第十七話:ランクを三つ上げたとか?
「で……? フィルのショッピングに付き合ったわけだけど……? それとも、他にも何かあるの?」
なんとか立ち直ったセーラが自信満々に言う。
僕は今日の戦利品の袋を探りながら、顔だけセーラに向けた。
「ああ、ありがとう。おかげで助かったよ」
路地裏には街灯もないので、『黒の羊』の看板の横に吊るされた明かりと、セーラの淡いブレスエフェクト、そして青白い月だけが唯一の光だ。
路地裏を抜けて大通りに足を運ぶ。
セーラも無言でついてきた。
まだ買わなきゃならないものは沢山あるが、とりあえずは今日はこの辺でいいだろう。
大通りまで出ると、後ろからついてきたセーラの方を向き直る。
「今日はこの辺でいいかな。付き合ってくれてありがとう。今日はもう遅いから帰りなよ。僕も早く帰って……アムをかまってあげないと……」
丁寧にお礼を言ったのに、セーラの表情は芳しくなかった。
氷のような冷たい視線を、圧倒的弱者の僕に浴びせかけてくる。
「は? ちょっと……何の冗談よ?」
「というと?」
「……とぼけないで! 何のために私がフィルにおごったと思ってるの?」
「ん? 気のおけないお友達だからでしょ?」
「っ……ふっざけないで!!」
叫ぶと同時に、セーラの全身から湯気のような光が噴出する。
ブレスエフェクトとは、スピリットがその存在に内在する魔力の一つの側面だと言われている。
その感情は憤怒。嫌悪。そして……眼には見えない全身を切り裂く殺意と光に、数少ない通行人が慌ててこちらを避けて大きく迂回して通って行った。
レイスの最も有名なパッシブスキルの一つが恐怖ならば、スピリットの最も有名なパッシブスキルは希望と言えるだろう。
そのスキルは人の感情を高揚させるだけのスキルだったが、僕の眼にはセーラの存在の中にそのスキルと同じ名前の小さな希望があるのがはっきりと捉えられた。
そうだな……気のおけないお友達のセーラのために、別にスレイブでもなんでもないけど、カウンセリングくらいはしてあげるか……
結局のところ奢ってもらっちゃったんだし、それくらいしないと僕の気が済まない。
前置きとして、「仕方ない、今日のお礼に十分だけあげるよ」と伝え、
一度深呼吸をして、視線をはっきりとセーラに合わせる。声色を落ち着いた真面目な物に変えて問いただした。
殺意や憤怒を持続するのは難しい。僕の言葉に、セーラの興奮はほんの僅かに収まった。
「セーラ、よく聞くんだ。僕は何もふざけてなんてないよ? 一つ教えてほしいんだけど、セーラは一体僕に、何をしてほしいの?」
はっきりとした物言いに、セーラがたじろぐ。まるで無尽蔵に放出されるかのようだったブレスエフェクトが、さらに光を弱くする。
「それは……フィルがさっき自分で言ったんじゃない! 付き合ってくれるって!」
「違う、セーラ。それは違う」
「な、何が違うっていうのよ! 言ったでしょ!?」
睨みつけてくるセーラの肩に手をおいて、その碧ライトブルーの瞳を覗きこむと、出来の悪い生徒に教えるように尋ねる。
「僕が聞きたいのはそんな言葉じゃない。いいか、セーラ。よく聞くんだ。僕は、セーラ、君が、僕に、何を、望んでいるのか、知りたいんだ。何に、付き合ってほしいのか、知りたいんだよ。オーケー?」
そうだ。僕だってできることならばセーラに協力してあげたい。
確かに僕は付き合ってあげるとは言ったが、何に付き合うかは言っていない。それは僕ではなくセーラが決めることだ。
目の前のライトウィスパーの表情に、僅かに恐怖が混じる。一歩後ろに後退るのを、僕は止めなかった。
どこまでもレイスと真逆の性質を持つスピリットは人の善性を信じている。僕の態度はもしかしたらセーラに取って未知であったのかもしれなかった。
「そ、それは……私は……その……」
何事か発言しようとするが、考えがまとまらないらしく曖昧な台詞が溢れるばかりだった。
このままでは十分なんてあっという間に経ってしまうだろう。
仕方ない、少しくらい恩を売っておくか。
「なら僕が幾つか候補を出してあげよう。サービスだよ? セーラは『イエス』か『ノー』かで応えるだけでいい。それでいいかな?」
「……イエス、よ」
セーラが恐恐と首肯する。
怒りも殺意も消え去り、ようやく会話が成り立つようになったので、僕は言葉を続けた。
「セーラは、今伸び悩んでいて強くなりたい。そうだね?」
「……イエス」
「特にライトウィスパー……スピリットなのにも拘らず、回復系の魔術が下手なのを気に病んでいる。これはクランで活動する上で当たり前の事だと思うけど、そうだよね?」
「イエス」
ここまでは昨日の時点で分かっていたことだ。
僕だって思う。回復の使えない僧侶など何の役にも立たない。
セーラの眼を更に覗きこむ。その中の感情を読み取るべく。
「セーラは状態異常回復をまともに使えない」
「……いや、まともに使えないってわけじゃ……」
「セーラ、イエスかノーだ。ちゃんと応えるんだ!」
言い訳をしようとするセーラの頬を軽く叩く。
平時にこんな事をしたら殴られるだろうが、今のセーラにはそんなことを気にしている余裕はないようだ。
一拍して、小さく呟く。
「……イエス」
「セーラはF級の初級回復魔法は使えるけどC級の中級回復魔法は使えない」
「……イエス、よ」
リフレッシュの時とは異なり、今度は即答する。
「そんな時、ちょうどブティックで僕と出会った。そして、理由はわからないが、偶然僕にハイ・ヒールを使うよう指示されて試しに使ってみたら--成功して驚いた。そうだね?」
「偶然……? いや、ええ、そう。イエス、イエスよ」
釈然しなさそうな表情をしていたが、大筋はあっていたのか、セーラがこくこくと首を縦にふる。
「初めてのハイ・ヒールが成功してセーラは気分がいい。機嫌がいい時には気も良くなる。側には貧乏な僕がいた。そうだ、おごってあげよう。そう思った。違う?」
「それは違うわ!!」
首を必死に横に振って否定する。
おかしいな……認識がずれている。
僕は口元を抑えて首をかしげた。
「じゃあ何かい? セーラ、君はもしかして、僕が君の力を強くする秘訣を知っているとでも思ったのかい? 初めてのスキルを成功させるような何かを……僕が君に施したとでも思ったのかい?」
我が意を得たり、とセーラが顔を上げた。
「イエス、そう、その通りよ!」
それは僕の期待した答えと大きく乖離していた。
これならばまだ自分の力を過大報告して僕の命を死に晒したアムの方がマシだ。
「そうか……それはとても残念だな……」
僕は失望したように声色を落とすと、視線をセーラから外して後ろを向いた。夜の通りを、何体もの機械種が騒音を立てて走って行く姿を数秒見つめて考える。
つまらない、とてもつまらないスピリットだ。
いや、セーラだけのせいではない。セーラの友人は、家族は、師匠は、彼女に何を教えていたのだろうか?
「…………」
「セーラ、僕が施した何かで強くなりたいのかい?」
他の探求者が必死に切磋琢磨し実力を伸ばしているというのに、それは不正のようなものだ。
僕の言葉に、セーラがはっと眼を大きく開く。その表情はこわばっていた。
言いよどむ。
「あ……い、いや、それ……は……」
「自分で勉強したり、鍛錬を積んで強くなりたくない? SSS級には劣っても……十分超一流の域に入っているSS級探求者であるランドさんに教えてもらえばいいとか考えたことある? 他にも、ガルドや他のクランメンバーと一緒に依頼を受けて強くなっていけばいいとか、思わないの?」
「それは……思う、思うけど……! でも! ど、どうすればいいって……言うのよ……!」
葛藤と涙の滲んだ声で、セーラが呻いた。
やれやれ。これだから甘ったれのスピリットは。あれだけ大きなクランに参加できている時点でそれがどれだけ幸福なことか、持っているものは持たざるものの気持ちをわからないもんだからこっちからするとイライラする。
「そんなの自分で考えなよ……でも……そうだな」
再度セーラを振り向く。少しぐらいヒントを上げてもいいかもしれない。
一応探求者としては僕の方が先輩だろうし、たまには可愛い後輩をフォローするような事があってもいいだろう。
奢ってもらったことだし……
「セーラ、ちょっと聞きたいんだけど、今ってハイ・ヒールは使えると思う?」
「……え……? 使えたのは……さっきフィルに言われて唱えたあの一回だけよ……」
涙の跡がまだ残っている頬を無作為に眺める。
やっぱりか……そりゃ使えるものも使えないわ。
僕は自信満々に言う。
「そうだね、確かに今のセーラじゃハイ・ヒールは使えない。試しに唱えてみなよ」
「……ハイ・ヒール! ……ほらね、やっぱり使えないわ……」
唱えた呪文は発動せず、白色の術式光も当然だが発生しない。
ハイ・ヒールは誰の目から見ても完全に不発だ。嘆息する。
魔力さえ足りていれば一度使えたスキルを次に失敗するというパターンはそうそう無い。スキルは自転車みたいなものだ。乗るまでは難しいが、一度乗れたらそう簡単に乗り方は忘れない。アムだって一度目は僕のサポートでスキルを起動させたが、二度目からは自らの意志で起動させられるだろう。
セーラの諦めたような声に被せるように、僕は宣言する。
「確かに発動しないね……じゃあ、僕が、気のおけないお友達のセーラに、特別に魔法をかけてあげよう。僕が得意な魔法で『愚者の喝采』っていう魔法なんだけど、知ってる?」
「……いや、見たことも聞いたこともないわ……」
「そうかい、じゃーかけるよ? 『愚者の喝采』!」
魔法をかけると同時に指を打ち鳴らす。術式光は特に発生しないが、確かに僕の魔法は発動していた。
セーラが僕の魔法の発動に、眼を瞬かせて自分の両の手の平を見つめる。彼女の眼には一体何が見えたのか、僕に知るすべはない。
そして僕は、拍手と祝福の言葉を贈った。
「さぁ、おめでとうセーラ。これでセーラもハイ・ヒールを使えるようになったよ。これならまぁ並の回復役としては十分やっていけるだろうさ」
「そ、そんな……馬鹿な……いや、でもさっきも……でも、そんな簡単に……」
「セーラ、ハイ・ヒールだ!」
「『ハイ・ヒール』!」
呪文の詠唱と同時に、淡い白の光ーーハイ・ヒールの術式光がセーラの手の平から発生した。
傷も特にないので、光は一瞬で消えるが、それは確かな魔法の発動だ。
セーラが今度こそ幻でも見たかのような呆けた表情で僕を見上げる。
先ほどブティックで使用したものよりもレベルが落ちているが、その事に動転しているセーラは気づかない。
「馬鹿な……フィル、貴方、何者!? 今私に何をしたの!?」
「セーラ、君は頭はいい方?」
「……良い方だと、自分では思っていた。学生時代も常に学年でトップ十位には入っていたし、僧侶のクラスの取得試験も満点で合格できた……だけど今は……分からない、分からないわ」
そうか、確かに優秀だ。
僧侶のクラスの取得試験は学科の試験で、それ程難しい内容ではないが、それでも満点と言うのはそう簡単に取れるものじゃない。
「僕は……境界の外……グラエルグラベール王国にいた頃、国で最も有名な探求者向けの学院に三年だけ通っていた事があるんだ。まぁ学科は大した事なかったんだけど、その時に頭だけではどうにもならないと言う事をその三年で思い知ったよ。僕には好奇心と経験が足りないってね。そして、奇しくもそれが一番一流の探求者に必要なものだった」
セーラにもきっと、それが足りてないよね。
ブティックで受け取った袋から、骸骨のキーホルダーを取り出す。
そのシルバーで作られた悪趣味なそれを、セーラの手の平の上においてあげた。
まだ呆けた表情をしているセーラの顎を抑え、視線を合わせる。
「セーラ、それは今日僕のショッピングに付き合ってくれたお礼にあげよう。探求者に一番必要な……好奇心と経験のプレゼントだ。今日おごってもらったものと比較したらちょっと価値がありすぎる気がするけど……まぁ初めてのデートだ、特別にサービスしとくよ」
「この……悪趣味の骸骨のキーホルダーに、オーダーメイドの武器以上の価値が……?」
セーラのもっともな問いに間髪入れず即答する。
「ああ、あるとも。何故ならそのキーホルダーを装備している限り……僕の魔法は解けず、君はハイ・ヒールも、完璧なリフレッシュも使えるのだから……」
「……え!?」
セーラが慌てて手の平に置かれたシルバーの骸骨を見つめる。
その表情がどんな表情だったのか、僕はあえて見なかった。
「え? これ……フィル?」
「でもまあ、できればそれは使わないでくれると嬉しいかな……そう、その髑髏は、強いていうなら『未来』だよ。セーラの輝かしい未来だ。セーラが貯金して買おうとしていた武器が何なのか分からないけど、まず間違いなくただの武器よりもよほど価値があるはずだ。……僕の魔法の正体がわかったり、その髑髏の魔法が切れたらまた僕の所に来るといいよ。その時は……そうだな、ガルドの貯金はもちろん、ランドさんのカードが空っぽになるくらいおごってもらおうかな……」
そうすれば、ランドさんもガルドも、少しは仲間というものを理解できるだろう。
その場に佇むセーラを置いて、僕は宿に向かって歩いて行った。
今度はセーラは僕を呼び止めなかった。
よかった。武器代が浮いた。
******
十五分程かけてゆっくりと夜道を散歩しながら宿に戻った。
扉を開けると、アギさんがこちらの顔を見るや否や大声をかけてくる。
「おかえりなさい、フィルさん。アムさんが帰ってきましたよ……凄い怒ってますよ?」
どうやら遅かったらしい。おのれ……セーラさえいなかったら、間に合っていたものを……
まぁ、僕だって遊んできたわけじゃない。ちゃんと誠意を見せて謝れば許してくれるだろう。
階段を登ろうとして、ふと気づいて心配そうにこちらを見ているアギさんに尋ねる。
「ちなみに、アムは何時間くらい前に帰ってきました?」
「つい二時間くらい前ですね」
これで今帰ってきたばかりとかならまだ言い訳が利くのだが……
僕がブティックで遊んでいる間に帰ってきたらしい。
チッ、セーラめ……あいつさえ居なければ……!
じっと階段の上を登った所にあるアムの部屋を見る。ただの扉なのに、今は地獄の門のようにしか見えなかった。
「……まだ怒ってますかね? あー、入りたくないなあ……」
「カンカンでしたよ……あ、夕食は用意してあるので、ちゃんと仲直りしてきてくださいね?」
「……簡単に言うなあ……まぁ、ちょっとでろんでろんにしてくるので……」
「はい、待ってます。……でろんでろん?」
足音を大きめにたてて、アムの部屋の前に立って一度大きく深呼吸をした。頬を軽く揉んで表情を和らげる。
アムは高位のレイスだ。聴覚も嗅覚もプライマリーヒューマンの僕よりも遥かに優れているが、さすがに扉を透視してこちらの表情を見れるほど眼はよくない。そういったのは機械種が得意な分野なのだ。
「ただいま、アム」
「…………」
そっと静かに扉を開けて室内を確認する。
アムは椅子の上に座って、唯一ある机に上半身をうつ伏せに横たえていた。長い髪がテーブルに無造作に散らされている。
顔は室内側を向いており、一見寝ているようにさえ見える。が、僕は確かに声を掛けた瞬間にその身体がぴくりと僅かに動くのを見た。
今日の戦利品が入った紙袋をベッドの横にそっと置く。極力音を立てないように動いているが、顔を伏せているため全神経を聴覚に集中しているアムには僕の動作は手に取るようにわかるだろう。
ボロボロだった昨日とは違って、今日のアムの姿には目立った大きな傷はない。依頼を達成してきていないわけではないだろう。壁にはちょっと見ないうちにすっかり傷だらけになった僕の作った剣が立てかけている。一日、二日でできたとは思えない程の傷だ。
契約初日とくらべて大分成長したようだ。……僕が寝ている間に。
ベッドに腰を降ろし、わざとらしく声を掛けた。
「アム……? ただいま、アム。寝た振り? それとも本当に寝ているの? 拗ねてる?」
「…………」
ピクリとも動かないアム。
若い、若いな。本当に寝ていたら……そんな僅かも身じろぎしないなんてありえない。
「さーて、どうしたものか……アムも頑張ってきたようだし、ご褒美をあげなくちゃならないかな……」
「……っ!!」
アムの身体が一瞬だがはっきりと動き、椅子が床に擦れる音がした。
だが、僕がじっとそちらに視線を向けると、また寝た振りをする。これでバレてないと思っているのか……舐められていると見るべきか、悩む所だ。それによって教育方針を変えなければならない。
しばらく観察するが、アムは寝た振りをやめる気はないらしい。怒りだろうが、悲しみだろうが、諦観だろうが素直に感情表現すればいいものを……
面倒くさいスレイブのために、僕も面倒くさい芝居を続けた。
こういうのにしっかり付き合ってあげるのも大切なのだ。それに……うん、なかなか可愛いじゃないか。
しかも僕のスレイブは、こういう面倒な子が多かったので、こういったシチュエーションに僕はやたら強かった。
「剣を見るに討伐依頼を受けてきたはずなのに身体に目立った傷もない。僕の言う事を聞いてちゃんと調べて行ったんだろうなぁ……さすがアムだ。僕のスレイブだ。偉い、偉い」
「…………」
「それとも……ちゃんと仕事してきたわけじゃないのかな? 僕が見ていないからサボった? 傷がないのも碌に依頼を受けてこなかったから?」
「……っ!?」
「いや、そんな事ないよな……可愛い僕のアムがそんな事するわけがない。うん、自分のスレイブは信じないと……」
「ぁ……っ!!!」
僕が何かを言う度に、アムが無言で感情を主張する。
ふとその時、今のこのシチュエーションが絶好の機会であると気づいた。僕も何も好き好んで二日も無駄にしたわけじゃない。何もかも、『月水の涙』がないのが悪いのだ。あれがないと僕は……少しばかり寝坊をしてしまう。
自分の道具袋をごそごそと漁りながら、僕の言葉を待っているアムに言葉を投げ続ける。
「さて、撫でてやるべきか……それとも抱きしめてあげるべきか……髪を梳いてやるべきか……いや、いっその事ーー」
「…………」
アギさんは、カンカンだったと言っていたが、今のアムからはもう怒りの気配は感じられない。いや、怒ってはいるが、期待の方が大きいというべきか。アムの耳が僕の一言たりとも逃すまいと、全力でこちらを向いている。
負のエネルギーの塊であるレイスにとって、負の感情は慣れ親しんだものであり、怒りも悲しみもそれほど長続きするものではないのだ。
それは世間的にはちょろい子と言った。
目的のものを取り出す。
それは……ほぼ白紙のノートとペン。
僕はノートを開いてペンのキャップを外した。
「せっかく戦って帰ってきたんだから、まだちゃんと取ってなかったし、アムのデータでも取って今後の探求に役立てーー」
「……え? な、何でですか!?」
呟いた瞬間、アムが飛び起きた。
慌てて立ち上がろうとしたせいで、派手にテーブルに膝をぶつける。
膝を押さえて呻くアムを眺めながら、さっさとノートとペンを道具袋に片付けた。
「ったぁ……って、フィルさん!?」
「おかえり、アム」
「た、ただいまです……って違う違う! フィルさん、どういうことですか今の!」
飛び込むように僕の方に食って掛かってくる。
あまりにも速すぎて僕の視力では追い切れなかった。気づいたらアムの顔が目の前にあった。
瞬発力だけなら種族ランクの通りB級相応と言えるだろう。
三十センチくらいの距離で、アムの濁った黒の虹彩がこちらを観察している。
「え? 何が?」
「何が……? 何がって、それはこっちの台詞ですよ! 今の、褒める所でしたよね? 私を褒める所でしたよね?」
「いや……褒めたけど」
僕の言葉にアムが首を必死に横に振って否定する。
いや、確かに褒めたけど?
「違う違う違います! 私は別に褒められたいんじゃなくて……」
「データを取られたいとか?」
「……それは、フィルさんがやりたい事ですよね?」
もちろん言うまでもなく全くもって完全にその通りだ。
魔物使いに取って自分のスレイブのデータは核に等しい。
それがなければ、何が向いているのか、何が向いていないのか、何が得意で何が苦手なのか、何のステータスが上がりやすいのか、下がりやすいのか、何に強いのか、弱いのか、どんな風に成長させたいのか、成長させられるのか、全く見通しが立たない。
もっとも、一月しか契約しないのならば最悪なくてもいいが……僕の魔物使いとしての矜持がそれを取らない事を許さない。魔物使いの用語で『データリング』と呼ばれるそれは、ぶっちゃけると僕の数少ない趣味の一つだった。
アムが、自らの意志の伝わらなさに感じる歯がゆさを上目遣いで訴える。
「フィルさん、私は……考えるんですよ」
「嘘つくなお前何も考えてないだろ」
「茶化さないでください! 私は……考えるわけですよ。頑張って来たスレイブには……ご褒美が必要だとは思いませんか?」
「それはマスターの中では常識だね。努力、成果には褒賞を。マスターとしてとかじゃなくて、人として当たり前だ。アム、そんなことも僕が知らないとでも思ってるの? まさか、舐めてる?」
「……何でいちいち喧嘩腰なんですか……。しかもただ頑張ってきたわけじゃないですよ? 私、フィルさんがぐーすか眠っている間に、なんと……」
「ランクを三つ上げたとか?」
「……一つです。そんな、一日で三つも上げられるわけないじゃないですか!」
「チッ……たった一つか。使えねえ」
「えええ!? ただ寝ていた人がそこまでいうんですか!? Dですよ、D! たった三日でGランクがDになったんですよ!? 快挙ですよ、快挙!? 小夜が、レイブンシティのギルド史上、第三位の速度って言ってましたよ!?」
「アム、小夜さんを呼び捨てにしてんじゃねーよ」
「ええ!? キャラ違……あ……小夜……が言ったんですよ! お互い敬語はやめようって! もう友達だからって!」
アムが必死に弁解する。
なるほど……どうやらいつの間にか結託していたらしい。ギルドの職員……特に窓口を任されている職員と友誼を結ぶのは非常に難しい。彼らには鋼鉄のようなプロ意識があるからだ。客の立場から脱却してまずは対等の立場を作らない限り友人にはなれない。ここのギルドの窓口は皆機械種なので文字通り鋼鉄なわけだけど……
それを褒める意味で頭を軽く撫でてやると、アムはだらし無い顔で笑った。もうすっかり怒りが抜けている。僕の歴代スレイブの中でもトップクラスにちょろい子だった。
「……そうだ、アム。アムは頑張った。頑張ったからご褒美が欲しい、そうだな?」
「……えへへ……あ、そう、そうそうそうです! ご褒美、ご褒美が欲しいんです! 私、頑張りましたよね?」
「ああ、頑張った頑張った。そんな頑張ったアムのために、服を買ってきてあげたよ」
「え!? そ、それ、本当ですか!?」
全く予想していない言葉だったのか、アムが喜色を全面に見せる。
衣類の保証は契約に入ってるからな。という野暮な言葉はこの際置いておいた。
僕が差した紙袋を丁寧に、しかし出来る限り早く開けると、
「これ、探求用の服じゃ……ない? 白い……」
「まー私服だしね……気に入らなかった?」
アムが手にとった白いシャツを力強く抱きしめて、首を横に振る。
気を使っているわけでは……ないだろう。
「……いえ……ありがとうございます。私白い服なんて持ってなかったので……」
「レイスは黒い方が落ち着くだろうしね……まぁ、白を買ったのは単純に僕の好みだよ」
「……そうなんですか?」
アムが僕を見上げ、何事か考えている。
「ああ、そうなんだ」
ちなみに自分の服は黒が好きだ。これは単純な趣味だけでなく、実用性も含んでいる。
特に夜間で戦闘を行う場合、目立ちやすい白の服の方が魔物のヘイトを稼ぎやすい。
僕が狙われたら簡単にやられる自信があるから、白い服をスレイブに着せるというのは理にかなっているだろう。
とかなんとかいって戦闘用ではなくて私服なんだけどね。
「さ、アム。ご飯に行こう。アギさんが待ってるよ」
「あ、はい。……今これ、着替えていいですか?」
アムが抱きしめている服に視線を落とす。
そんなの後にしろ後に。
服を抱きしめるアムを何とか引き剥がし、連れ立って階段を降りる。これならアギさんも文句はないだろう。
服の代わりに、上機嫌に右腕に抱きついているアムを見て、夕食を作って待っていたアギさんが呆然とした顔で尋ねてくる。
「……一体この短時間で、何をどうやったらあんなに怒っていたアムさんの機嫌をそこまで上げられるんですか……」
「この子、ちょろい子なので」
そもそも、僕は怒られ慣れてるので対応方法については熟知しているのだ。
ちょろいと言われても何とも思わないらしく、アムは笑顔で顔を腕に擦りつけてきた。
見るに見かねたアギさんがアムに余計な声を掛ける。
「……アムさーん? 本当にいいんですかー? ちょろいとか言われちゃってますけど?」
「もう許しました。免罪です! フィルさん、よかったですねー、私が優しくて」
「……本当にもう優しいアムをスレイブにできて僕は幸せものだよ……」
後はもうちょっとしっかりしてくれれば完璧なんだが……




