第三十七話:僕が全て悪い
「な、長いー! もうやだー!」
「こら、アム! これからよ、これから!」
余りの前座、茶番の長さにアムが悲鳴を上げた。
最初にフィルが出てきた時は、あ、フィルさんちょっと若い、くらいしか思わなかったが、続けてみていくとはっきり実感できた。
その言動も挙動も今と何ら変わっていない。いや、どちらかというと今の方が大人しいだろうか。
暴れるアムを、リンが必死になって宥める。
この茶番が人気で映写結晶の値段が跳ね上がったことは言わないほうがいいだろう。いまやプレミアまで付いているのだ。
次の回の大会の決勝戦映像と比べて、この回の結晶の映像は三倍から五倍の値段がした。
フィルは面だけがいいし、ケット・シーとクー・シーの二人の実況者もタイプは違えど、どこぞのアイドルなど歯牙にもかけないくらいに可愛いらしい。
また、言動も挙動も怪奇だが魔物使いのクラス持ちにとっては一種のシンパシーを感じさせるものだった。
本体の弱さが決して弱点にならない珍しいクラスだけあって、魔物使いは皆、無駄に広い心を持っている。
それは客席にいるマスターとスレイブの温度差を見ればはっきり理解できるだろう。
「いつになったら決勝戦が始まるの!?」
「ほら、もうすぐ始まるわよ!」
リンがなだめつつ、映像を指した。
*****
会場は極めて高いテンションに包まれていた。
魔物使い達は好奇心の塊であり、興味を引くものだとか、面白いものだとかに滅法弱い。
絶対王者に宣戦布告した傲慢な挑戦者の図式は、炎に油をブチ込むようなもので、熱狂は燃え上がる所、天井を知らない。
「さー、盛り上がってまいりました! さて、気になる所ですが、ここで両者のオッズの発表です!」
「にゃー」
すっかり弱ってしまったヴァイスが気弱な鳴き声を上げる。
友魔祭では、公式に賭け試合を行っていた。
それぞれの試合で、どちらが勝利するのか賭けが行われるのだ。元締めは大会の運営で、その額は莫大なものだった。
前評判、種族相性、保有スキルに保有クラス、ありとあらゆる要素が絡み合ったそれは、データリングと呼ばれる分析行為を常日頃やっている魔物使いの琴線に触れている。
オッズは大会で賭けている人数によって計算、決定され、有り体に言えば人気が高い程に倍率は低くなる。
大型のディスプレイに決勝戦のオッズが表示された。
『1.25 : 3.75』
会場が静まり返る。大体、例年通りの数字だった。
ノワールがそれを見て、一生懸命に声を張り上げる。
「おっと、さすが王者! 強い! 『無尽の金鱗』の名は伊達じゃないか!」
一方のヴァイスは、その数字を見て青ざめていた。
「にゃ……そ……そ、んな、馬鹿ニャ……ノワ、ノワ、逆、逆」
「へ? え?」
ノワールがヴァイスにつっつかれ、よくディスプレイを確認する。
そこに書いてある文章を読んで、口をぽかんと開けた。
思わず素で声を出す。
「え? なんで?」
「ニャ……ニャー……、にゃー、にゃー、一体、ど、どうなってるニャー……」
皆が、その数字の意味を考えていた。
ノワールは集計機械の故障をまず考え、ヴァイスは何がなんだかわからず『にゃー』としか言えなかった。
アルドが顔を顰めて数字を見て、フィルだけが大笑いで叫んだ。
「あははははははは、僕、大人気じゃないか! 見ろよ! 世界最強の魔物使いより、オッズが低いぞ!」
「ご主人……目立ち過……」
かくん。
頭が大きく揺れ、眼が半分ふさがっていたスレイブはとうとうあまりに始まらない試合に横になり始める始末。
ノワールが目を白黒させた。
「舐められているようだな、主」
「……何、すぐにわかるだろ。この大会は人気を競うものじゃない、強さを競うものだ。そうだろ、レン?」
「ああ、その通りだ」
会場内で最も冷静なのは試合の相手である、アルド・ファーフナーだった。
いくら挑発されても、茶番が繰り広げられても、竜種という絶対的なスレイブを持つ最強の魔物使いの精神には些かの乱れもない。
そして、マスターの精神が乱れないということは、すなわちスレイブの精神も乱れないということ。
それは確かに王者の王者たる姿だった。
そのアルドに、フィルがさらに言葉を持ちかける。
今度は何を言い出すのかと、観客が固唾を呑んで見守る。
「アルドさん、せっかくの大舞台だし、賭けをしませんか?」
「……賭け?」
「ああ……」
フィルが大きく頷く。白髪のスレイブが大きく欠伸をした。
大仰な動作で腕を振り上げ、一点を指さした。
「僕が勝ったら……アルドさんのスレイブのデータが欲しい!」
「……は?」
あまりの台詞にアルドが聞き間違えかと声を上げる。
フィルの眼は再び欲望に塗れ濁っていた。
「竜種なんて超レアだ。しかもそのスレイブ、元L級の金色竜だろ? 伝説級の竜を操るなんて……是非、是非、是非に僕にそのデータを複製させてくれ!」
「君は何を言ってるんだ……」
思わず素に戻ったアルドに、そのまま自分の要求を自分勝手につきつける。
「いや、こんないい機会、もうないよ? 竜種なんて滅多に触らせてもらえないんだから! いや、触らなくていい! 僕は指一本触れなくていい! だからだからだから是非に! ファーフナー家がその二千三百年の歴史の中でとったそのデータを、僕にくれッ!!」
その言葉には一片の嘘も混じっていない。純粋な欲望。
アルドはその瞬間に確信した。今回の対戦相手は完全に違う。
誇りも品性も名誉にも興味はなく、ただその自分の欲望にのみ沿って行動する在り方は間違いなく魔物使いの闇そのものだ。
フィル・ガーデンはたった一戦で全てを手に入れようとしている。
アルドが一度咳払いをして、無駄だと半ば確信しつつも説得を試みる。
「ファーフナーの研究結果を得た所で君には何のメリットもないよ? なんたってファーフナーには竜を育てる術はあっても竜と契約する術はないのだから」
「いい! それで、いい! 僕はただ、魔物使いの最高峰である、ファーフナーの研究結果を見たいだけなんだッ! その叡智の一端に触れたいだけなんだ!」
欲望に情熱。
人の醜い所にこそ、人の魅力があるという。
そういう意味で言うと、フィルは今凄まじく魅力的だった。魔物使いの祭典という事で完全にメーターを振り切り、その眼はただ前しか見ていない。
「ファーフナーの研究結果は膨大だ。全部見るだけで君の寿命を使いきってしまうだろう」
「構わないッ! 僕は……竜種の神秘に触れるためならば……死ねるッ!!」
その意志に、その魂の慟哭に、アルドはその瞬間確かに、愛が足りないと言われるのも癪だが仕方ないかなーと思った。思ってしまった。
そのくらいに、その叫びは悍ましく、力に満ちていた。
「……いいだろう、そこまで言うなら、賭けてやろうじゃないか。ファーフナー、数千年の歴史を! だが、君の方は何をかけてくれるんだい? フィルさん?」
いい。わかった。そこまで言うのならば、受けてやろう。だが、それならば、ファーフナーの研究成果に見合うものを挑戦者側が賭けるのが道理。
アルドの視線を受けて、フィルは天を仰ぐと、唐突に涙を流した。はらはらと水滴が頬を流れる。
カメラが向いていたせいで、ディスプレイに総アップにされていた。会場が騒然とする。
「ちょ……」
「そうだな……ファーフナーの研究成果に見合う品を、僕も賭けよう。涙を飲んで――」
「そ、それは……泣くほどのものなのか?」
「ああ、勿論だ。新米の魔物使いにとって偉大なる歴史に見合う品など、そうはないからね。僕は、もし敗北したら一生後悔するだろうが、僕は――」
フィルの指先がある一点を指した。
腹に力を込めて堂々と言い放った。
「――ノワールとヴァイスの部屋に行く権利をッ!! 賭けるッ!!」
「はぁああああああああ!?」
想定外極まりないその言葉に、アルドがぽかんとした表情で、フィルの指差す先――司会席に視線を動かす。
「な、何、勝手な事、言ってるニャ!? そんなの、フィルの権利じゃないニャ!?」
「そ、そうですよ! 大体、優勝したら部屋に呼ぶって、ヴァイスだけでしょ!?」
「ニャ!? ノワに、裏切られたニャ……」
愕然としているノワールに、フィルがあっけらかんと言う。
「いや、ヴァイスもノワールも同じ部屋じゃん」
「そ、それはそうですけど……でも、私は席を外すので! 私は呼ぶって言ってないので! ヴァイスが勝手に約束しただけなのでッ!」
「チッ、仕方ない……ヴァイスで我慢するか……」
「あ、あんまりです……にゃ」
ヴァイスが屈辱のあまりとうとう崩れ落ちる。
そんなの歯牙にもかけず、視線さえ向けずに、自信満々にアルドに言い放った。
「どうだ、これで! さしものファーフナーの歴史と言えど、滅多に人里に降りてこないケット・シーのデータ取得の機会には変えられまい!」
「い、いや、今更なんだが……フィルさん、頭おかしい?」
司会二人と、観客席のスレイブ達の意見を代弁するような形でアルドがついにその言葉を出した。
フィルが奇怪なものでも見るかのような視線をアルドに向けた。
「なん……だと……まさか、アルドさんは……竜しか駄目な人なのか?」
「いやいやいや! 竜しか駄目な人ってなにそれ!? そういうことじゃないからね!?」
「じゃあ何が不満なんだよ! あんなに可愛いケット・シーを……好き放題できるっていうのに!!」
「ニャ!? 好き放題!? そこまで、言ってないです!? ニャ!?」
「大体、ヴァイスさんも、ノワールさんも、別にフィルさんのものってわけじゃないんだろ!? 賭けの対象にするなんておかしいじゃないか!」
「そうニャ! おかしいです! ニャ!」
「だが、僕が勝ったら僕のものだ!」
「ニャーは、ニャーは、フィルのものになんかならないニャ!?」
「それは君が勝ったらだろ! 言っておくが、私は負けるつもりはないぞ!!」
「ニャー! そうだニャー! アルドさんは最強ですニャー! 竜種が負けるわけがないのニャー!」
「その権利をアルドさんにも拡張してやると言ってるんだ!」
「ニャ!? ……そ、そんな権利、フィルには、ないの……ニャー……」
「だからそれがおかしいって言ってるんだ! 自分のものを賭けろッ!」
「そうニャー。そうニャー! 自分のものを賭けろニャー!」
「だから言ってるだろッ! ノワールもつけるって!」
「ええ!? 私、全然、関係なくないですかッ!?」
「にゃーにゃーにゃー!」
「ええぃ! にゃーにゃーうるさいぞッ! ヴァイス! 僕は今、真剣に話をしてるんだッ!」
「に……とばっちり……です……」
状況の展開についていけず、ヴァイスが完全に目を回してダウンした。ノワールが慌ててそれを抱き起こす。
正直、試合が始まってもいないのにこれじゃ、試合が始まってから自分一人で実況できる気がしない。
はぁはぁ、と肩で息をしながらフィルが手強い試合相手を睨みつける。
声量と声質には自信があるが、根本的に体力がないので長時間叫び続けるのはさすがにキツイ。
一方のアルドも高度な精神攻撃を受けて、体力はともかく精神的にくたくただった。
これ以上争っても、不毛な体力を消費するだけだ。フィルは仕方なく妥協案を出した。
「仕方ない、大したものでもないが、うちの子のデータを賭けようじゃないか……」
「……ああ。いいだろう」
ファーフナー家の研究成果と一個人のスレイブの研究成果では質も量も全く釣り合っていない。
が、アルドはもうどうでもよくなっていた。所詮は勝てばいいだけの話だし、仮に万が一、敗北して研究成果をたった一人の魔物使いに見せたところで、奪われるわけではないのだ。というか、これ以上無駄な交渉をしたくない。
特に大勢に影響はないし、ここまで来た魔物使いのスレイブのデータには、世襲とは言え、一端の魔物使いのアルドも興味がなくはなかった。フィルが傾ける情熱程ではないが。
やっとまとまったところで、もう身体がぐったり重くなったノワールがなんとか自分の身体を叱咤して立ち上がる。これでも何とか進行を進めようとするその有り様は、間違いなくノワールの次の人気投票に大きな恵みを齎す事だろう。
「えっと……それでは、話がまとまったようなので試合の方を開始したいと思います」
これ以上なんか変なことを言い出さないうちにさっさと大会のルール説明に移る。
もう一月以上にわたって繰り広げてきた大会だが、確認のために毎回試合開始前にルールの確認をする習わしだった。
「皆様、ご存知かと思いますが、試合のルールを説明させていただきます。勝負はKO制。双方のスレイブ同士が争い、先に片方のスレイブが戦闘不能とみなされた場合に決着となります。禁止事項は、相手スレイブへのマスターからの直接干渉と相手マスターへの攻撃になります。マスターは基本的には試合には不干渉。自らのスレイブに付与をかけることは可能ですが、相手のスレイブに弱体をかける事はルール違反になります。また、現在立っている円形のマスターの立ち位置の範囲内から出た場合も負けです。尤も、魔物使いの付与スキルはスレイブに限り範囲が広いので、困る事はないでしょう」
「僕、付与スキルほとんど使えないけどね。魔力が足りなくて」
ノワールが聞き捨てならない言葉を聞いた気がするが、疲れたのでもうつっこむのを辞めた。
アルドも顔を歪めてフィルの方を観ている。神聖な大会を馬鹿にしているとしか思えない。が、フィルの魔力は確かに――
「……各々のマスターは一体だけスレイブを出す事ができます。群体型のスレイブの場合でも、公平を喫するため、一体のみの参加が可能です。ただし、召喚系のスキルで手駒を増やす分にはルールの範囲内です。また、スレイブが幻想精霊種の場合は閉塞世界の顕現は認められません。これは、コロシアムを飲み込んで被害を外に出さないための致し方ない処置です。ご了承ください。分かりましたか? フィルさん!」
「ニャーがシー・ワールドを顕現したらこんなちっぽけなコロシアムじゃ、とても入りきれないにゃ。仕方ない事なのにゃ。わかったかニャ? フィル」
もうぼろぼろのヴァイスが再び蘇ってマイクに飛びつく。凄い根性だな、と人事ながらノワールは思う。
転がったり泣き出したりしたせいで服装も乱れに乱れ、肌がもう見えまくっているが余りに哀れなせいか誰も気にしていなかった。
いつの間にか劣等感すら消え去っている。抱きしめてよしよしと頭を撫でてあげたくなった。
フィルがその有り様に、やれやれとため息をつく。
誰のせいにゃ、誰の! と言いたくなったが、絶対に言い訳されるのでヴァイスは考えるのをやめた。
「では、互いにスポーツマンシップに則って戦いましょう! アルド選手、フィル選手、準備の方はよろしいですか?」
「アルドさん」
フィルが真面目な顔で対戦相手に声をかける。
油断の欠片もない表情でアルドがそれに応えた。
「何か?」
「……僕は魔物使いの付与スキルが使えないので、スキルは使いませんが、アルドさんは遠慮せずに自由に好きなように使っていいですよ?」
「は?」
想定外のその言葉に、アルドが目を丸くする。
そんな使えなどと言われなくても使うつもりだった。なにせ、それも魔物使いの実力のうちなのだから。
フィルがそのまま続けてヘラヘラと癇に障る声で話しかける。
「『猛る竜の光』でも『ざわめく風の影身』でも『揺らめく水面の銀月』でも好きなだけどうぞ。負けた時に言い訳されるとこっちが困るので」
「……こい……つ……」
さすがのアルドも虚仮にされすぎて頭に血が上る。
舐められていた。あれだけ竜は強いとか、最強だとか言っておいてこの手のひらの返しよう。
ここまで馬鹿にされては言い返さずには居られない。アルドにも魔物使いとしてのプライドがあった。
「く……いいだろう、そこまで言われて、私だけスキルを使うわけには、いかないな! 純粋にスレイブの力と指揮力で勝負だッ!!」
「……約束ですよ?」
フィルが満面の笑みでさらに手の平を返す。
嵌められた。そう悟っても、アルドは自分の決定に微塵の後悔もしなかった。どっちにしろ、あそこまで言われてスキルを使ったら、いい笑いものだ。
ノワールが引きつった表情で両者に声をかける。今の応酬はどの角度から見ても、全くスポーツマンシップに全然則ってない。
「えっと……それじゃ、準備はよろしいでしょうか?」
「……お主には悪いが主のためだ……恨むなら自らの主を恨むとよかろう」
竜が重苦しい口調で口を開く。口腔からはちらちらと金色の魔力の欠片が揺らめいていた。
対するフィルのスレイブは、ふらふらゆらゆらと緩慢な揺れを見せながらも、眼を半分だけ開けた。
薄く開かれた瞼の隙間から銀の虹彩が覗かれていた。
頼りない所作で口を開き、囁くなるような、眠くなるような声を出した。
「勝ち負け……文句なし……負け……も……次ある……大丈……夫……ね?」
慰めるようににこりと笑った。
言ってる内容はマスターと同様に恐ろしく馬鹿にした内容だが、それよりも先にそのふらついている足元が危なっかしくて仕方ない。
むしろ、アルドの方が、眠りの魔法をかけられたかのようなその様子に心配になってフィルに声をかけた。
どれだけ馬鹿にされても、アルドは紳士的だった。異性をスレイブにするのが魔物使いのセオリーとは言え、一方的な蹂躙はアルドの臨む所でもない。
「フィルさん、君のスレイブ、大丈夫かい? 大体その子、何の種族なんだい?」
「……大丈夫じゃないかも……」
フィルも心配そうな視線を自らのスレイブに向けていた。
その様子にアルドが愕然とする。
なんちゅーものを竜に挑ませるのだ。
会場内の半数が心の中で突っ込む。
もう半数は何も言わなかった。決勝に当たるまでのフィルの試合を見てきたメンバーだ。あれはあんな形をしていても、決勝戦まで勝ち進んだ正真正銘の化け物である。それが共通認識だった。
白い髪がさらさらと風に流れる。上を向いて、自らのマスターを向いて、少女が一言、ぼんやりと決意表明をした。
「私……勝つ。ご主人様……上が……る。十全……ね?」
「……眠くないか?」
「大丈…………すぅ……」
かくん。と、再び船を漕ぎ始めるのを見て、慌ててフィルが要請した。
「早く、早く試合開始して! うちの子が寝ちゃう!」
意味の分からない要請に、ノワールは慌ててマイクに怒鳴りつけた。
「ええっと……どうなっても知りませんよ!? 第三百二十二回決勝戦試合、開始!」
試合開始の合図。大きな鐘の音がなる。
決勝開始に相応しい鈍く神々しい鐘の音が。
それは単純な覚悟の差だった。
アルドもレンもノワールもヴァイスもフィルでさえも一時そちらに注意した瞬間に、少女はたった一人既に動き出していた。
眠りの渦に消えかける意識の下に命令を出す。
身体の動作は緩慢。腕も足も細く力が入らず全く頼りない。
だが、少女は知っていた。それでいいのだ。全くもって問題ない。
五感も意識も心も魂ですら主に捧げたその底に残ったのは純粋な力であった。
その少女には見えない無数の手があった。そしてそれだけで全ては事足りる。
故に、その状態こそが十全にして万全。
「先手……ひっしょー……『三千世界の螺旋刃』」
小さく魔法の言葉を呟く。そして幸か不幸か、どれだけ小さな声であっても、それは鋭敏な竜の五感に十分に捉えられた。
竜の眼光が少女を貫く。
脳が信号を発する。
自分が油断していたことを悟る。
敵を前に、どうして油断してしまっていたのか。
マスターがスキルを使えないということは、スレイブがそれを凌駕するほど化け物じみているという事に他ならないというのに。
鐘に気を取られていたのはほんの刹那の瞬間でしかない。
だが、全ては遅すぎた。
レンと呼ばれる竜の眼に入ったのは、無数の食器だった。
ナイフ、フォーク、スプーン、皿、コーヒーカップから、包丁、鍋、お玉、フライパンなどの調理器具に至るまで。
こんなに大量の道具をどこに持っていたのか、いつの間に取り出したのか、本来なら武器にも満たないただの家具である。
馬鹿にしているようにしか見えないが、如何なる術理か、全てが白い光でコーティングされているその多彩な器具が浮遊し、数百数千とこちらに向けられる様は、最強種の竜を持ってしてもある種の悪寒を感じざるを得なかった。意味が分からないし、これから何が起こるのかもわからない。
唯一、少女の自らの二本の手でしっかり握られているのは箒。それだけが白い光に包まれていない唯一の家事道具であり、同時にただの家事道具であるわけがない。
器具類が音もなく、容赦もなく、言い訳も聞かずに無慈悲に射出された。
レンは口腔を僅かに開く。が、出てきたのは竜の吐息でもなく、術式でもなく、ただの単純な言葉だった。
「名を……」
「…………」
少女の武器が、無数の見えない腕によって凄まじい運動エネルギーをかけられ、対戦相手の身体を打ち付ける。叩きつけられた器具は再度掬われ、再び猛スピードで反転して再び巨体を穿った。
まるで生きているかのように。
そう、食器が、器具がかけられた過剰な力に粉々になるまで。
白の嵐が発生し、その全ての治まるまで十秒にも満たない。
掘削機にかけられたかのような轟音に、司会の二人も息を呑み、言葉を発することを忘れた。
粉々になった白い金属粉が舞い、煙となって会場全体を包み込む。
少女は億劫な表情でさらに魔法の言葉を発しようと試み、そこで自分が問いに答えていないことに気づいた。唇に指を当て、刹那の瞬間考え、答える。眠気は既に限界だった。
「…私…ご主人……様…………………ア……リ…………ス……です……すぅ……」
話している最中に微睡みに飲まれ、かくんと首が落ち、あまりにあまりな試合内容に、観客席は騒然とした。
カメラには特殊な処置がされており、目に見えない程の粉塵の内部を鮮明に写すことができた。カメラからだと、アルドのスレイブも、フィルのスレイブも、一挙一動に至るまで鮮明に詳らかにしている。
アルドが呆然とした表情でコロシアムを見る。だが、分かっていた。竜種は、それも数千年の歴史を持つファーフナーの操る竜は、この程度の攻撃では、微塵も揺るがないと。
ただ、先手を取られただけだ。そしてその認識は正しかった。
小山のような巨体が白い霧の中で動く。
だが、その時には一瞬意識を落とした少女が再び目を覚ましていた。
微睡みの海に揺蕩いつつも、動作は隙だらけだが、その戦意に隙はない。寝ぼけ眼で呟いた。
手の平を無造作に上に向ける。躊躇いなく呟く。追撃は大事だ。相手を討ち滅ぼすために、禍根を断つために、マスターに報いるために、絶対に逃がしてはならない。
「あ……ターン……じゃ……ない……です。『消え不の灯火』」
手の平に小さな炎が灯り、次の瞬間、半径数百メートルあるコロシアム全体が巨大な閃光に包まれた。
*****
「何このスレイブ……」
映像を固唾を呑んで見守っていた、アムが呆然と呟く。頭の中は澄み切っている、が、思考が全く働かない。
リンがその様子に満足気に頷く。
「凄いでしょ? フィルさんのスレイブ。この強さ。いや、フィルさんも凄いんだけど、でもこんな小さな子があれだけの魔法を放つなんて、やっぱり規格外よね……」
「……なんという底の知れない魔力だ……しかもあんなスキル見たことないぞ!? ……世界は広いな……でも、何で食器……」
広谷も、リンも絶賛していた。
確かに強い。確かに凄まじい。
強力無比の竜種の眼光に貫かれ平然と攻撃できるその胆力。空間を歪ませる程のその力に、あんな状態で主人に『勝利する』と言い切る忠誠心。そのどれをとっても……まさしく非凡。まさに竜に相対するに相応しい逸材だ。
だが、アムの言いたいことはそんなんじゃなかった。
アムが映像を見て気づいた事は、その能力ではなくもっと些細な事だった。
その瞬間に、アムの中で全てが繋がる。いや、繋がったような気がした。
自分が思い違いをしていたことに初めて気づく。
そうか、そういうことか。
おかしくない。確かに、そうであってもおかしくなかった。
……それは……いや、それじゃあ……そんなの……
――仕方ないじゃないか。
リンが映写結晶を一時停止し、心配そうな眼でアムを見る。
「……アム? どうしたの? そんなぼうっとした顔して」
「……ううん、何でもない……」
「目指すもののあまりの高さにびっくりした? なんか憑き物でも落ちたような顔してるわよ?」
「……うん……確かにあれは……敵わないかも」
呆然とつぶやく。考える。その意味を。
だってあの子、戦闘直前に、笑顔でフィルさんを見上げていた。
自分の頬を指で確かめるが、涙は溢れていなかった。
念のために、リンに確かめる。
「ねぇ、リン、フィルさんのスレイブ、対戦相手に名を問われたでしょ? なんて答えたか聞こえた?」
「え? 聞こえてなかったの? ちゃんと見なさいよ。確かに、最初の方は聞こえなかったけど……『アリス』って名乗ってたわ」
「広谷さんは聞こえました?」
リンは自身満々だったが、初めて映像を見たであろう広谷の方は顔を顰めて横に振った。
「いや、聞こえなかったな……眠そうで、舌っ足らずだったし……だが確かに、リンの言うとおり『アリス』と聞こえたような気もするが……」
その言葉に、確信を深める。
「……やっぱり……か。ねぇ、リンって決勝戦以外の映写結晶って持ってるの?」
「い、いや。持ってないわ……一番面白いって評判だったのは決勝戦だったし……映写結晶って高いのよ?」
「やっぱり……」
なんという偶然だろうか。
他の映写結晶を見ていれば、確実に気づいていただろう。いや、逆になければおかしい。
今の決勝戦、フィルは偶然か否か、自らのスレイブの名を呼ばなかった。リンが気づかなかったということは、決着が付いたはずのこの先の映像でも呼ばなかったのだろう。
アムでなければ。フィルのスレイブであり、一週間ちょっととはいえ、絆を結んだアムでなければ気づかなかっただろう。
他愛もない嫉妬から集めていた知識のピースが今、偶然にもピッタリと嵌っていた。
「何よ、決勝戦以外も見たいの? ……お金貯めたら買おうかしら……」
見当外れな事を呟くリンに、一言だけわかったことを言っておく
「……リン、さっき映写結晶に映っていたスレイブは『アリス』じゃないわ」
「え? アリスでしょ? フィル・ガーデンのスレイブと言ったら、アリス・ナイトウォーカーじゃない?」
リンが訝しげな視線を向ける。
恐らく、最も有名なのであろう、フィルのスレイブの名を出す。
そうじゃない、そうじゃないのだ。やはり、リンも勘違いしている。
確かに、アムもフィルからその名、その容姿、その能力の高さを聞いていた。
だが、今出てきたスレイブは明らかに違う。
なにせ、スレイブ本人がしっかりと自己紹介しているのだ。いや、しっかりしてはいなかったが、高性能のマイクでも集音しきれない程しっかりしていなかったが、少なくとも彼女自身は名乗ったつもりだったろうし、散々注意力が足りないと、フィルに怒られていたアムには、しっかりとその言葉が読み取れた。
「あのスレイブは……ところどころ抜けていたけど、半分以上抜けてたけど、多分、こう言ってた」
そこで大きく深呼吸をして、首を傾げてアムの言葉を待っているリンにはっきりと言った。
そのスレイブの唇が吐いた言葉を。
「『私はご主人様、フィル・ガーデンに仕える幻想精霊種の一画、アシュリー・ブラウニー。世界最強のスレイブです』って」
私……全てわかっちゃいました。フィルさん。
これこそが、最後のピース。冷静に考えれば、SSS級探求者のスレイブが、一人しかいないと考える方が不自然だ。ヒントはこれまでもいくつもあった。
悪いのが誰なのか、シィラなのか、アムなのか、アリスなのか、はたまたアシュリーなのか、それとも……フィル本人なのか。
アムにはわからなかった。
いや、恐らくフィルだったらこういうだろう。
僕が全て悪い、と。
後十話弱くらいで終わります。




