第三十三話:『コルプス・ブルーム』って……何?
アムが眼を覚ました時には、フィルは既にどこにも居なかった。
一緒の部屋で寝起きするようになってから初めての経験だった。薬を使ってさえフィルの寝起きはアムよりも遥かに悪く、アムが先に起きて身だしなみを整えてから寝起きの悪いマスターを起こすのが日課になっていた。
首を傾げながらさっさと着替えて一階に行った。既に朝食の準備が整っている。が、フィルの姿はどこにもない。
時計を見ると、いつもの起床時間より一時間以上早かった。
厨房を覗くが、何やら料理を研究中のアネットしかいない。
扉の影から厨房を覗くアムに、アネットが気づいて声をかける。
「あら、アムちゃん。おはよう。今日は早いんだねえ……」
「おはようございます……あの、フィルさん見ませんでした?」
「アムちゃんはフィルさんにべったりだねえ……」
「……マスターなので」
布巾で手を拭いて、アネットがため息をついた。どこか哀れみが篭っている表情。
アネットと知り合ってから結構経つが、初めて見る表情にアムが一瞬言いよどむ。
「まぁ、かまやぁしないがね。フィルさんもプライマリー・ヒューマンだし……他種族に比べたら敷居はそりゃ低いだろうさ」
「……? 何の話ですか?」
訝しげな表情でアムが尋ねる、が、アネットは半端な笑みを浮かべたままだ。
「いや、何でもないんだよ……フィルさんだったかい? 用事があると言って朝早くに出て行ったよ。あ、朝食は作ってったよ。テーブルにあるから勝手に食べておくれ」
「……はい、ありがとうございます」
用事……?
首を傾げながら、厨房を後にする。
今日は休みにすると言っていたはずだ。オフは『徹底的』に休むとも。
仕方なく一人でテーブルにつき、用意された朝食を食べる。
食パンと目玉焼きに、野菜サラダという極めて簡素なメニューだが、わけがわからないくらいにアムの口に合う。
食べていると、階上からリンがスレイブの広谷を伴って降りてきた。
「あら、おはよう、アム」
「……おはよう」
昨日散々、フィルにくっついたのに全く悪びれもない挨拶に少しいらっとするが、なんとかその感情を押し込める。
スキルの訓練。あれは、スキルの訓練なのだ。フィルもそう言っていたし、リンはともかくフィルは顔色一つ変えていなかったから、決して我慢強い方でもないアムでもなんとか我慢できた。
「あれ? フィルさんは?」
「……どっかにお出かけしました」
「え? 今日って休みなんじゃないの? アムを置いて……?」
「……うっ……」
「あー、もう、悪かった。私が悪かったから! ほら、泣かないで!」
「はぁ……毎度毎度良くも飽きもせずやるもんだな」
涙をにじませるアムに、リンが慌てて謝罪する。
一緒に住むようになってからよく見る光景に、広谷が呆れたようにため息をついた。
リンと広谷がテーブルに着く。居間は酷く静かだった。
もそもそと黙って食事を続けるアムにリンが見るに見かねて声をかける。
「……どうしたの? 何か覇気が無いわよ?」
「……いや、こんなにフィルさんに放って置かれる事、初めてだから……ちょっと、気が抜けちゃって……」
「……ずっと一緒だったの?」
「……」
こくん、と小さく頷く。
今思い返すと、スレイブになってからずっと一緒にいた気がする。
いや、余りに起きないフィルを見かねて自分から依頼を受けに行ったり、買い物を頼まれて離れた事はあるが、マスターの方から何も言わずにいなくなるという事はなかったのだ。
変な所でスペックが高い代わりに、生活習慣がボロボロなフィルは基本的にアムが起こさないと起きられないし、アムが戦わないと依頼をこなせない。
何も指示なく放っておかれるのは初めてだった。
リンがため息を着く。
「そういうの、よくないわよ? ほら、もっと元気出して。しゃんとしなさい! 今のアムをフィルさんが見たら、悲しむわよ?」
確かにリンの言う通りだ。
まるで今の自分は糸の切れた操り人形だな、と思った。
こんなのを見たら、フィルも自分に呆れるだろう。何しろ彼は、どんな時でも比較的、自分の意志を尊重してくれたのだから。
自分はスレイブになる前にどんな生活を送っていたのか、僅か一週間ちょっと前の事なのにもう霞のように思い出せない。少なくとも、今と比べたらつまらない生活を送っていたのだろう。
それに、マスターが側にいないというのもいい機会だった。これは、チャンスだ。
アムにも常日頃機会があったらやろうと思っていたことがあった。絶対にマスターに気づかれてはいけない事が。
少し元気が出てきたアムに、リンがほっとしたようにため息を着く。アムの分を作るついでに作り置きした料理を一口食み、『……何を入れればこんなに美味しくなるのかしら?』と首をかしげる。同じ魔物使いが見てもその味は明らかにおかしいらしい。その顔がおかしくて、少し笑った。
ついでに、一つだけ聞きたいことがあったのを思い出す。
テキパキと食事を続けるリンに聞いた。
「あ、そういえば。リンに少し聞きたいことがあるんだけど……」
「ん? 何?」
「『コルプス・ブルーム』って……何?」
「コルプス・ブルーム……? ああ、『コラプス・ブルーム』ね」
リンがちょっと首を傾げて、すぐに思い立ったのか言い直す。
アムにしてみればどっちにしても意味がわからない。
白夜というガイノイドも、そしてリン本人も口にしたその意味の分からない単語を、少し間違えていたとはいえ覚えていたのはただの偶然だ。
「そう、それそれ。フィルさんの事を指しているみたいなんだけど……」
リンが呆れたように言う。
「アム、そんなことも知らなかったの? いーい? SSS級探求者になると、ギルドから二つ名を貰えるのよ。SSS級じゃなくても優秀ならもらえるらしいけど……。聞いたことあるでしょ? 灼熱の真槍とか、旋風の龍刃とか。まぁ、一種の探求者の称号ね」
「ああ……」
それを聞いて、確かに思い出した。
その二つは最近まで率先して情報を集めていなかったアムにでも聞き覚えのある単語だった。探求者になって半年あまりしか経っていないアムにもわかるのだ。相当有名な単語だろう。
が、その二つと比べてコラプス・ブルームというのは聞いたことがない。
リンが出来の悪い生徒に教えるように話を続ける。
「まぁ、王国ギルドが世界最強の魔物使い、フィル・ガーデンに与えた二つ名が『コラプス・ブルーム』ってわけ。魔物使いのSSS級探求者と言ったら無尽の金鱗が一番有名だけど……何しろ魔物使いって狭い世界だから、知られていないのも無理はないわね」
訳知り顔で頷くリンに、アムは迷った。
聞くべきか聞かざるべきか……いや、聞くべきだろう。仮にも自分のマスターの情報だ。集めておいて損はない。
「……ねぇ、リン」
「ん、何?」
「コラプスって何?」
「……はぁ……アムはもう少し勉強するべきね……」
予想通りの呆れ顔でリンが深くため息をついた。
そんなこと言われても、分からないものはわからないのだ。じっと答えを待つアムに応えたのは、リンではなく広谷だった。
「フィル・ガーデンの二つ名はコラプス・ブルーム……白の凶星だ」
「……あら、広谷、貴方知ってたの?」
広谷が顔をしかめる。目の前の皿はとっくに空になっていた。
子鬼とは言え、二メートル強の身体でリンやアムと同じ量の食事では少々、少なすぎたらしい。
「……わざわざ調べたからな。まだ若いとは言え、SSS級探求者、魔物使いの世界では有名人だな。調べようと思えばいくらでも資料は残っていたぞ。……一応最新の魔物使いの教科書……年表にもざっくり載ってるしな。友魔祭の優勝者として」
「……さすがね、やるじゃない」
リンが眼を丸くして己のスレイブを称賛する。
鬼の知性が低いと考えられていたのはずいぶんと昔の話だ。魂質が悪性に偏っているとは言え、その本質は身体能力を活かして暴れるだけではない。
アムが口の中で単語を呟く。それはいかにも不吉な語句だった。
「白の凶星……」
「ギルドが与える二つ名には法則があってな……その探求者の本質に従い付与されるんだ。例えば、灼熱の真槍は炎の槍を自由自在に操る槍術士の達人だし、旋風の龍刃は、まるで旋風のように動き『龍刃』のスキルで切り刻む戦法を最も得意としていると探求者だと聞く。まぁ、探求者が荒事を飯のタネにしている以上、その本質も自然と武器の名前とか戦法の名前とかになっていくわけだ」
「……てことは、例えばリンがSSS級探求者になったとしたら……」
「魔物使いの武器はスレイブだから、まぁ、リンが本当にSSS級探求者になれるかとか、それまで俺がリンのスレイブとしていられるか、とか色々懸念点はあるが、まず俺の武器である『刀』とか、あるいは『鬼』に類する二つ名になるだろうな」
「……失礼ね。なるわよ!」
フォークを咥えながら行儀悪く、リンがそう嘯いた。
アムは一生懸命その単語を分解し、並べ直し、頭の中で組み立てていた。自分の考えを整理するように口にだす。
「ということは……白の凶星が二つ名のフィルさんの武器は……白い星?」
その安直な発想に広谷が首を横に振る。
「……いや、戦法までは記載されていなかったが、さすがに星が武器という事はないだろう。そもそも、コラプスの本来の意味は崩落だ。まぁ、二つ名はそう厳密に決められているわけじゃない。『意訳』という奴だな」
「崩落……ですか。という事は……ブルームは?」
「ブルームは箒よ」
リンが、自分を蚊帳の外に続いている会話に面白くなさそうに言葉を差しこんだ。
アムも寂しがり屋だが、リンも十分寂しがり屋だった。ある意味二人でパーティを組んでいたというのもある種の必然と言えるだろう。
「崩落の箒を訳して白の凶星……?」
「白はアリス・ナイトウォーカー……フィルさんのスレイブの髪の色と武器の色よ。無尽の金鱗のスレイブだって金ピカなんだから……スレイブの色を取るのは、魔物使いが付けられる二つ名としてはよくある話だわ。ましてや、フィルさんのスレイブは魂の契約で結ばれて、絶対的に繋がっていたのよ? そりゃ二つ名も自身の半身であるスレイブの事になるでしょ?」
「凶星は?」
「……もう! 少しは自分で考えなさい! 凶星は……かつて、凶兆の前兆と言われた……箒星の事よ!」
「リン……詳しいな……文献にはそこまで載ってなかったぞ」
「……何よ、悪い? 魔物使いが、尊敬する魔物使いの事を知ってて何か悪いっていうの? 調べたのよ! 気になることは全て調べないと気が済まない質なのよ!」
広谷の言葉に、恥ずかしかったのか顔を真っ赤にしてテーブルを叩く。
リンがしおらしいのはフィルの前でだけで、それが本来の性格だった。
だが、まだアムの求める答えには至っていない。
何かが引っかかっていた。喉に小骨が引っかかっているかのような違和感。
二つ名が格好悪いとか、凶星の単語と自身のマスターの姿が結びつかないとか、そういう意味ではない。
格好悪いのではなく、おかしい、だ。不自然なのだ。
フィルはアムの前では前のスレイブの話は余りしない。勿論、アムが聞けば答えてくれるので、恐らく隠しているのではなく、意図して言わないようにしているのだろう。
現スレイブには前スレイブの情報をなるべく言わない。それはそもそもの魔物使いのセオリーだった。
確かに、何かがアムの直感に引っかかる。
だが、何がおかしいのかが、言葉では表現できない。
つらつらと口から漏れるままに言葉を吐き出す。
「……あれ? でも箒星なら、訳は箒じゃなくて彗星になるんじゃないの?」
「……もう! そんなに二つ名が気になるなら、ギルドの二つ名を付与した奴に聞きなさいよ!」
「リン……もしかして知らないの?」
うんざりした様子でリンが答えるが、アムの言葉に眉をぴくりと動かした。何かが琴線に触れたらしい。
「勿論知ってるわよ! 彗星ではなく箒になった理由はーーフィルさんのスレイブの武器が珍しい事にーー『箒』だったからよ! 確かに箒星の訳はコメットだけど、戦法と武器を考慮してダブルミーニングになってるのッ! これでいい!?」
「……箒は武器じゃないよ?」
アムの疑問にリンが意地悪な笑みを浮かべて言った。
「あら、アムの武器も傘らしいわよ? まだ箒の方が武器らしいじゃない。魔女のクラスの主武器は箒なんだし」
「……」
全くもってその通りだった。
固まるアムに、リンが空の食器を手に立つ。もう話したいことは話し終えたらしい。
出る寸前に、リンがふと気づいたように言った。
「あ、そういえばアム。買い物、行きたいとか言ってなかったっけ?」
「あ……」
その言葉で初めて気づいた。
確かにその通りだ。
アムは確かに前日にフィルに言ったのだ。
一緒に買い物に行きたいと。依頼に失敗する前だったから忘れていたが、それは最重要だった。依頼には失敗してしまったが、依頼に失敗するなど探求者にとってよくある話。フィルもそれを重々承知のはずだった。
その程度で約束を破るほどフィルは鬼畜ではない。
「リン、フィルさん、どこにいるか知ってる?」
「さぁ……あ、でも、契約の紋章で大体の場所がわかるんじゃない?」
「あ!」
何でこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。
目をつぶって紋章を意識する。アムとフィルは契約の絆で結ばれていた。普段は気にならない程度だが、目をつぶって集中するとはっきりとフィルと繋がっている絆のラインがわかる。
アムがある一方向を見て呟いた。
「こっち……」
「ま、見つかるといいわね。あ、今日は私も一日広谷のデータリングやる予定だから、何かあったら部屋にいるわ」
「わかった。ありがとう!」
リンにお礼を言って、アムは自身のマスターを探すために外に踏み出した。




