第七十二話:今日はとても良い日だ
得体の知れない怖気が背筋を駆け上がった。
マクネス・ヘンゼルトンにとって、このような気分を味わうのは発生して初めての経験だった。
幻想精霊種、グレムリン。機械やコンピュータを故障させる魔物の伝説から生まれたその種は、エトランジュと同様、生まれつき機械魔術師の職への適性を持つ。
その伝承上、マクネスの力は戦闘よりも製造に寄っているが、そんな事は関係ないくらい機械魔術師は強力な職だった。
ましてや、今マクネスの隣には自身の最高傑作であるスレイブがいる。
小夜よりも無理は利かないが、脆弱な純人一人を殺すには余りある力を持つ魔導機械だ。
だが、それを前に、この男はこともあろうに、交渉をしようなどと言っている。
「交渉…………? 何を、言っているんだ?」
交渉とは互いに譲歩を引き出すもの。相手にはもはや手札は残っていないのだ。成り立つわけがない。
アリスが憑いていない以上、目の前の男は無防備だ。仮にアリスの代わりにここで見つけた新たなスレイブ――アムを憑依させていたとしても、憑依は既に解除しているし、悪性霊体種であるアムの言葉をこの街の人間が鵜呑みにするわけがない。マクネスには長い年月この街のギルドを取り仕切ってきた実績がある。
嘘は見破れる。純人は嘘をつくのが苦手だ。どれだけうまく隠しても、無意識下の肉体の反応は隠せない。
どうすべきか。このまま耳を貸さず捻り潰してしまおうか。一瞬よぎったそんな考えを、マクネスは眉を顰めて振り払った。
警戒していた。モニタリングはしていた。目の前の男は何ら不自然な動きはしていない。
助けを呼んでいるわけでもない。マクネスが警戒していたのはアリスで、その手は既に本人によって否定されている。
ならば――すぐさま消す必要はない。無抵抗の男を相手に、恐れる必要は何も――ない。
立ち止まり、いつでも動けるよう警戒しながらフィルを睨む。
フィルは肩を竦めると、まるで宥めるような優しげな声で言った。
「僕の要求はたった一つ――消えるんだ」
「なに……?」
予想外の言葉に、瞠目する。
空気が張り詰めていた。薄ぼんやりとした明かりの中浮かぶフィルの姿は今にも闇に消えてしまいそうだった。
とつとつと最強と呼ばれた魔物使いが続ける。
「マクネスさんを、見逃してあげると、言っているんだ。マクネスさんは周辺の機械種を牛耳っているが、この状況はマクネスさん一人で作り出したものではない。まぁこれまで大勢死人が出ているんだろうけど――責任がマクネスさん一人にあるとは思わない。この街の歴史は――長いからね。境界線の北にも噂が届くくらいに」
それは、断じて不利な者が有利な者に言うような内容ではなかった。
だが、フィルは本気だ。それがはっきり伝わってくるからこそ、理解ができない。
「だから、許す。マクネスさん一人を倒したところで、ここの環境はどうにもならない。だから――今すぐ街を出て、もう戻ってくるな。機械魔術師のスキルがあればどこの街でもやっていける。そうだろ?」
脳が悲鳴をあげていた。動悸がした。何もかもが、論理的ではなかった。
弱者が強者を恐れないだけでは飽き足らず、降伏勧告するなど、本来有り得る事ではない。
震えるマクネスに、フィル・ガーデンが手を合わせ、笑みを浮かべる。
「それで、全て解決だ。僕は何も言わない。これ以上マクネスさんを追ったりもしない。この街のギルドの憐れな魔導機械達がマクネスさんの裏切りを知る事もなく、表向きは平穏なままだ。まぁ、マクネスさんがいなくなれば環境も破綻するだろうけど、それは仕方がない事だ。真っ向から文明に敵対するならまだしも、裏側から手を伸ばすってのは――正しくない」
「ありえ、ないッ!」
思わず、拳をテーブルに叩きつけた。ひびの入っていたテーブルが完全に真っ二つに割れる。
拳が割れ、血が滴り落ちていた。だが、痛みなど感じない。スレイブもまるでマクネスの沙汰を待つかのように、じっとしている。
「君は、間違えているッ! 圧倒的に不利な立ち位置にいるのは、君だッ! マスターがこんな敵陣の奥深くまで、たった一人で出てきた時点で、敗北は確定したッ! 交渉など、降伏勧告など、通じるわけがないッ!」
全て、想定通りだった。この街は――いや、この地は、マクネスの手の平の上にある。
指を少し動かしただけで、周囲を縄張りにしている機械種達は街を滅ぼす。まだ襲われていないのは、あえて縄張りを定め、襲わないようにしているのは、今はまだその時ではないというただそれだけの理由だ。
まだ、世界に喧嘩を売る時ではないのだ。だから、邪魔者は――殺す。
「フィル、君を消すッ! そして、君が消えたことは、誰も知らないッ! 君の凶悪なあのスレイブは、総力を持って潰すッ! 命のストックも、もう既に切れかけているだろうッ!」
知っている。アリスを殺した回数も知っている。こちらの犠牲は甚大だったが、あの悪性霊体種は既に半死半生だ。魂への干渉は機械魔術師の得意分野ではないが、幾つの命があるのか計算することは不可能ではない。
この地には生命を吸い取れるような魔物はおらず、人間から命を吸うことは目の前の男が許さない。
「ああ、その通りだ。マクネスさん、アリスは既に死にかけている――それでも、僕のアリスは負けないけどね」
「もしや、アムか? あのもう一人のスレイブを、使うつもりなのか!?」
「アムは…………ダメだよ」
無駄だ。どう考えても、フィルに反撃の手はない。アムやアリスの言葉はこの地の大勢には響かない。証拠もない。
フィルを殺し、エトランジュを改めて暗殺する。圧倒的に有利なのは変わらず、マクネスの方だ。
「確かに、マクネスさんの言葉は筋が通っている。アリスはいないし、アムは有効打にはならない。そして彼女たちがマクネスさんの罪を叫んでも誰も信じないだろう。ところで――」
そこで、フィルは大きくため息をついた。
「――マクネスさん。アムがおらず、アリスをエトランジュにつけたとしたら――誰だと思う? 僕に……憑いているのは」
「!?」
ありえない話だった。マクネスは確かにスキルを使った。
機械魔術師のスキルはあらゆる傷を、病を癒やし肉体を正常に戻す。状態異常の回復は難しくないし、相手がどれほどの怪物でも憑依を解除できないなどありえない。
そもそも、マクネスは憑依を解除した後、フィルの状態をスキャンしたのだ。
かつて、小夜はフィルに憑いたアリスの気配を見破れなかったらしい。だが、マクネスのスキャンスキルは戦闘用の小夜の比ではないし、小夜の例があったから注意もしていた。
改めてスキルを使用し、フィルの状態を確認する。
膨大な情報がマクネスに流れ込んでくる。その中から必要な情報を取捨選択する。
睡眠不足。興奮。やはり悪性霊体種の干渉を受けている気配は……ない。
目の前の男は――正常だ。
ただの、ブラフだ。純人の嘘が見破られないわけがないのだが、そうとしか思えない。
立ち尽くすマクネスに、フィルが目を細め、まるで講義でもするような口調で言った。
「機械魔術師のスキルは余りにも――強力過ぎる。だから、気づかないんだ、毒は検知しても薬は検知しないように……マクネスさん、僕に使われているスキルは――『憑依』じゃなくて『加護』だよ」
§ § §
セーラは僕の顔を見ると、目尻を釣り上げ、ずいずいと前に出て甲高い声で叫んだ。
「ああああああああああああ、あんた、なんて危ない事、してんのよッ!」
「あはははは、もう終わった事だよ」
同じスキルでも、使う種族によって効果が変わるものがある。
霊体種の使う『憑依』はその筆頭とも言えるスキルだ。
悪性霊体種と善性霊体種は魂の持つ『属性』が異なっている。
自身の魂の欠片を他者に与え干渉するそのスキルは、悪性霊体種が使えば憑依と呼ばれ、善性霊体種が使えば加護と呼ばれる。毒が時に薬となるように――そして、絶対に見破られないと思っていた。機械魔術師のスキルは良かれ悪しかれ、強力過ぎるのだ。
スキャンした情報をくまなく確認すれば絶対にあったはずだが、マクネスさんは生真面目過ぎた。
最初からマクネスさんを疑っていた僕が、何の対策も取らないわけがない。そもそも、アリスをエトランジュにつけた時点で僕の枠が空いているのだ。
僕がセーラに助力を求めたのは、アルデバラン討伐――機蟲の陣容探索の真っ最中の出来事だ。
それ以来、ずっとセーラは僕の魂に寄り添い、全てを見ていた。時折、セーラの感情が流れ込み動悸が起こったりもしたが、まあ普通は気づかない。
セーラが涙目で食って掛かってくる。襟元を掴むと、僕を壁に押し付けた。いつもこういうシチュエーションに遭う度に思うのだが、細腕で非戦闘職のはずなのに、僕よりも力が強いのは納得がいかない。
「一歩間違えれば、あんた、死んでたのよ!?」
然もありなん。だが、マクネスさんの性格はわかっていた。多分、大丈夫だと思っていた。
僕の言葉が通じなくても、善性霊体種の言葉ならば、この街で名高いクランのメンバーの言葉ならば、セーラの言葉ならば――間違いなく通じる。交渉とは武力のみで成るわけではないのだ。
マクネスさんは、余りにも真実を求めすぎた。時に、知らないという選択肢が有用な事もある。
「ランドさんには相談した?」
「…………したわ。悪い?」
「百点だよ」
これで、全てを知る人間は増えた。如何なマクネスさんでも、機械種の軍団でも、ランドさんのように純粋に強力な探求者にはそう簡単に手を出せない。まぁ、これ以上マクネスさんが戦いを挑んで来るとは思わないが――。
しかし…………やはりマクネスさんは闘志が足りないな。
この程度の交渉で敗北を認めるとは――アルデバランの件といい、諦めの良さは、彼の大きな短所だ。楽ではあるが、敵にするにはつまらない。
理屈を重んじる故に理屈に縛られ過ぎている。
僕は手を伸ばすと、セーラの頬にかかったさらさらの金髪に触れた。セーラがびくりと震え、一歩後ろに下がる。
「そ、それで……どうするの? 外に連絡すれば、全て終わると思うけど……」
今回の件は、ギルドの失態である。時間をかけ慎重に進められた計画は看破が難しいとはいえ、責任の所在は間違いなくギルド側にある。
もしかしたら失態が大きすぎて隠蔽される可能性もあるが――もしもこの件が露呈すれば、最悪、マクネスさんに権限があったレイブンシティと付近二都市のギルドが保有する機械種は全て廃棄される事になるだろう。
彼らに罪はない。機械種はマスターに限りなく縛られるのだから、自業自得とも言えない。
僕は顔の前に人差し指を立てた。マクネスさんとの交渉もある。僕は、約束は守る。
「秘密だよ。今明らかにするにはこの秘密は危険過ぎる」
「で、でも――」
「内々で済ますんだ、セーラ。時に真実に蓋をした方がいいこともある。もちろん、忘れてはいけないけど――」
もちろん、僕はセーラ達に口止めする材料を持っていない。ランドさんがやはり明るみにしたほうがいいと判断する可能性もあるだろう。
だが、それは仕方がない事だ。この街――レイブンシティは、僕のものではないのだから。
たとえSSS等級の探求者でも何でもできるわけではないのだ。
セーラはしばらく沈黙していたが、やがて小さな声で言った。
「………………フィル、あんた……とんでもない奴ね」
それは……仕方がない事だ。何度も言うが、他人と同じ事をやっていてSSS等級になれない。
セーラが肩を落とし、ため息をつく。
「…………それで、フィルはこれからどうするの?」
「もう少しだけ準備を終えたら、予定通り街を出るよ」
白夜とのSSS等級依頼をどうにかするという約束も、ちょっと変則的だが果たせたと言えるだろう。
後の悔いは小夜と再会できなかった事だが――待っている時間はない。まあ、生きていれば運が良ければ再会も果たせるはずだ。
僕が本来ありえない超遠距離転移を受けたように、人生何が起こるかわからない。
たっぷり睡眠を取ったおかげで気分は悪くなかった。たとえ今日死ぬとしても――今日はとても良い日だ。
「それっていつになるの? まぁ、貴方にはさんざん振り回されたけど、世話にもなったし――ちょっとした準備って、何よ?」
別れを惜しんでくれるのか。これは……旅の醍醐味だな。
ジト目でこちらを見るセーラに、僕は大きく伸びをして言った。
「ああ。親玉をぶっ殺しに行くんだよ。一緒に来る?」




