と。
「いいえ、結ぶ。ご主人様は……普通の契約と、魂の契約の重さの違いがわかってないから」
「…………」
わかっていない。
それは単に、契約の性質の事を指しているわけではない。
アストラル・リンクを絆とする魂の契約は、本来の契約とは異なり、魔力をほとんど使用しない特異なものだ。死の共有、リンクを通じた召喚などいくつか他の契約と異なる性質がある。
が、アリスが言いたいことはそういうことではない。
アムはその言葉の意味を正しく理解した。
そして同時に確信していた。もしかしたら、フィルさんならありえない事ではないかもしれない、と。
フィルは魂の契約を理解している。この上なく理解している。フィルは極めて優秀な魔物使いだ。その知識の範囲内である契約の性質を知らないわけがない。ただし、フィルが知っているのは契約の性能の事だけだった。
フィル・ガーデンは、スレイブの感情を操り喜びを与え性能を読み切り成長を加速させるその魔物使いには唯一、スレイブ側の立場に立った『共感能力』に欠けていた。
解るが、理解らない。
強化したいのならば薬を盛ればいい。成長させたいならば、試練を与えればいい。信頼を得たいならば抱きしめればいい。知識が不足しているならば、ノウハウが足りていないならば、教えてやればいい。武器がないなら買ってやればいい。スキルが使えないならば、使えるようにしてやればいい。
普通の契約ができないならば……魂の契約をしてやればいい。
アリスは己の主をよく知っていた。よく知っているからこそ、事に及んだのだから。
「ご主人様は魂の契約と本来の契約の差異を性能でしか見ていない。だからする。絶対にする。ご主人様は……魂の契約ならば私と契約できると知ったら、絶対にする」
「……なんという……悍ましいレイスがいたものです……竜の方がよっぽどマシなのです……アリス・ナイトウォーカー」
成功を疑わないその眼、眼光に耐え切れず、エティが一歩前に出る。
相手に戦意がない? 殺意がない? それがどうした。
明確な論理、純粋な殺意、戦意しか持たない機械種とずっと戦い続けたエティははっきりと確信した。
このレイスはーー間違いなく、エティが見てきた中で最大級の災厄に他ならない。しかも、その自覚がないだけ質が悪い。
身体に力を込める。魂に魔力を灯す。
いつもの戦時のルーチンワークで、自身の唇を親指で拭った。
「残念ながらその計画は成功しないのですよ。私が……可哀想なフィルの代わりに、お仕置きしてあげるのです」
『電動ノコギリ』
エティの呟きと同時に、手の平に銀色の光が集約し、巨大な分厚い歯を持ったのこぎりを顕現させる。歯が音もなく高速で回転していた。全長一メートル半。ブロードソードのような厚みのあるそれを、両手で構える。
アリスは、幻想兵装が持つ独特のその輝きを見ながらも、表情を変える事はない。
決まりきった言葉を言うかのように淡々と唇を動かす。
「エトランジュ・セントラルドール。ご主人様は貴方を気に入っている。高い魔力に強力なクラスに恵まれた資質。機械種の好みこそ違うが趣味が合うし、性格も悪くない」
「……お褒めいただき光栄なのですよ」
「いつか裸に剥いて隅から隅までデータを取りたいと思ってる」
「……つまらない冗談なのです」
「…………」
吐き捨てるが、エティの表情はちょっと自信がなさそうだった。アリスは何も言わず、続いてランドの方を見る。
「ランド・グローリー。明けの戦鎚のクランマスターにして前途有望なSS級の竜人。クラスは戦士系上級職の破砕者。破壊力だけならSSS級に比類し、SSS級機械種、エンペラー・アントの口蓋で作成された戦鎚『牙閃』は防御に特化したSS級機械種の機体を僅か一撃で破壊する威力を持つ」
「おい、ランド。こいつ……」
「ご主人様は貴方も、いつか裸に剥いて隅から隅までデータを取りたいと思ってる」
「へ、変態ッ!」
セーラが悲鳴をあげた。アリスはそちらを僅かも視線を向けない。
怜悧な視線が順番にメンバーの顔を見渡す。一種の異様な雰囲気だった。
まだ、一撃すら、矛を交わしていないにも関わらず、攻撃でも受けているかのようにランドが顔を歪めた。
「ご主人様は、貴方も貴方も貴方も貴方も貴方も貴方も、そこのスピリット以外みんな、丁寧に並べて晒してデータを取って組み立てたいと思ってる。何もかも識りたいと考えている。その力に嫉妬を抱いている。そして同時に、とても勿体無いと思っている」
「ちょ……私は!?」
「アムと同じくらいへっぽこだと思ってる」
「……あんまりだわ……」
「ど、どういう意味ですか!」
アムとセーラが抗議の声を上げた。
ランドが傍らの戦鎚の柄を握る。押し殺した声で尋ねる。
「……何のつもりだい?」
「何のつもりもない。私は、ご主人様が思っていた事を言っただけ」
アリスが急に背を向けた。強力なスキル、武器を現在進行形で保持しているエティがいるにも関わらず、だ。
そのあまりにも無防備な背中に、エティが攻撃を躊躇う。
大きく両手を上げ、アリスが唄うように感情のない透明な声を響かせる。
それは魂の叫びだった。
「ご主人様は弱い。魔力も身体能力もない。レベルがカンストしても一人では何もできない絶対弱者。才能のある貴方達にはわからない。私にもわからない」
その内容は信じられないもので、でも全員が知っている事だった。
明らかに、どこからどう見ても、その性能は底辺を這っている。
「けれど、大丈夫。私がいるから。この、アリス・ナイトウォーカーがいるから。それ故に無敵。それ故に絶対強者。何も心配はしなくていい。何もしなくていい。ただ、私の側にいてくれるだけでいい。私を愛してくれるだけでいい。私だけを愛してくれるだけでいい!」
工場内に反響し、その声が、恍惚の叫びが上空から振りかかる。
誰も、何も言えなかった。アムでさえも、青ざめたようにアリスを見る。
「ねぇ、アム」
唐突にアリスが振り返った。その表情は、先ほどまでの人形のような相貌とは違い、感情に包まれていた。
まるで最愛の妹でも見るかのような慈愛の表情。
心が奪われそうになる魅惑の表情。
「その契約、もういらないでしょ? ……私に頂戴?」
「なっーー」
ピシリと。
アムの左手が痛んだ。アムが反射的に自らの左手を見る。
一瞬、僅か一瞬で、十日前から常に感じられたラインが、絆が、アムとフィルを確かにつないでいた契約が断ち切られていた。
ずっと周囲に注意を向けていた白夜が一瞬でそれを察知し、顔をしかめる。
「『螺旋の終焉』……解呪師のクラススキル……どうやらアムの推測は当たっていたようですね。全く、馬鹿げた事です」
「くすくすくすくす……」
アリスがくすぐったそうに笑う。声を殺して笑う。おかしそうに笑う。可愛らしい少女のように笑う。
静寂の中、笑い声だけが静かに響き渡る。
「これで……ご主人様は私のもの……予定外の事はあったけど……ご主人様が一緒にいれば、私は翔べる」
アリスの視線は皆に向いているが、その心は既にただ一人、彼女のマスターの元にあった。
常にあった、たった一人愛おしいご主人様の元に。
リンが蒼白な表情で、狂ったレイスを見る。いや、狂ってはいない。これが正常。
鬼に憑かれた広谷とは違う。
極めて強力な悪霊は恋をした。
極めて強力な毒を持った魔物使いに、
何もない者と、ただ与える者。
心に奈落を持つ者と、満たし続ける者。
それは恐らく、必然だったのだろう。
「……なんという悍ましさ。これが狂った女の性なのか……あるいは、コレこそが他種族が我らを見る時に感じるものなのか……」
広谷がゆっくりと柄に手をかける。
ガルドが斧を握る。小夜が拳を握る。
相手が戦意を向けてなくても解る。本能がそれを告げていた。こいつは敵だ。徹頭徹尾敵だ。この世界に一瞬たりとも存在を許されてはならない悪性だ、と。
アリスはその姿を、陰りのない少女らしい満面の笑みのまま迎える。
「私は今機嫌がいい。特別に今すぐ尻尾を巻いて逃げるなら、許してあげる。それとも、貴方達も受けてみる?」
アリスが手を握る。余剰のエネルギーがその希少スキルにより魔力に変換され、その身に満ちる。
竜種に匹敵する魔気にただでさえ通気性の悪い工場内の空気が淀む。
夜の女王がにこりと笑った。
「私の試練」




