第四十話:それこそが僕の喜びの型
アムの発言に、嫌な沈黙が広がった。
どこからともなく生暖かい風が頬を撫でる。
誰もが一言も何も口しなかった。できなかった。
アムが皆の予想外の反応にわたわたしていた。
隣のエティが呆れたように大きくため息をつく。
「スレイブさん、それはありえないのです。私の『精密解析機構』は誤魔化せないのです。フィルは間違いなく生きているのです。魔力も筋力もゴミクズみたいなプライマリーヒューマンですが、精一杯生きているのですよ?」
地味に酷い事をエティが言い切った。
全員がアムの方に冷たい視線を向ける。勿論僕も容赦なく向ける。
この空気どうしてくれるんだ!
「ちょ……ちょっとした冗談じゃないですか……」
涙目のセーラが食って掛かった。
「冗談!? 冗談って言った!? 言っていい冗談と悪い冗談があるでしょ? 心臓が止まるかと思ったわよ!」
馬鹿みたいなその発言に、視線の向き先が変わった。
憐れなレイスから憐れなスピリットに。
「……セーラ、信じたのか……」
「おいおい、そりゃねーだろーが、セーラ」
「さすがに……ないのです。スピリットさん……」
「スキルを使うまでもない、魔力の巡りで簡単に判断できるのでは? 私は解りましたが」
それぞれ、僕、ガルド、エティ、白夜から総つっこみを受けてセーラが涙目になる。
魔術師職でもないガルドでもわかることを何故セーラがわからないんだ。
正直に言おう。セーラも、アムと同じくらい僕はダメダメだと思ってる。彼女には駄目な資質がある。
是非機会があったらアムとセットで育てて競い合わせたいものだ。絶対に面白い化学反応起こすぞこれ。惜しむらくはそんなペアをスレイブにしたらいくら僕でもストレスで胃に穴が空くだろう。後、いくら命があっても多分足りない。
こほん、とアムが一度咳払いをした。そんなもので払拭される空気なんてないよ。
「で、でも、本当ですよ? 私が初めに考えた理論は、フィルさんはシィラに殺されたのに自分が死亡している事に気づかない可哀想な死霊だという説でした」
「僕、可哀想すぎるだろ……」
死霊とは、最下級の悪性霊体種の一種である。
ほぼ全てのレイスの発生に要因がないのと比べ、死霊は人の死によって発生するという珍しい性質を持った種族で、死者の思念を食み、昏い情動のみを根幹に世界を彷徨う憐れな亡霊だ。当然だがそこには、思考は愚か意志もない。あるのは怨念のみ。かといって強いわけでもなく、ほとんど戦闘力も持たないので、僧侶のクラスを得て最初に戦う定番とされている魔物である。当然そんな種族だからまともな戦いにはならずに浄化される事になる。
あまりの酷い話に僕は虚しくつぶやく事しかできない。
大げさに事前準備だの何だの言っておいて言い出すことは所詮アムか。涙まで流して自分が馬鹿みたいじゃないか。
そんな僕のため息を知ってか知らずか、アムが続ける。正直、もういいよ。
「でも、これなら全て納得できるんです。思念を取り込んでレイス化する死霊は、基本的に死者の座標付近に発生しますが、一応ランダムですし、数百キロ遠くに顕現した例もあります」
「全然納得できねー。数百キロなんて距離じゃないしね」
「思念に他の記憶が混じるのはよくある話です。最下級の死霊ならば尚更、意識の混濁はあって当然です。記憶が混濁している可能性を考えたほうが――長距離転移なんて奇想天外な話よりもまだ納得ができる」
「……」
難しい所だ。
奇想天外な話というただ一点に置いてアムの言葉は正しかった。
さすがに死霊だとかそういう発想はないが、確かに長距離転移を受けたというよりも記憶を操作されて飛ばされたと考えたほうがまだ現実味がある。
それくらい、境界線を超えた転移というのは前例がない。
「でもそれは……すぐに間違えていると気づきました。フィルさんが死霊なら、ギルドカードの再登録時にステータスをスキャンしたはずの小夜が気づかないわけがないですから」
「……確かに、フィルさんが死霊だったら私がまず気づいていたでしょう」
小夜が生真面目に頷く。
そんなまともに取り合わなくていいから!
そこまで大仰に言うべき内容でもない。
「これから私が……フィルさんが敗北した謎を、私が考えた答えを、フィルさんに教えてあげます」
自信満々にアムが言い切った。
珍しく饒舌なアムの話に皆聞き入っていた。
僕は豪華メンバーを集めたアムに気が気ではない。ペットが人様に迷惑をかけている気分だ。
大体、今までの経緯からするに、ここにいるメンバーの半分くらいは状況がよくわかっていないんじゃないだろうか? だが、誰もがアムの話を静かに聞いている。
そもそも、彼らはアムが自分の手で自分の意志で集めたのだ。話はしてあるのだろう。
どんな会話を経て集めたのか、僕はむしろそっちの方が気になった。ランドさんとアムって面識ないよね?
アムが続いて口を開く。
「死霊である可能性はなくなりました。となると、本当にフィルさんが、シィラ・ブラックロギアとの戦闘中にここに転移させられたとしましょう。フィルさん、その時の状況を説明してもらえますか?」
探偵のような芝居がかった口調で僕に尋ねてくる。
……まぁ、少し付き合ってやるか。例えアムにはわからなかったとしても、ここには高位の探求者が三人もいるのだ。一人で考えこむよりは糸口がつかめるかもしれない。
「ん? 状況? 状況っていっても、そんな説明すべき事はないよ? ただ単純にシィラの討伐依頼に挑戦したんだけど、シィラの強さが想定外に強くて歯が立たなかった、だから撤退するために、僕のスレイブのアリス・ナイトウォーカーが僕に転移魔術をかけた、ただそれだけだよ」
本当にただそれだけだ。改めて口に出してもあの時不自然な事は何もなかった。
アムは、だがしかし、その言葉を待っていたのか我が意を得たりとばかりに手を叩いた。
「そこですよ、フィルさん。私は、そこが凄く不思議でした。私がフィルさんのスレイブになったのはたった十日前ですけど、スレイブになって、すぐに分かりました。フィルさんは凄いって。スレイブとしてではなく、元探求者として、フィルさんの知識と技術は……卓越している。『強い』のではなく『凄い』。そして、あの夜フィルさんからここにきた経緯を聞いた時、私は、すごい不思議でした。……何でこんなに凄いのに、フィルさんはあっさりと敗北して、あまつさえこんな遠い土地まで飛ばされてきたんだろうって。私ずっと、不思議で仕方なかったです」
洗練? そりゃ元F級探求者のアムよりは洗練されているだろうさ。僕はスレイブに頼りきりの探求者だけど、それでもSSS級なんだ。
それに、その言葉は……現実をよく見ていない。この世界では高位の探求者ですらあっさり死んでいく。
自分の分をわきまえずに。
「だがアムよぉ、探求者たるもの敗走なんてよくあるもんだぜ? 万全な準備をしても、どんなに知識があっても、卓越した技術を持っていても、例えSSS級の探求者だったとしても、天運に見放されて敗北することなんていくらでもあるもんだ」
ガルドが宥めるように言った。その言葉には僕の言いたいことが全て詰まっている。
天運。そう、天運だ。たった一つ、運が悪いだけで人は簡単に死んでいく。ただでさえ能力値の低いプライマリーヒューマンともなれば、その確率は他種族と比較しても遥かに高い。
だがしかし、アムの瞳に浮かぶ意志の光はガルドの諫言を耳にしても微塵も弱まらなかった。
しっかりと僕に視線を向けたまま大きく頷いた。まるで、全て想定通りだと言わんばかりに。
「その通りです。敗北は……敗走はありうる。私もフィルさんと組んでから、一回敗走しましたしね。ですが……」
アムが僅かに言いよどむ。
そして、囁くようにその言葉を口にした。
「対シィラ戦のこれは……本当に敗走なんでしょうか?」
ぞわりと。その不吉な単語が首筋を何かが撫でた。
ガルドが憮然とした表情で呟く。
「敗走じゃない? いや、敗走だろ? シィラと戦闘した結果、敵わずに逃げ出したんだから」
確かに、ガルドの言う事は正しい。僕は完膚なきまでに……叩き潰された。
頭の奥が、脳の中心がズキリと、強く痛んだ。
アムが僕にしっかりと視線を向けたまま、再び推理を開始した。
「いいえ、ガルドさん。それは……きっと違います。……だって……フィルさん、フィルさんは……もし仮に、シィラとの戦いで敵いそうもなかった時はどうするつもりだったんですか?」
「……え? 勿論考えてたよ。煙玉で視界を封じてアリスに背負って運んでもらって、撤退する予定だった。アリスのスキルなら、多少のダメージを受けても僕を回復させながら逃げられるからね」
原則として、最も被害が大きくなりがちな撤退戦。
その計画を僕が立てていないわけがない。
「じゃあ……何でフィルさんは、転移してきたんですか?」
「え……それはアリスが勝手にーー」
勝手に。勝手に、なんだ?
その時、その場所の光景を思い出す。
判断する僕。煙玉を出そうとする僕。撤退を指示しようとする僕。光に包まれているアリス。
「……僕が指示を出す前にアリスが行動を起こして、僕を逃したんだ。とっさの判断だったんだろ? 何も不思議な事じゃない。確かにベストな選択では到底なかったけど、最悪の手でもない」
確かに、アリスは早計だった。だが、しかしそれはただそれだけの話だ。
シィラと直接刃を交わしていない僕にはわからない何かがあったのかもしれない。計画通りの撤退では逃げ切れないと判断したのかもしれない。今の僕には知るすべはない。
だが、アムにはその判断が違和感のように感じられているようだ。
「そこですよ。確かにとっさの判断は大切です。常在戦場の探求者にとっては生命線といってもいい。でも、フィルさん。私はフィルさんの凄さを知っています。『強さ』じゃなくて『凄さ』です。単純な戦闘能力じゃなくて、探求者としての経験やテクニックです。フィルさんは……依頼を受ける際には……入念な事前準備をする探求者だった。一緒に依頼をこなした私だからわかる。地図、生息する魔物の傾向、弱点、行動理論、緊急時に必要とされるであろうアイテムに……非常事態における『退却方法』に至るまで。それらはフィルさんにとっては当然揃えて然るべきものだった。違いますか?」
違わない。そう、アムの言う事は、違わない。
僕はいつも通り、完璧な仕事をしていた。そんなのは言うまでもなく、僕は自分の命がかかっているそれに対して手を抜いたことなんて今までただの一度もない。
アムが僕に追撃する。
「それとも、その時だけは忘れていたんですか? L級討伐依頼と言う、種族ランクGのフィルさんにとっては完全な化け物――致死級の魔物を討伐するっていうのに、そんな重要な事を忘れていたんですか?」
僕に油断はない。いついかなる時でも、例え相手がL級じゃなかったとしても。
それは一つの僕の行動原理でさえあった。
「……いや、勿論完璧な仕事をしたと思っているよ。事前にブリーフィングも入念にしたし、アリスが負ける要因は完璧に除いた……つもりだった」
そう、つもりだ。
僕に足りなかったのは果たして何だったのだろうか。
「シィラの原典まで揃えたって言ってましたよね?」
「ああ。僕は大金を支払って信頼の置ける高位の探求者を複数雇い、シィラ・ブラックロギアの閉塞世界を探索させて、事前にシィラ・ブラックロギアの原典まで手に入れる事に成功した。いくらなんでも、L級の幻想精霊種の原典を見紛う程落ちぶれていない……あれは間違いなく、本物だったよ」
無機生命種の核が存在核、悪性霊体種と善性霊体種の核が魂核ならば、幻想精霊種の核は原典と呼べるだろう。
それは一つの物語を形作る幻想精霊種の世界の中心。その全てが詰まっているといっていい。
弱点、行動理論、思考回路、切り札、保有スキル、嗜好に至るまで。その他の種族のそれと比べて、破壊すれば本体が死ぬようなものではないが、それでもそれは決定的な切り札で、まさに心臓の名に相応しいものだった。
「え? フィル、原典まで手に入れて負けたのですか? そんなことありうるのです?」
エティが目を丸くした。
いや、その通りだ。僕は負けるわけがなかったのだ。
「そして僕は、その原典を隅から隅まで読み込み、シィラ・ブラックロギアをただの雑魚だと判断した。いや、確かに強い。SSS級と比較すれば強力ではあるが、少なくともアリスならばほぼ完勝できると判断した」
だからこそ、僕には今でも、まるであの時の事が悪夢にしか感じられない。
僕の見積もりが、あそこまで大幅にずれるなんて、見習いだった頃から今に至るまで全ての体験を回帰してもなかったことなのだから。
「でも負けた、そうですよね?」
「ああ、その通りだよ。僕はそれが今まで不思議で不思議でしょうがないんだ。なんでアリスの攻撃が尽く通じなかったのか」
僕には想像すらできない。
ランドさんが少し考えて意見をする。
「そういうスキルがあったんじゃないか? そのアリスさんの攻撃がどういう型なのかは知らないが、もしそれを完全に無効化するようなスキルがあったとしたらーー」
「……一理あるのです……と言いたい所ですが、それは違うのです、ランドさん。何故ならそれを避けるためにフィルは事前に原典を手に入れていたのだから、そうなのですよね、フィル?」
エティが確認した。
聡い。見た目は小さくても、その存在は確かに熟練したSS級の探求者のものだった。
「ああ……その通りだ。僕はシィラの全てのスキルを見切っていた。大切なスレイブをL級の魔物と戦わせるのに、相手のスキルも見切らずに討伐に向かうわけがないじゃないか。この僕が!」
それは僕の信条であり、探求者になってからずっと自分に課した戒めだった。
僕は指示を出すだけだから、僕は直接に魔物と相対しないから、決してスレイブを無意味に傷つけるような事は避けようと。
セーラが僕の剣幕にたじろぐ。そこで、僕はようやく自分が大声を出していたことに気づいた。まるで夢現を見ているかのように足元がおぼつかない。
「じゃ、じゃあ何で負けたのよ……ねぇ、そんな準備万端で戦ったのに、何でフィルは勝てなかったのよ?」
「簡単ですよ。私がこれを初めに思いついたのは、フィルさんから初めてシィラとの戦いについて聞かされた時でした。私だったから分かった。私じゃなかったら誰もわからなかったでしょう」
アムがそう嘯いた。
わかったかもしれません。そのアムの台詞が脳裏に蘇る。
確かにアムは基本ダメな子だが、たまに妙に鋭い所があった。
アムの一言一言が僕の脳裏を焼いていく。それは心地よく、そして非常に悍ましいことだった。
一転、落ち着いた声色で僕に質問した。
「じゃあフィルさん、質問を変えましょう。何で、レイブンシティだったんですか?」
「ん? どういうこと?」
アムが言葉を組み替える。
「フィルさんは……転移されたのがレイブンシティだったのは何故だと思いますか?」
何故?
そんなこと、考えたこともなかった。
転移魔術は三つの工程が必要とされる。決して僕なんかでは扱えない術だが、知識だけはあった。
三つの工程とはすなわち、転移元の対象の設定、転移先の座標の設定、そして転移術式の起動。
それこそが、空間魔術師のクラスを持つアリス・ナイトウォーカーをスレイブとしている僕が、撤退に転移を使用させない理由。
転移魔術は精密な操作が必要とされるのだ。緊急事態にとっさに使用できない程に。
「……えっと……偶然だと思うけど? 膨大なエネルギーを使って転移させる事ができたとしても、あの僅かな瞬間に転移先を選ぶ余裕がアリスにあったとは思えない」
「私は……そうは思いません」
アムが僕の言葉を一刀両断した。
その視線は酷く冷たく鋭い。
「フィルさんは、弱い。非常に脆弱です。そう、それこそ、人の生活圏ではない魔物の跋扈する地に放り出されたら、あっという間に殺されてしまうくらいに脆弱です。どんなに知識が、技術が、テクニックがあっても、その力、魔力の弱さはカバーできない。フィルさんはもし仮に街に転移しなかったらーー恐らく、死んでいたでしょう」
それはぞっとしない発想だった。だが、確かにありえていた未来だ。
「あ、ああ。確かに、アムの言うとおりだよ。僕は弱い。機械種はただでさえ防御と攻撃に秀でているからね。街からそれていたら死ぬ可能性は高かっただろう。あはははは、僕も大概強運だったって事かな……」
乾いた笑いを振り払うようにして、アムが慟哭するように叫んだ。
「違うッ! これは……運なんかじゃありません。いや、フィルさんは確かに強運ですが、少なくともこれは、これだけは、そういう話であるわけがない」
恐怖と嘆き。様々な感情をごちゃ混ぜにしたような、物哀しい微笑みを浮かべて、アムが言った。
「だって……フィルさん、一歩間違えたら死んじゃってたんですよ?」
何故かその表情は僕の心を打つ。魂の篭った言葉は例えそれが善であれ悪であれ酷く美しい。
それは正しい、と。僕の脳が判断する。その言葉はまさしく正鵠を射ている。
アムが大きく息を吸って呼吸を落ち着けると、真剣な表情で言い切った。
ただの予測を、推測を、まるで真実であるかのように。
「アリスは……フィルさんをレイブンシティに狙って転移させたのです。何故かって? ここが境界を隔てた、最も境界側に近い街だったからです」
「じゃあなんだ? アリスっていう緊急事態のその短時間で、境界外からこの街を見つけて座標を指定できるほどの術者だったっていうのか?」
「それは……」
アムがガルドの問いに答えかけた時、白夜がそれに待ったをかけた。
その眼にキラキラと、思考の信号が奔る稲妻が映る。
それは、アムのつけた道筋をなぞって行くかのような行為のように見えた。
「ちょっと待ってください……それはおかしいのでは? だって、逃がすだけなら別に……境界外じゃなくてもいいじゃないですか。グラエルグラベール王国の近辺で十分じゃないですか。むしろ王国に飛ばしたほうがずっと安全で……シィラへの対策も立てやすい」
「白夜さん、その通りです。八十点です!」
「……なんか嬉しくないですね……アムさんに褒められても……」
エティが腕を組んで呟く。
「短時間で境界外の街の座標を選択し超長距離転移……もしそれを成し遂げられるならば、並の術者じゃないのです。それこそ神話級……L級以上の実力が必要でしょう。私でも無理なのです」
まさしく、それは神の御業。
極めて高いランクにいた僕にも聞いたことのないそれは、奇跡に等しい。
「そうです。私も聞いたこともないし、フィルさんも多分聞いたこともない。そして、恐らく、いくら強力な力を持つスレイブであるアリスでもそんなこと無理なはずです」
「ん? どういうことだ?」
「待った、ガルド。分かった、わかってきたぞ……絡繰が」
ランドさんが目を見開いて僕を見る。
その顔はまるで、悍ましいもの(レイス)でも見るかのような目だった。
「そんな馬鹿な話があるのか……いや、あるわけがない。あっていいわけがない。いや、あってはならないが……ありうる、のか?」
ランドさんが口の中で考えをまとめ、アムの方に視線を向けた。
「アムさん。アリスさんがやったのは、長距離転移だけ、そうだね?」
「……その通りです。ランドさん、八十五点です!」
無駄に辛口なアムの評価。
そしてアムは、まるで唄でも歌うかのようにその信じられないような言葉を口にだした。
「アリスは、シィラの討伐をする前に決めていたんですよ。フィルさんを転移させることを」
その荒唐無稽な言葉が脳を貫き、僕の思考は止まった。フリーズする。
ただ漠然と耳の中にアムの言葉が入ってくる。
「なんたってフィルさんと一緒に依頼を受けていると、自然と事前準備が得意になっていくんですから……。アリスは長い時間を掛けて、準備を行い知識を蒐集し、そして、こう判断したんですよ。シィラと……魔王との決戦を行うその正確な場所がわかれば、自分の保有するエネルギーなら、そう簡単に帰ってこれない場所……例えば、境界外の街ーーレイブンシティに転移させることも可能だ、と」
アムの言葉に、目の前が灯りを落としたかのように真っ暗になる。
続かない息。肺が潰れ、息がうまくできない。
いやいやいやいや、そんな――馬鹿な。いつもの勘違いだろ?
「……つ、つまり、アムは、僕のアリスが、意図的に、それこそ、シィラと戦闘する前から、僕を境界の外に転移させると考えていたと、そういうのか?」
「その通りです、フィルさん、百点です」
ブラックジョークだったとしても、面白くない。
アムが一度大きなため息をつく。まるでできの悪い生徒に教えるかのように、静かな落ち着いた声で僕に説明した。
再び目の前が真っ暗になりかけるが、なんとか踏ん張る。
「私の考えでは、こうです。フィルさんの事前の調査は神経質なくらい完璧です。それこそ、文献を読んだだけで、初見なはずのオプティ・フロッガーのスキル音を冷静に聞き分け、且つ最適なタイミングで私をフォローすることができるくらいに完璧です。当然、シィラ戦では、フィールドの地図は完全に記憶し、シィラをおびき寄せるルート、戦う場所に至るまで完璧に脳裏に描いていたはずです」
「ああ……その通りだ。僕は昔から事前調査には自信があるんだ……」
そうでなければ、生き残ってこれなかったから。
「だから、アリスはそれを利用した。戦う場所までわかっていれば、転移先さえ事前に決めておけば、後は莫大なエネルギーで転移魔法を使うだけです。少なくとも、突発的に長距離転移を試みるよりは、ずっと安全で、成功率が高い。そう、計画はこんな所でしょうか? まずは転移を使っても怪しまれない動機付けからです。アリスはまずシィラと相対して、いくつか手加減をしてスキルを放ちます。フィルさんが雑魚判断をしたとは言え、シィラの討伐依頼はL級の依頼、手加減をしたスキルで手傷を負うほど……弱くない」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
慌ててそれに口を挟んだ。
「それはおかしいだろ!? 僕は、初撃も二撃目も三撃目のスキルも確かに、命令したんだ。アリスに。命令した以上手加減なんてできるわけがない!」
「フィ、フィルさん……」
「フィル……」
小夜が僕の事を観ている。
セーラも僕が見ていた。
その二つの視線は完全に同じ色だ。
それは憐憫。
僕は度々使い、そして度々使われた同情の色。
まるで、可哀想なものでも見るかのようだった。
アムが泣きそうな眼で、しかし毅然とした視線で、本当に強い視線で僕を見た。
「フィルさんの弱点はそこです。たった数年でSSS級探求者に昇格し、友魔祭で史上最強の竜種の魔物使いすら破ったフィルさんの一番の弱点は――」
視線が僕を蹂躙する。
「スレイブを、信じすぎている事なんですよ」
と、スレイブが言った。可愛いスレイブが言った。とても儚げな、今にも消えてしまいそうな悲哀に満ちた表情で言った。
その言葉を理解する前に立て続けに言葉の波が押し寄せる。
「それがなければ聡明なフィルさんはとっくにこの絡繰に気づいていたはずなんです。同じレイスの本質を知る者として、真っ先にアリスを疑った私よりも先に」
冗談でも言っているのかと思った。
が、アムの眼に冗談を言っている色は全くない。
笑え。今すぐに笑ってくれ。これは冗談だと。
エティを見る。ガルドを見る。ランドを見て、白夜を見て、同じ魔物使いのリンを見て、そのスレイブの広谷を見た。
何故だ。
僕は……何か間違えたことをしたのか?
「スレイブは……信じるものだ。マスターがスレイブを信じずして、誰がスレイブを信じるんだ!! なぁ、僕はなにか……間違えているのか!?」
「フィルは……フィルは、俺とリンのあのざまを見てさえ、そんなことが言えるのか……」
広谷が目を見開いて愕然とつぶやく。リンももの哀しい眼で僕を見ていた。
そうだ、僕は信じていた。そうだとも、そうだとも、僕ならば、きっとスレイブの『鬼』を払えると。
広谷の、リンへの愛が、いや、リンの、広谷への愛が、全てを丸く納められると。
スレイブを愛せ。ただ愛せ。
見返りを考えず満たせ。溢れるほどに。その心の空隙を埋め尽くす程に。
与える事。何も疑わずにまず与える事だ。
それが僕の
それこそが僕の――
『喜びの型』
アムが構わずに言葉を続ける。
「まぁ、種が明かされてみれば簡単な話です。シィラが強かったんじゃない、アリスが手を抜いたんですよ。一言でいうと、フィルさんには聞き慣れない言葉かもしれませんが、裏切った、とでも言うべきでしょうか。フィルさんの命令を聞かなかった。聞かずに手加減した一撃を放った。ねぇ、フィルさん。アリスは強かったんですよね? しかも夜ならば、なおの事、L級の討伐を用心深いフィルさんに確信させるほどに」
「あ……あ……ああ……」
「そのアリスが、L級にダメージを与えられない? ありうるんですか、そんなことが? それから、なんて言ってましたっけ? 一撃受けただけで……」
僕の脳裏に、アリスのその必死の言葉が響き渡った。
どこまでも鮮明に。
『ご主人様、……まずいです。たった一度の攻撃で命が三割を切りました』
そう。確かにそう言った。だがそれは――
あ……ああ……
「そう、命が三割切ったって言ったんですよね? ねぇ、フィルさん。そんなことありうるんですか? その命って……HPの事じゃないですよね? HPの事を、ヒットポイントの事を、ただの体力の事を、あえてライフストックなんて仰々しい呼び方しませんもんねえ? ねぇ、フィルさん。ライフストックってなんなんですか? いや、答えなくていいです。私には大体予想が付いている。多分、私の予想が正しければ……それは文字通りーー」
一言一言が只管に重かった。
僕の脳髄を濁流が駆け巡る。口の中がからからだった。
アムの金色の瞳が僕を覗きこんでいた。まるで親の敵でも見るかのような険しい表情で。
「ーー命を備蓄するスキル。フィルさんが、スレイブが死ぬことを何よりも恐れるフィルさんが、シィラとの戦闘にアリスを選んだ最大の理由。そう、HPが0になってもーー死んでも生き返るスキルなんじゃないですか?」
「……馬鹿な、そんなスキルがこの世に存在するのか!?」
「……まさしく……奇跡のスキルなのです」
ガルドが驚愕に顔を歪める。エティが目を見開いて呟く。
確かに、確かに、確かに、確かに、デタラメなスキルではある。前例がないスキルではある。
が、世界が広い。
僕が偶然遭遇したそれは、まさに奇跡だった。
「あ、ああ。……アリス・ナイトウォーカーの種族スキル……生命操作の応用だ。アリスは……僕のスレイブは……余剰の命を……討伐した敵の命を自分の命として……ストックしておけた。HPが切れた際に、それを使って完全な蘇生が、できた」
「そんなスキルが……」
膨大な知識を持つ機械種である小夜でも聞いたことがないスキルだったのか、小夜が寒気に肩を震わせた。
アムがその驚愕を打ち消すかのように続きを紡ぐ。
「恐ろしいスキルです。確かに恐ろしいスキルです。でも、そこでアリスはとんでもないミスをした。苦戦の演技のためとはいえ、ありえない発言をしてしまったのですよ。フィルさんは本当にレイスを疑わなかった。もしそうでなかったらとっくにこの話は決着がついていたはずだったんです!」
嵐のように、言葉の一つ一つが僕を打ち据えていく。痛みはないのに、魂がバラバラになってしまうかのような衝撃が全身に伝播する。
もはや、誰がしゃべっているのかも理解できない。ただその意味が、僕の思考を切り刻んでいた。
「命のストックが三割を切った? いくつ命があったのか知りませんが、一撃でどうしてストックが七割も吹き飛ばされるんですか!? ねぇ、HPが0になった時に発動してストックを一個消費するスキルなら、一撃で全ストック七割も減るわけがないじゃないですか! その時、フィルさんはアリスの言葉を鼻で笑うべきだったんです! そんなことがあるわけがない、冗談はやめろって!」
その通りだ。
心は拒否していても、頭はそのアムの意見を肯定していた。
ありえないのだ、理論的に。だが僕は、アリスを信じたかった。だから信じてしまった。そのとんでもない馬鹿げた話を。
僕がそれを指摘すれば、そうすれば、アリスも恐らくそこで計画を停止せざるを得なかっただろう。
何故なら、アムの話を聞いて推測するに、この計画は僕が疑わない事が絶対の基盤になっている。
そこで、アムが一息ついた。
左右のメンバーに何事か目配せする。僕にはその理由を考える気力もない。
「そこで、私の推理は一端壁にぶつかりました。私がぶつかった壁はそう……動機です」
動機?
その言葉に、一瞬光明が見えた。
そうだ、動機だ。動機がない。アリスが僕を……転移させるわけがない。
何かの間違いだ。何故ならばアリスは、僕の……スレイブなのだから。
「フィルは本当に馬鹿なのです」
エティが、そんな僕に、無様なものでも見るかのような視線を落とす。
アムが、油断ない視線で話を続けた。
その姿に、形に、僕はあの泣き虫だったアムの姿を欠片も感じることができない。
「私には……アリスがそれを行った理由が見つからなかったんですよ。私怨? マスターであるフィルさんを殺す事? そんなわけがない。だって、アリスはフィルさんが死なないように注意に注意を重ねて計画を実行してるんですから。フィルさんを殺そうと考えているなら、座標なんて指定せずに適当に飛ばせばいい。脆弱なフィルさんはたった一人では一山いくらの敵にも勝てませんからね。しかもアイテムのほとんどはスレイブのアリスが持っていた。となるとそれは余計に好都合です。フィルさんは道具を持つと……やたら強くなりますから。でも、アイテムを持ってないフィルさんは雑魚です……そう、たかがF級のモデルドッグを相手取る事すらできず、私なんかと契約する程に……」
アムの言葉が僕の脳内を風のように通り抜ける。
アムの言っている事がわからない。言語はわかるが、脳がそれを理解することを拒んでいる。
何故、確かに動機がないはずなのに、こんな下らないアムの話を、僕は拒否しているのか。
正体不明のその情動がただただ恐ろしかった。
「フィルさん、フィルさんは私に言いましたよね? アストラル・リンクが切れたって。本来、切れるわけがないのに切れているって。いや、フィルさん。フィルさんの言動は確かに今冷静になって考えてみると、おかしかったです。初めに、言いましたよね? レイスの元スレイブが……アリスが死んでいるかどうかわからないから契約できないって。まぁ、その時は情報が足りなかったから気づかなかったのも仕方なかったんですけど、後から情報が揃ってみれば明らかにその発言はおかしい」
何がおかしいというのだ?
僕は、何もおかしなことは言っていない。
「ねぇ、リン。突然契約の紋章が切れたらどう思う?」
突然、アムがリンに振る。
それを予想していなかったのか、リンは慌てて自分の考えるままを口にだした。
「えっと……契約の紋章よね? 契約の解除は基本的にそういう契約でもなければ、両者の同意がなければできないから……いや、待って。そうか、例外は……そう」
リンが何かに気づいたように、大きく頷いた。
「スレイブかマスターの死による契約の強制解除」
「……そう、スレイブの死による解除。それですよ。アストラル・リンクは魂の契約といいます。片方が死んだらもう片方も死ぬらしいじゃないですか? 確かに、それが単純に切れていたらおかしいです。でも、でもですよ、フィルさん? 普通契約が切れていたら……本来切れるわけのないそれが切れていたら、まずはスレイブの死を疑うべきなんじゃないですか?」
「あ……ああ……その、とおりだ。それが、魔物使いの、セオリーだ」
教科書にも……載ってる。
魔物使いとしては、まだまだ未熟なリンが知っている程に、それは有名な事実だ。
「ですよね? でも、フィルさんはこれっぽっちも疑ってなかった。アストラル・リンクが切れていたのに、自分のスレイブが死んだなんてまったく、僅かも疑っていなかったんです。いくら強力なスレイブを連れていたからといって、いくら命を蓄える事ができる荒唐無稽なスレイブを連れていたからといって、これはどう考えてもおかしい」
そんなの……当たり前の話だ。
何故僕が、自らのスレイブの死を疑うだろうか?
だって僕は、そのスレイブを、
「ねぇ、フィルさん。私ずっと思ってたんですよ。つい昨日まで疑ってすら居なかったんです。馬鹿ですよね……フィルさん、フィルさんにとっては寝耳に水かもしれませんが、私ずっと、フィルさんが魂の契約を結んでいる相手は……」
アムが、まるで自分の不出来を厭うように、全精力が込められているかのような、悍ましい慟哭を上げた。
「アリス・ナイトウォーカーだったと思っていたんです! 友魔祭の決勝戦の映像を見るまでは……!」
ーーシィラ戦に連れてきてさえいないのだから。




