第二十九話:そして……愛せ
分を弁える事。それこそが長く生きるための方法だと知っていた。
周囲は強者だらけだった。この感情を、感覚を、アムは知らないだろう。A級討伐と言う、本来の種族ランクを越えた討伐依頼を受けてさえ、アムにはまだ余裕があった。
これは、酷く羨ましく、そして同時に酷く危険な事だ。
死の恐怖を知らないと、人もレイスも強くなれない。
派手に先行するアムの十数メートル後ろを足音を立てずに駆ける。あっという間に減っていくスタミナを、咥内に含んだ薬草のエキスでできた飴で回復する。
敵の根城は僕に取って恐怖の対象でしかない。これは簡単な討伐では毛頭なく、まさしく命がけの探求だった。
周囲から感じる視線の方向に分解ペンを投擲する。視線一つにつき三本。全力で投げても僕の腕力では本体を破壊するのに時間がかかる。だからこそ、レンズのみ狙う。
アムでは気づかないレベルの些細な視線でさえ、脆弱な僕には手に取るようにわかった。
これは鋭い感覚を持っているとか、優秀な身体能力を持っているとか、莫大な魔力を秘めているとかそういう問題ではなく、心構えの問題だ。死地を常に綱渡りで歩く僕に精神的な死角はない。
できの良い剣が遭遇した警備兵を一瞬でバラバラに破壊する。
一体ならば楽勝。二体でも無傷、三体でも特に苦もなく倒せてしまう。その様子を冷静に測る。
監視機械兵はA級だが戦闘警備兵と同等程度の戦闘力しか持っていない。討伐対象の数が多かろうが、ヒットアンドアウェイで動いていけば狩れない対象ではないだろう。
派手に暴れるアムに気を取られ、敵は僕に気づかない。気づけない。
影と一体に動く事。気配を消すコツを、盗賊のクラスの友人はそう称した。
命中を確信する事。投擲のコツを偵察師のクラスの友人はそう称した。
それらの教えが今僕を生かしている。
通路は灰色の金属から赤みがかった金属に変わる。区画が変わったのだ。
基本的に迷宮と呼ばれる物は奥に行けば奥に行くほど強力な魔物が出現する。その規則は、一般的なそれとは明らかに趣を異にしている『機神の祭壇』でも変わりはない。
この迷宮の攻略手順は単純だ。
まず第一に眼を破壊する事。通路全体にまんべんなく仕掛けられたカメラはこちらの動き、戦術を詳らかにする。これをうまいことやらないと、際限なく魔物が寄ってくる……らしい。
第二に、ジャミングをかける事。情報を与えない事。
第三に立ち止まらない事。
他の一般的な迷宮ではあまり見られないタイプだが、この迷宮の魔物には明確な司令塔が存在するとされている。個体の強さも恐ろしいが、数で圧殺される事こそが、アリスと違い広範囲を対象とした攻撃手段を持たないアムにとっての最大の弱点だった。
何よりも恐ろしいのは、硬く強力な遠距離攻撃手段を持つ兵士ではなく、未だ誰にも姿を見せたことのない指揮者であり、迷宮内のありとあらゆる魔物を指揮し、侵入者を排除するその存在こそが、街にほど近い場所にある、この機神の祭壇が未だ攻略されていない最大の原因だった。
唇を舐め、状況を観察する。
四方八方を跳ねまわるように疾駆し、暴風雨のようにカメラを破壊するアムの動きは、どちらかと言うと魔術師寄りのスレイブしか連れたことのない僕には新鮮で、いつまでも見ていたくなる程に魅力的だ。それは久しく忘れていた探求に対する躍動だった。
破壊をまき散らすアムについて、順調に探索を進めていくと、新たな区画に入りかけた所で、耳元でごぅんと鐘を鳴らすような反響音が入ってきた。
薄緑色の金属床。事前に調査した話だと、此処から先はA級の中クラスの魔物が主に徘徊するらしい。
そしてこの音はーー
足音を殺し、静かに駆ける僕を置いて、先行しすぎているアムを慌てて止める。
「アム、ストップ!」
「!? はい!」
相当な距離がある上に、『命令』を出したわけでもない僕の声に、アムは即座に反応した。重力無効により、軽くなった身体を運動エネルギーに乗せて反転し、僕の元に戻る。
まだまだ甘いし、危なっかしい所もあるが、精神的に極めて未熟で度々自身の命を危機に晒したアムはもういない。今のアムは立派な剣だった。
それなりに成長していることに心中で頷く。よし、次だ。
「フィルさん、どうかしましたか?」
ごぅんと言う微かな音が再び聞こえた。今度はアムも聞き逃さなかったのか、その音に眉をしかめる。
「何ですか? この音」
「オプティ・フロッガーだね……A683跳躍戦闘機兵オプティ・フロッガーの『ホーミング』のスキルの音だ。」
「……ああ、確かに資料にありましたね。高速で移動する蛙でしたっけ?」
体長およそ一メートル弱の巨大な蛙型機兵らしい。
僕も直接見たことはないが、情報だけは収集したので知っていた。
耳をすませる。先ほどまで聞こえていた鈍い音は止まっている。
討伐系依頼は基本的に級が高ければ高い程強いが、その能力は決して平坦ではなく、場合によっては特化した能力を持つものも存在する。例えば鬼種は力が強い代わりに速度は同級の他の種族と比べて高くないし、今回の討伐対象の監視機兵はA級なのにB級の戦闘機兵と同等程度の戦闘力しか保持していない。
つまるところ、速度に特化したA級というのは今の僕達にとっては相性のよくない相手だということだ。
アムはどちらかというと力よりも速度に重きを置いているため、その速度で負けるという事は、それは単純な地力の勝負になると言う事でもある。
「よく覚えてたね。偉い偉い。まぁ、高速が売りのA級ってのは今の僕達とは相性が悪いから戦わない方がいいね……間違いなくアムより疾いよ?」
「……なるほど、確かに戦わない方がいいですね」
「ところでアムはホーミングのスキルってどんなスキルか知ってる?」
「? ホーミングのスキル……ですか?」
「ああ。あ、やっぱりもういいや。遅いからねッ!!」
「え!?」
足を思い切り蹴った。アムがバランスを崩し体勢を崩す。
経験談で言わせてもらうが、僕とスレイブが並んでいた場合は、まずはスレイブの方が狙われる。
理由は単純だ。スレイブの方が強いから、だ。それはどんなに遠くから見ても明確で、僕は突っ立っているだけだとちょっと場馴れした一般人にしか見えない。
今までアムの頭が合った位置を、巨大な黒い影が通り過ぎていった。
身体全体を押しつぶす衝撃波。動体視力の範囲を遥かに超過したそれは僕の眼には幻のような刹那の瞬間しか捕まらない。
「フィルさ!?」
アムに指示を与えながら僕は駆けた。こんな所にいられるか!
「アム、剣を顔の前に構えろ」
高速というよりも、神速。残像のみを残して去っていった黒い塊が、数十メートル先で速度が一瞬ゼロになる。空中での不可思議な駆動。方向転換。
初めてその姿を、僕の眼が捉えた。それは、黒金で作られた蛙のような機兵だった。刺の生えた頭蓋。赤色の眼だけが爛爛と輝いて、間抜けな体勢で床に転がるアムを射抜いている。その視線は脅威と判定するには弱すぎる僕の姿を全く見ていなかった。
アムの手が僕の命令で動き、無理のある体勢で顔の前に剣を構える。
と同時に、金属音が響き渡った。
「きゃっ!!」
アムが衝撃に地面を転がる。衝撃に剣が手を離れて床を滑る。
剣に正面衝突したオプティ・フロッガーがその身に秘めた膨大な運動エネルギーで天井にぶち当たり、ピンボールのように数度反射し、地面を転がる。金属でできた天井に大きな罅が奔った。
「な、に、今の……」
「だ、か、ら! オプティ・フロッガー、だって!」
一瞬の判断。
必死に、想定とは違った場所に転がった、オプティ・フロッガーの所へ駆ける。同時に腰から分解ペンを抜く。
途中で床に落ちたアムの剣とすれ違うが、どうせ重くて渡せないので触れることはない。
速度に特化しているということは装甲はそれ程厚くないという事。さほど距離がなかった事もあり、なんとか仰向けに転がるオプティ・フロッガーに相対する事ができた。
全身傷だらけで、腹には大きな罅が入っている金属の身体。だが生きている。
無機質な赤い目が初めて僕の顔を見て一瞬動きを止める。
オプティ・フロッガーの核は体幹の中心部にある。演算装置も同様。分解ペンではとどめを指す前に立ち直る。
躊躇いなく、手足の後ろに設置されている金属筒に向けて分解ペンを振り下ろした。
例えA級だろうと、電熱光で焼ききる分解ペンの切断力は大抵の刃物に勝る。金属筒--加速機構を蝕む『じじじ』という嫌な音。
蛙が明確に標的を変え、反転し、身を起こした。
チッ……半分しか切れてない。
「アム!」
「は、はい!」
アムが駆ける。身を低く保ち、剣を拾う。
指示を出すと同時に床を強く蹴り、オプティ・フロッグに視線を向けたまま後ろに下がった。すれ違いざまにアムの全身を検分する。
直接体当たりを食らったわけではないため、大きなダメージはないようだ。打ち身程度だろう。
機械種の加速機構は強力だが、速度を最速まで上げるのには距離がいる。
オプティ・フロッグの四肢の後ろの噴射口がぶれた。
同時に仰け反り身体を倒す。目の前数センチの所を黒い影が通り過ぎる。
最高速度でなくても、その速度は僕に捉えきれない程に疾い。速さだけならS級を超えるだろう。
倒れる身体、両腕を動かし受け身を取り、衝撃を殺す。
腕に重い衝撃、激痛。だが、なんとか床に手を付き、頭を打つ事を免れる。
今は止まっている暇などない。即座に身体を左に転がした。
「アム、戻ってくるぞ!」
「は、はい!」
久しく見ていないであろう自分より圧倒的に疾い相手に、アムは翻弄されていた。暗黒機兵ヘレスも、戦闘警備機兵も、もちろんモデルアントも含め、アムを圧倒的に引き離す速度を持つ相手はいなかったのだ。
唯一、僕がその戦闘風景を見ていないモデルファルコンだけはもしかしたらアムよりも疾かったかもしれないが、それでも所詮はE級昇格試験の相手、そこまでアムと差が合ったわけではないはずだ。
ホーミングの能力は単純だ。
その名の通り、追尾するのである。
事前情報で、それは頭を高確率で狙うとされていた。幸い速度が速すぎるため、ほとんど直線的な動きしかできないようだがその速度は脅威の一言だ。
視界に捉えきれない程の速度というのが僕は大嫌いだった。だって……ずるい。
だが……逆に言えば、所詮はそれだけだ。
僕の言葉に、アムが再び床を蹴る。
A683跳躍戦闘機兵オプティ・フロッガーの弱点は単純だ。
例え事前情報がなくても、先ほどの駆動を見ればわかる。
直線的な動きしかできない。旋回性能が極めて低い。いや、元々その構造は旋回できるようにできていないのだろう。反転は単純にホーミングのスキルによるもので、どこか歪なそれはオプティ・フロッガーの構造の設計段階で想定されたものではない。無理のある機能をつけると大抵の場合そこに隙が生まれる。
最悪な事に、そのスキルが旋回性能の低さという弱点を、方向転換時に停止するという、より大きなモノにしてしまっていた。
そう。速すぎる事。それが、この高速で動く蛙の長所でもあり、同時に弱点だった。
手足の加速機構に注目すれば、噴射の瞬間は簡単にわかる。後は軌道上に向かって剣を振るだけだ。目をつぶったっていける。
不意打ちの初撃さえ躱せれば後はどうとでもなる相手。二撃目を撃たせてしまったのは痛恨のミスだとさえ言えるだろう。
アムが剣で横薙ぎに払う。
オプティ・フロッガーの姿がぶれる。
二つの影が交差した。
ほとんどタイムラグなく、立ち上がりかけた僕の頭から斜め右上に黒い影が激突した。
すぐ数十センチの所で、金属同士が激しく衝突する轟音が脳を揺さぶる。
モザイクがかかったかのようにふらついた目の前に、頭の方、前半分が壁に突き刺さったオプティ・フロッガーの姿が映った。
右後ろ足の加速機構が真っ赤に熱され、細い黒い煙を上げている。
それを見て一瞬で状況を把握した。
「あ!」
アムが剣を振り切ったままの姿勢で間抜けな声を上げた。
「……とどめを刺せ」
目元を抑え、口を開いた。散々叱ってやりたかったが舌が震えて何も言えない。なんとか一言だけ指示を出す。
頭が痛い。気持ち悪い。もうお家に帰りたい。
……こいつ、空振りやがった。
僕が生きているのは単純に加速機構がベストなタイミングで壊れ、突撃の軌道がずれたおかげだ。
単純な幸運だった。ホーミングは追尾するためのスキルであって、壊れた後ろ足の加速機構の代替になる程の力はない。
今更、嫌な汗が背筋を流れる。
「フィ、フィルさん、だ、大丈夫ですか!?」
壁に突き刺さっているオプティ・フロッグの尻から剣を突き刺し、完璧にコアを破壊し終えたアムが慌てて僕に駆け寄る。
ああ、大丈夫、大丈夫だよ。偶然ね。
あっぶねえ。死ぬかと思った。
「ふぃ、フィル……さん?」
「……」
まだばくばく言っている心臓に手を当てる。
例え十分な距離が取れず速度が落ちていたとは言え、重さ百キロを超える金属の塊にあの速度でぶつけられたら、僕は間違いなく死んでいた。
心配そうにこちらを見ているアムをちらりと見る。
アムがびくりと身体を震わせた。
「……」
「あのー……フィルさん? あの、怖いんですけど……」
「……さ、先に行くよ」
さっさと先に歩を進める。
アムが呆然と僕が通りすぎるのを見送り、慌てて追いすがってきた。
「フィルさん!? 危ないですよ!? 一人で先に行くと! 私が先行するって言ったじゃないですか?」
「……」
「だ、黙らないでください、怖いですよ? フィルさん? フィルさーん!!」
大丈夫。僕は、平常だ。
些細なミスで死にかけるなんていつもの事じゃないか。大丈夫、僕は大丈夫だ。そうだ、殺されかけるなんていつものことじゃないか。なんたって、初見の握手で僕はこいつに殺されかけてるんだぞ?
今更、そう、今更な話だ。
必死で心中で自分に言い聞かせる。そう。油断していた僕が悪い。ちょっと動けるようになったからってアムを信用しかけた僕が悪い。
こいつはーーそう、へっぽこなんだ。へっぽこレイスなんだ。
仕方ない。そう、仕方ないんだ。才能は種族ランクなんかじゃないんだ。いざという時にミスをして全てを台無しにする、そういう奴なんだ。
理解しろ。納得しろ。
そして……愛せ。
ラブ・アンド・ピースだ。いつだってそうやってきたじゃないか。
呼吸を落ち着かせて、アムの方に向き直る。
怒りが反転し、逆に魔物使いとしての使命感が僕の中に湧き上がる。
このままこの子を放っておいたらいずれ致命的なミスを犯す事になるだろう。
それだけは、マスターとして、回避させねばならない。じゃなきゃ、僕はあまりの後悔で地獄に落ちるだろう。
そう、こいつを叩き直すなら今しかない。
全力で笑顔を作る。
アムがおののいた。
「ひっ……ふぃ、ふぃるさん? ご、ごめんなさい。私が、私が悪かったです!」
「何が? 僕はもう別に怒ってないよ?」
そう。ラブアンドピース。世の中はラブアンドピースだ。愛と平和に満ちているんだよ。
さぁ、アム。笑顔だよ、笑顔。笑顔を作るんだ。
アムが慌てて崩れるように跪き、見事な土下座をする。
口元が引きつる。戦地ででかい隙を見せるんじゃないこの駄ナイトメア! くっそ、言い辛いぞこの駄レイス!
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、私が、私が悪かったですふぃるさああん! だからお願いします、その哀れみの視線をやめてください!」
「いや、そんな視線向けてないよ、アム。世の中はラブアンドピースだよ?」
「ひっ……フィルさんが……壊れた!?」
失礼な奴だ。可愛いアム。
アムの腕をひっつかんで立たせようとした瞬間、再び腹から響くような、鐘の鳴るような音が聞こえた。
しかも音の響く頻度から推測すると、一体じゃない。
アムもそれに気づいたようで、恐る恐る上目遣いに僕を伺う。その表情ははっきりとした焦りに引きつっていた。
「フィ、フィルさん? この音ってまた……」
「ああ、アム。今僕はとても迷ってるんだ」
「迷ってる? いや、そんな場合じゃーー逃げるかどうかですか? でもこの通路を通らないと目的の区画には大きな遠回りに……」
「いや、そんなことじゃないよ。可愛いアム。僕が迷ってるのは、今アムをここで教育すべきか迷ってるんだ。性根を叩き直すべきか迷ってるんだよ、アム。鉄は熱いうちに打てって言葉があるよね?」
腰につけていた鞭を取るとピシリと伸ばす。まだ未使用品でアイボリーに輝く鞭に視線が移る。
アムの表情が青ざめる。
僕の眼には、もうアムしか映ってない。
「え!? いやいや、そんな場合じゃ……ありませんよ? ね? 敵ですよ? フィルさん? しかもさっきのがーー」
「この音響から推測するに三体かな。ああ、アム。でもさ、僕のクラスは魔物使いなんだよね? 僕の本来の仕事はアムを鍛えあげる事なんだよね? 例えA級の魔物が来たからといって、果たして本来の仕事を後回しにするのは正しいと言えるのかな?」
手首のスナップを使ってぴしんとアムの目の前の床を打つ。
とてもいい音がした。アムがビクリと一歩後退る。
「僕は、そう、僕はとても哀しいよ。例えこの場は生き延びてもアムがダメになるくらいなら、アムが学ぶことができるのならば、僕はこの場で死んでもいいと思うんだ。それがマスターとしての責務なんだ。リンだってそうするだろう、僕だってそうする。そう、思うだろ?」
「……本気……で言ってますか? フィルさん、もう、本当に時間が……だめです。こんなのダメ! 死んじゃう! 本当に死んじゃいますよ!?」
必死に説得を重ねるアムに向かって一歩踏み出す。
目を見開いて僕の表情を見上げていた。
笑いかけながら鞭を擦る。
「分を弁えるんだ、アム。それが長く生きるコツなんだ。さぁ、経験の少ない君に、最後になると思うけど僕がマスターとして、責任を持って格上との戦い方を教えてあげよう」
立つ鳥跡を濁さず。
それが魔物使いとして生きた僕の最後の仕事になるだろう。
僕は本気だった。死よりもアムが半端に終わる事の方が、納得いかない。
僕の言葉に、アムが真っ青な相貌で剣を杖のようにしてゆっくりと立ち上がった。
膝がガクガク震えている。
目を見開いて僕の一挙一動に注視する。
「ふぃ、ふぃるさん、貴方、おかしいです。狂ってる。何で、こんな状況で--笑えるんですか? こんな戦地で、しかも差し迫った状況で……馬鹿だとしか、言い様がない--」
死体のような鬱屈した眼光が僕を射抜く。
呂律の回らない口調でアムが続ける。
「最後? 今、最後って言いました? 最後? これで? こんなので? まだ一週間しか経っていないのに? いや、いや、いや、こんな所で……終わってたまるかあああああああああああああ!」
そうだ、アム。それでいい。
格上の魔物と戦う際に必要とされるものは
ただの高揚した戦意でもなく、
ただの無謀な勇気でもなく、
絶望的な恐怖に出会って尚、立ち向かえる曇り無き意志。
僕はレイスの事をよく知っている。レイスに取って最も恐れるべき事が何なのかも。
アムが剣を握って一気に前に飛び出した。
その形相はまるで鬼神。引きつった頬に爛爛と輝く濁りきった眼の悍ましさ、なんという美しさか。
剣を大きく振りかぶる。倒れかかるかのような前斜の姿勢。僕にぶつかるようにして正眼に振り下ろされた剣が、まるで抵抗などないかのように僕の身体を通り抜けた。
次の瞬間、後頭部を襲った風、音、衝撃に、意識が激しく揺らされる。
音と衝撃。目の前が一瞬真っ白になり、視界が揺れ、地面に叩きだされる。
回転する視界。モザイクがかかった視界。僕は地面に無様に這いずりながらも、本能的にアムの方に視線を向けた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
今度はうまく当てたのか、地面にめり込み、微動だにしない一匹の蛙を眼中にも入れず、アムが慟哭し剣を振り回している。
身体を覆う悪夢の福音の密度は今までの倍はあるだろうか。アムの小さな身体はもはや黒い靄に覆われ、その動きがほとんど見えない。靄がゆっくりと眼の釣り上がった相貌を作り出す。
アムは、完璧にキレていた。
「ふっざけるな! たかが蛙が! 私のマスターを! いや、違う。違う。違う。違う。こんな所で終わり!? そんなの、認めない。絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、フィルさんは……私のものだっ!!!」
黒い靄がアムの叫びに奮起されるように縦横無尽に吹き荒れる。
それを貫くように、二匹目のオプティ・フロッガーが突撃した。
一メートル弱の金属の塊がアムの胴体にまともにぶち当たる。
肉が潰される湿った嫌な音が聞こえる。
「ガッ……ああああ、あ、ま……け……ない……死んで、しまえ」
アムの口元から黒い液体がぽたぽたと吐き出される。
手から離れた剣が床を打ち、音を立てる。
剣を手放したアムが、腹で受けたオプティ・フロッガーの前足を両手で握った。
ぎりぎりと、金属の軋む音。まるでそれはオプティ・フロッガーの悲鳴のようだった。
スレイブが頑張っているのにマスターの僕が転がっているわけにもいかないな。
なんとか起き上がる。手も足も胴も衝撃と疲労と音で倒れそうな程ふらふらだ。こんなにダメージを受けたのはいつぶりだろうか?
震える手で、道具袋からシィラ戦の時にも用意していた煙玉を取り出す。
「……アム、撤退だ」
通路の先、数十メートル先に三匹目のオプティ・フロッガーの赤い目が見える。
返事を聞く前に煙玉を床に叩きつける。
S級に相当するアイテムである戦場の雲の欠片で生成された煙玉は本来、こんな低位の迷宮で使うようなアイテムではない。
だが、煙玉は確かな効果を発揮し、一瞬で霧のような煙が視界を遮った。いや、視界だけではない、魔力だろうが電波だろうが音波だろうが解析系のスキルだろうがありとあらゆるものを遮る、夢幻の霧だ。
まだぎりぎりと手足を握り、オプティ・フロッガーを八つ裂きにしようとしているアムの頭をチョップする。
無理だから。それ無理だから。
いくら悪夢の福音を最大限に受けていても、精神が昂っていても、ナイトメア程度の膂力ではそれは引きちぎれない。
「……アム、撤退するぞ。それを通路の向こうに全力でぶん投げろ。そして事前にBFした通り、僕を担いで走れ」
「っうあああああ!!」
我を失っていたアムが命令に従い、オプティ・フロッガーを全力で投げた。
霧を突っ切り、突撃してきた時とは真逆の方向に飛んで行くオプティ・フロッガー。
肩で息をしているアムの背中に腕を回してのしかかる。僕よりも怪我をしたアムの方がまだ力がある。
「ひぃえ……フィルさん!?」
「逃げるよ。さぁ、アム。走るんだ!」
「……え? 依頼、依頼はどうするんですか!?」
「んなのどうでもいいからさっさと走れ、アム!」
命よりも大事な依頼など存在しない。
そもそも、別にクリアしなくても資格が剥奪されるわけでもないし。
「は、はい! い、行きますよ? あ、剣ーー」
「いいから走れって言ってるんだよ、僕は!」
前方から黒い影が霧を切って僕の一メートル程隣を通り過ぎた。
衝撃にアムの首元に回した手が外れそうになる。
幸いなことに現世の物質で構成されていないこの霧は風なんかでは晴れない。が、煙玉は所詮どんな高級素材を使っても煙玉の域は出ない。予想通り、追尾のスキルは遮断できているようだが、結界を張っているわけでもないので、当てずっぽでも当たる時は当たるのだ。
「ひっ、は、はい!」
アムがようやく撤退を開始した。
煙玉の効果は絶大だ。特に此処は締め切りの通路。その効果範囲は非常に広い。
オプティ・フロッガーは勿論、司令塔の眼すら誤魔化せるだろう。
未練を振りきったのか、まるで何も担いでいないかのように凄まじい速度でアムが駆ける。自然と凄まじい揺れが全身を襲う。疲労や多大なダメージや死の恐怖に緊張しっぱなしだった意識が朦朧とする。こんな所で振り落とされたらとんだ笑いものだ。
全精力を掛けてアムに必死にしがみつく。ああ、空気抵抗突破と重力抵抗、かけられる魔道具、今度持たせよう。
幸いなことに貧弱な僕を背負っている事をさすがのアムも忘れていないようで、壁や天井を走ったりはしていない。
もしそうでなければ間違いなくリバースしていた。
でも、もう少し、もう少しだけ、優しさを見せて、スピードを落としてくれても、いいんじゃないか?
警戒しながら進んでいた行きよりも遥かに速いスピードで通路を駆け抜ける。出入口まで、後半分だ。
「……あの……フィルさん……」
「……ああ」
アムが沈んだ声を出した。
吐き気と必死で戦いながら何とか返事をする。
アムは、ちょっと逡巡したように黙ると、ポツリと言った。
「……道、忘れちゃいました」
「……あ……ああ……あああああああああ! この駄レイスがあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
僕はその日初めて、限界状態で腹が立つものを見せられるとラヴもピースもへったくれも無いという残酷な真実を知ったのだった。




