第二十四話:大丈夫、無味無臭だから
匂いに気付き、棚に配置されたボトルを持って階段から慌てて駆け下りた。開けっ放しの扉からアムがぽかんとこちらを見ていたが気にしている余裕はない。
転がるような勢いで階段を駆け下り、厨房に飛び込む。
扉を開け放ち、制止した。
「ちょっと待って下さい、アネットさん!」
鼻歌を歌いながら包丁を動かしていたアネットさんが、突然降りてきた僕の必死の形相を見て眼を丸くする。
「ど、どうかしたのかい? フィルさん。あ、もしかしてお腹でもすいたのかい? 夕食なら今作ってるよ……」
「いえ……アネットさん」
息を整えながら、厨房を見回す。
幸いなことに、まだ調理を始めたばかりのようだ。鍋からは湯気が立っているし、まな板の横には幾種類かの野菜が積み上げられている。が、まだ間に合う。
息を整えながら、目と目をしっかり合わせて、力を込めて宣言した。
「夕食は……僕が作ります!」
「い、いや、いいんだよ? フィルさんはお客さんなんだからそんな……」
「僕が作ります。アネットさんは休んでてください。泊めていただくお礼代わりだと思ってもらえれば……」
「そんなこと気にしなくていいんだよ?」
アネットさんが食い下がる。
だが、僕はマスターとしてあの料理をスレイブに与える事だけは避けなくてはいけない。食事が、身体を作るのだ。食事が強さを作るのだ。
僕には僕のやり方がある。アムに勝手に餌を与えないでいただきたい!
笑みを浮かべて、すっとアネットさんの手の包丁を取り上げた。
「大丈夫です、料理は僕の趣味の一つなので……それにスレイブの餌はずっと僕が作ってたんですよ。アネットさんは休んでいてください。あ、ここの材料って適当に使っちゃっていいですか?」
まぁ途中からスレイブが僕の代わりに作り始めたので、ずっと作っていたわけじゃない。
が、腕はなかなかのものだと自負している。
てか、ここに来てから気づいたのだが、アネットさんの店も白銀の歯車の料理も……豚の飯のようなものだ。酒場は酒がメインだからまだ我慢できるが、日々の食事だけは美味しいものを食べさせないとアムの成長に影響する。
アネットさんはまだ迷っていたが僕の尋常ではない覚悟を感じ取ったのか、ため息をついた。
「餌って……。ああ……それは構わないけど……。まぁ、そういうことならお言葉に甘えようかね」
「ええ、まぁ部屋で待っていてください。できたら呼ぶので」
アネットさんが後ろ髪引かれる様子で厨房から出て行った。
最悪の事態を避けることができ、ほっとする。ようやく厨房の内部を見渡す余裕も出てきた。
さすがに定食屋だけあって厨房はそれなりの広さだ。側の材料を乗せる台に持ってきた白いボトル--アルファトンを置く。
冷蔵庫を見ると、野菜でも肉でもかなりの量が入っていた。大抵のものは作れそうだ。というか、こんなにいらないだろ……客が来ないんだから。まぁ、大は小を兼ねるので足りないよりは全然いいが。
鍋を二つ出し、水を入れて火をかける。
食器の棚からすり鉢を取り出し、錠剤を三粒取り出し、すり鉢に入れてごりごりすりこぎ棒ですりつぶした。
アムの体重は25キロ(ちなみにレイスやスピリットは肉体の質がヴィータとは違うので体重は比較的軽い)、レイスの体質から考えると魂質はそのうちの七割と言う事になる。アルファトンは比較的危険が少ない薬物なのである程度適当に投与してもなんとかなる。その反応で他の薬の摂取量を決めるのだ。そして何より、アルファトンは熱しても特に性質が変わらない。そこがとてもいかしてる。
僕はぺろりと唇を舐め、粉々にすりおろした薬の半分を水の張った鍋の一つに入れた。
「くっくっく、アム、僕が本当の料理というものを見せてあげるよ……」
僕は調理魔術師の学科試験を満点でクリアした男だ。
料理は愛情。僕はアムへの愛を全て料理に込めるように、へらで鍋の中をかき回した。
********
目の前の食卓に並ぶ料理を見て、アムがぽかんと口を開ける。
定食屋の主であるアネットさんも感心したようにテーブルに並べられた料理を見ている。
時間がなかったので結局、野菜が入ったホワイトシチューに黒いパンに野菜サラダというシンプルな構成になってしまった。
「え……これ、フィルさんが作ったんですか?」
「ああ、料理は得意だからね……さすがにパンは焼く時間がなかったけど。昔もスレイブの餌は僕が用意していたんだよ」
途中からその役目をスレイブに取られてしまい、毎日料理をしていたわけではなかったが、それでも腕は落ちていないようだ。
惜しむらくは、十分に下ごしらえをする準備がなかったことか。本当に美味しいものを作るには時間と手間を惜しんではいけないのだ。
アムが微妙な表情で僕と皿の中身を交互に見る。
「餌って……あの……フィルさん、これ、私とフィルさんの分が分かれてるんですが……」
「レイスとヴィータの食事が同じわけがないじゃん」
何を当たり前の事を……
ヴィータとレイスじゃそもそもの味覚に大きな差異がある。レイス向けのレストランの料理は僕に取っては味が薄すぎるし、ヴィータ向けのレストランはアムに取っては少々辛く感じるだろう。種族によっては、食べると腹を壊す可能性のある食材すらある。猫が玉ねぎを食べられないみたいに……
まぁ、そういったものは飲食店では出さないタイプのものだが……
そう言われてもアムには納得がいっていないのか、皿の色で分かれている料理を寂しげな表情で見ていた。
アネットさんがおそるおそる匙で一口すくって口に入れて、眼を見開く。
「なにこれ……美味しい……」
「ありがとうございます。まぁ、煮込み料理なんて誰が作ってもそれなりに食べられるものができるもんですよ」
「いやいや、フィルさん。これ……うちの料理よりも美味しいよ?」
「この店、メニューにホワイトシチューなんて無いですよね? 簡単な料理を作っただけですよ」
「そ、そういうもんかねぇ……」
首を傾げながらシチューを食べるアネットの顔を見ながら、自分も匙でシチューを口に入れた。
とろけるようなコクと濃縮された旨味。やっぱり僕の料理の方が美味しいよなあ? 調理方法や材料をヴィータ向けに調整しているせいか? 機械種の街では調理技術が発達していないのか?
味見はしているので分かっていたが、時間がなかったにしてはそれなりに美味しいものができている、と思う。まぁ、ホワイトシチューなんて誰が作っても大して変わらないと思うんだけど……
料理のできに頷いて、アムの方に向き直り、反応を見る。今後の餌について調整しなくてはならないからだ。だが、アムは席についてシチューを食べるでもなく、目の前の皿の中を注視していた。
僕が見ている事に気づくと押されるように匙を手にとって、自分の席に置かれていた器の中身を掬う。色鮮やかなブロッコリーを一度見て、僕の方に視線を向けた。
「あの……フィルさん」
「何? シチューは嫌いだった?」
アムが大きく横に首を振る。
しばらく逡巡するように黙っていたが、僕の眼をしっかり見て確かめるように口を開いた。
「いえ……これ、何か変なものいれてませんよね?」
「アムはマスターの作った料理を食べられないっていうの?」
「……いやいやいやいや、質問の答えになってませんよ?」
何でバレたんだろうか?
まあ……バレたって僕は何ら謝罪するような事はしていないんだけど……
アムの視線が猜疑心を含んだものに変わる。僕はそれがとても哀しい。レイスは人を信頼しない。それがたとえマスターであっても、だ。
僕はそれを知っていたので、なんとか心中に悲哀を表に出さないで済んだ。これもいわゆるプロ意識と言えよう。
朗らかに笑ってアムに伝える。
「大丈夫、無味無臭だから。それに変なものは入れてないよ」
変なものではない。れっきとした薬物だ。僕が可愛い可愛いスレイブにそんなおかしなものを仕込むわけがないじゃないか。
嘘はつかない。それは嘘を見抜く力のある機械種やその他の種族に疑いの眼を持たせないためだ。嘘とは信頼と正反対の位置にある。信頼第一の魔物使いの習性が染み付いている。
アムの考える『変なもの』が何なのか知らないけど……
アムは僕の言葉を聞いても不安そうだった。
恐る恐るホワイトシチューの椀を覗く。匂いをかぐ。
特に見た目や匂いに異常はない。見た目や匂いだけでは、いかに鋭敏な感覚を持つナイトメアでも気づかないだろう。何度も言わせてもらうが、アルファトンは、無味無臭なのだ。何故アムが気づいたのか僕にはさっぱり分からないくらいに。ましてや、シチューの濃い香りの中でそれの匂いを嗅ぎ分けるなんていくらなんでも……不可能だ。鼻のいいガルドでも無理だろう。
アムがおそるおそる僕に伺いを立てる。
「あの……何を入れたんですか?」
「アルファトン」
何故かその言葉を聞いて、アムが泣きそうな顔になった。
まさか、僕の腕を疑っているのか? 大丈夫大丈夫、このくらいじゃーーレイスは死なない。何年魔物使いをやっていると思ってるんだ。
「それ、その、アルファトンって言うのは、何なんだい? 調味料かなんかかい?」
アネットさんが尋ねてくる。アムも気になっているのか、聞き耳を立てている。
まぁ、大分類で言えば調味料と言えなくもないかもしれない。もちろん、アネットさんの料理が美味しくないのはアルファトンを入れていないせいではないけど。
アムを安心させるために、答える。
「まーそんなようなもんですね。全身の魂脈を一時的に活性化させて生成させる魂素を上げる特性のある薬物です。レイスやスピリット以外に処方すると効きすぎて危険なので辞めたほうがいいですね」
「薬物……それは……アムちゃんなら大丈夫なのかい?」
「大丈夫です。魔物使いなら皆やってるので。ほら、アム。あーん」
「うっ……」
好き嫌いはよくない。食事が強さを作るのだ!
アネットさんの疑惑の眼を笑顔で躱して、シチューの入った匙をアムに向ける。
珍しいものでも見るような視線を向けられているのを感じるが、こんなこと魔物使いとしては餌やりは一つの業務であり、いちいちこの程度の視線にひるんでいたら魔物使いなど廃業するしかない。
また戸惑っているアムに匙を近づける。
ここで、どのくらい信頼度がたまっているのかがはっきり判断できる。
ほら、信頼しているマスターからの手ずからのご飯だよ?
「ほら、アム。美味しいよ? あーん」
「……あーん」
しばらく縋るようにこちらを見ていたが、すぐに諦めたように口を開けた。
親鳥が雛に餌をあげるように、シチューを口に流し込む。
一度食べてしまえば忌避なんてあっという間に消え失せる。その事は経験から知っていた。
まずいならともかく、口に合うものを作った自信はある。ヴィータとレイスでは味覚が違う。わざわざ、鍋まで分けたのだから。
アムは目をぎゅっとつぶってしばらくもぐもぐ口を動かしていたが、飲み込むとゆっくりと眼を開けた。泣きそうだった。
「美味しくなかった?」
「……とっても、びっくりするくらい、美味しいです……」
じゃあ何で泣きそうな表情なんだよ。
「身体は何ともない?」
「……ちょっと、お腹が痛いかもしれないです……」
「うん、それは気のせいだね。さ、もう自分で食べられるだろ?」
アムのお腹がきゅーっと小さな悲鳴を上げた。
「……はい……いただきます」
諦めたらしく、アムが自分の匙を手に取った。
アルファトンの力は単純だ。アムの身体の中に眠っている魂素を一時的に活性化させてくれる。魂素とはレイスとスピリットが大量に保有する特有の要素であり、霊体種は生成される魂素の量と質で能力が決まるといっても過言ではない。僕の経験で言わせてもらうと、これでアムの力は……二割は上がる。
アムはレイスとしては半人前もいいところだった。人間だって専門のトレーナーによって運動能力が上下するのと同様に、彼女には師がいなかったのだろう。飛び方の知らない鳥みたいなものだ。なまじレイスやスピリットには特殊能力が多いので、こういうことが起こる可能性が高い。
アムが素直に食事を開始したのを見て、僕は止めとばかりにこっそり魔物使いのスイッチスキルをオンにした。
『奈落の食鬼の晩餐』
頭の片隅で力の発露が感じられる。自身のMPがごっそり抜けていく。
『奈落の食鬼の晩餐』は契約したスレイブの食事の効果を高める魔物使い特有のスイッチスキルだ。食事に含まれる各栄養素の上昇、吸収効率の上昇に大きな効果がある。
常時発動でMPの消費もないパッシブスキルとは異なり、スイッチスキルはスキルをオンにしている間はずっと効果があるが、MPも消費し続けるというデメリットもある。おまけにじわじわ減っていくので、最大MPが多い者にとっては大したことないが僕にとってはどんどん力が抜けていく感覚がとても心地悪い。吐き気がしてくる程だ。
アムが敏感に僕の様子が変わったことに気づく。変な所で鋭い子だった。
「ん……? どうかしましたか?」
「いや、なんでもないよ」
心配そうに匙を止めたアムに笑顔で返す。さっさと食べてくれたほうが僕の負担が少なくて済む。
味自体は気に入ったようで、手は止まらないし、表情も悪くない。レイスは好き嫌いが多いので場合によっては微調整が必要だったが、今回は必要ないようだ。
続いて、野菜サラダを食んだアムが意外そうな声を上げた。
「あれ……美味しい?」
「ドレッシングが違うからね」
レイスの味覚を刺激するのには普通のヴィータ用の調味料では効果が薄い。材料の調味料が厨房にあったのは僥倖だった。この店はヴィータ用の店みたいなんで、使う機会があるのかどうかは知らないが。
「……フィルさん、料理が上手なんですね。私料理できないんですが……。この上にかかってる白い粉は何ですか?」
「それはアルファトンだね」
「……聞かなきゃよかったです」
普通の調味料よりもアルファトンのほうがよほど高価なのに、アムはそれが気に入らないようだ。
全体にまばらにかかった白い粉を見てため息をついていたが、もうシチューで食べたためだろう、すぐにフォークでレタスを突き刺した。粉をぱっぱとはたき落としているが無駄だ。なんたってドレッシングの中にも含まれているのだから。
やれやれ、レイスは好き嫌いが多くて困る。
「しかし、本当にフィルさんは料理が上手なんだねえ……」
シチューの椀を空にしたアネットさんが感心する。
別に料理の技能が魔物使いの技能に直結するわけではないが、褒められるとくすぐったい気持ちになる。
「スレイブの食事はマスターが用意するものなので……これでも勉強したんですよ」
特に種族が違うと味覚が違うので、調理の技術は本格的に腰を入れて勉強しなくてはいけなかった。
ペットの犬がご飯をくれる飼い主に懐くように、食事を作ってやると信頼度の上昇が大きくなるのだ。その努力が功を奏してアムも美味しそうに料理を食べてくれているのだから、マスターとしては感無量という他ない。
「魔物使いって大変なんだねえ……うちのリンは自分で料理したりはしていなかったけど……」
「まぁ、マスターにもそれぞれ方針があるので……」
僕は褒めて伸ばすタイプだから基本的には全ての世話は僕がやるし、手厚くコミュニケーションも取る。こういった教育方針を『プレジャー・スタイル』と呼ぶが、魔物使いには育成スタイルが複数あり、例えば『アフレイド・スタイル』と呼ばれる恐怖でスレイブを制圧して従わせる育成手法もある。
僕は知識しか無いが、その場合はマスターが主に力を入れるのは恫喝であって、それ以外の育成はある程度自由が利くらしい。どちらにせよ、マスターにはある種のカリスマ性が求められるが。
プレジャー・スタイルで育成するには常にスレイブに対して上位である必要がある。下位者に褒められた所で効果が薄いからだ。この辺りのさじ加減が難しい。あまりにも崇拝されすぎると今度は『プレジャー・スタイル』ではなく『キング・スタイル』と呼ばれる崇拝を基盤にしたスタイルになってしまう。
そうなるとそのスタイルの知識が少ない僕にとってはちょっと面倒な事になる。
自分の分を食べ終えたので、手を止めることなく料理を食べ続けるアムを眺める。
眼の力を軽く緩めた。
「アム、美味しい?」
「はい……とっても美味しいです」
特に不満はなさそうな顔だ。後で味付けをメモしておこう。
唇の下を指さす。
「ドレッシングついているよ」
「え? 本当ですか?」
慌てて唇の下を指で触る。
「取れました?」
「取れた取れた」
アムが笑顔で食事を再開した。
扱いやすい子だ。思考にレイス特有の陰が薄い。人の文化圏内でずっと生きてきた証だろう。もちろん差別は受けてきたのだろうが、野生のレイスの心にはもっと闇がある。
レイスとしては破格なくらい……楽だ。そう、だからこそ、アムの心すら引き付けられなかったリンの魔物使いとしてのレベルの低さがはっきりとわかる。
適当に甘やかしていればなんとでもなるのに。
アムの表情をじっと見ていると、手持ち無沙汰になったアネットさんが質問してきた。
「そういえば、フィルさんは結婚とかはしてるのかい?」
「いえ、まだ未婚ですね。魔物使いはスレイブがいるとなかなか難しいんですよ」
「ん? そういうものなのかい? そろそろ結婚する年齢だろ?」
「まぁそうですね」
プライマリーヒューマンの男性の結婚適齢期は十代後半から二十代前半だ。
特に職が探求者だといつ死ぬか分からないので、その辺りである程度の財産を作ったら結婚してそのまま探求者を引退するパターンが多い。
ただし、この傾向には例外があり、魔物使いに限らず、異性をスレイブにしている場合はその範囲から外れる。特に好意を利用してスレイブを使っている場合はそうだ。
理由は単純である。喜びでスレイブを縛っている場合、スレイブがマスターに懸想しているパターンが非常に多いのだ。
探求が順調であるほど結婚の影響は大きい。探求が順調ということはスレイブとの信頼関係も大きいということであり、それすなわち信頼性が崩れた際の影響も極大と言う事である。それは……そう、探求者としてやっていけなくなるほどに。
スレイブは大抵の場合自分のマスターを寝とった結婚相手を蛇蝎の如く嫌うので、最悪の場合結婚相手に被害が出る場合すらあった。そうでなくても、相当うまくやらない限り関係性が崩壊する。僕はそんな状態になった者を何人も見ていた。
「探求者を辞めた後に恋人を作る予定でした。今はスレイブだけで手一杯なので……」
「探求者を辞めた後って……辞める予定はあったのかい?」
「僕ももう二十二ですからね……次のランクに上がったら切りがいいので辞めて、後進の育成に力を入れようかと……」
食事を終え、アムが興味深そうに僕の話を聞いている。
僕は『奈落の食鬼の晩餐』のスイッチを切った。魔力の残量はおよそ三十パーセント……使用している時間はほんの十五分弱だったが、ちょっと時間が長すぎたようだ。体全体がだるく、気が遠くなりそうになるのを会話で誤魔化す。
「次のランクって……後どれくらいで上がるんですか?」
「ギルドポイントで言うと、後二十二億五千万ポイントだったね。端数は切ってるけど」
「二十二億五千万ポイント!? ……途方も無い数字ですね。馬鹿みたいな……」
「ランクが上がるに連れて要求ポイントが跳ね上がるからね」
SSS級まで上がるのはそれ程難しくないが、それ以上は莫大なポイントが必要になってくる。
だからこそ、L級探求者と言うのは世界的に見てもほとんどいない。L級のLは『伝説』のLなのだ。
ふと、興味本位で聞き耳を立てていたアムの表情が真剣そうな表情に変わった。
「あれ? 辞めた後って……スレイブはどうするんですか?」
「契約満了で解放だね。あ、もちろん今まで一緒に戦ってきた仲間だし、悪いようにはしないよ? 解放した後も最大限の補填はするつもりだ。探求者としてやっていくつもりならギルドにも口利きするし、他の道を選んだ場合も協力するつもりだった。魂の契約だけは……そう簡単に切るものじゃないから、解放はできないけど」
基本的に魔物使いの引退はスレイブの解放という形で決着がつく。スレイブにもスレイブの人生があるし、目的がある。マスターのエゴに付き合わせるのは申し訳ないし、マスターとしての矜持がそれを許さない。
魂の契約だけは別物で、あれは互いの存在全てを掛けた神聖なものとされているので、引退程度では切らない場合が多い。まぁ、僕の場合はアストラル・リンクも信じられない事に切れてしまったのだが。
「……なるほど……それってスレイブ側は知っているんですか?」
当たり前だ。基本的にマスターとスレイブは一心同体なのだから、事前に話して納得はもらっている。
「ああ、当然だけど、話してあるからね」
「なるほど……」
何がなるほどなのかは知らないが、アムは納得がいったようだった。
頷く濁った瞳に陰がちらちらと浮かぶ。何故かそれが不吉なものに感じた。
その正体が何なのか思考を傾けかけたその瞬間、シャッターの閉められた店の扉の反対ーー裏口の方から物音が聞こえた。
「あら、今日は珍しくリンが帰ってきたみたいだねえ……」
アネットさんが顔を上げる。
アムの表情が固くなる。
大丈夫、僕が何もかもを全て元通りにしてあげよう。喧嘩したといっても、それだけならばアムがちょっと大人になって許せば元通りになるだけの話だ。
問題はもう一つの方なんだが……
「フィルさん、その料理、まだ残ってるかい?」
「ええ、残ってますよ。明日の分まで作ったので……アム、二食分分けて持ってきてくれる? シチューは白い方の鍋ね」
「……分かりました」
アムが食べ終えた食器を持って厨房に消える。
それを確認し、アネットさんに向き直った。やれやれ、これが今日最後の探求かな。
「アネットさん、すいません。ちょっと、ご迷惑を掛けてしまうかもしれないです」
「ご迷惑……? ……あ、ああ……わかったよ」
アネットさんの了解を得ると、道具を取るために部屋に急いだ。




