第十一話:ここは我慢するしかない
残りのアリ六匹を特に苦もなく討伐し、再びサファリに乗せてもらって冒険者ギルドに戻った時には既に夜の八時を回っていた。
リスクを避け、アリの縄張りにあまり入りすぎないように気をつけて探索したためだ。
もちろん、ヴィータの魔物の追跡は経験があるのだが、機械種の追跡は初体験だったのも理由の一つだろう。いい機会だ、勉強しなおそう。
ランナーの貸出所で下ろしてもらい、思い切り背筋を伸ばす。疲労で身体が泥のように重かった。
今日一日で大分ラポールを築いたサファリに礼を言う。いつの間にか自然と敬語も取れていた。
「サファリ、今日はありがとう。帰りも乗せてもらって……」
「本当ですよ! 本来ならランナーは片道しか乗せてくれないのに……」
続いて地面に降り立った、アムが口を挟む。
元々、ランナーは戦闘向けの個体ではない事が多いので探求者を一度狩場まで運んだらそこで戻るのが一般的だ。その場合、探求者は帰りは自力で帰ることになるのだが、サファリの助けがなければ身体能力に乏しい僕では、アムの力を借りたとしても、日が変わる前にギルドに帰還できなかっただろう。
どれだけ感謝してもし足りない。
「いや、構わんよ。久しぶりに全力……いや、半力で走れたし、なかなか面白いものを見せてもらった。会話するのも久しぶりだしな」
「……ランナーが喋れるなんて初めて知りましたし……あ、これって誰かに話したらまずいですか?」
「別に隠しているわけじゃないし、好きにするといい」
「ありがとうございます!」
アムが丁寧にお礼を言う。
サファリはなかなかハードボイルドだった。アムよりよほど頼りになると思ったのは、本人には秘密だ。
僕は、使う予定だったのに今回は時間がなくてほとんど使えなかった構築ペンをサファリに見せて言った。
「今回は時間がなかったけど、また今度時間があったら今日のお礼にメンテナンスさせてよ」
「……フィルは機械種のメンテナンスまで出来るのか……本当に器用だな……」
サファリは、今日もう何度言ったか分からない台詞を吐く。
何故か呆れたような視線を投げかけられる。
ちなみに修理や改造など、本職のメカニックのような事はできないが、メンテナンスの腕はなかなかのものだと自負している。王国で家の警備のために雇っていた機械種のメンテナンスをずっとやっていたのは何を隠そうこの僕だ。
「まぁ、次の機会を楽しみにするとしよう。ほら、早く達成報告にいってくるといい。時間がないのだろう?」
「ああ、行ってくる。またね」
「ああ、また会おう」
サファリと別れ、ランナーの貸出場を後にする。
アムが名残惜しげに後ろを一度振り向いた。
「フィルさん、サファリさん、いい人……いや、いいランナーでしたね」
「ああ。まぁ、ランナーはみんないい人だけどね」
ちなみに頼めばどのランナーでも往復くらいしてくれたりする。もちろんその身の安全の保証は絶対の条件だけど……
ランナーは基本的に走るのが生きがいなのだ。僕は今まで往復を依頼して断られたことがない。まぁ、さすがに毎回だと悪いので、近場の時は片道にしたりとバランスをとっているが。
「喋れるなんて初めて知りましたよ……声も見た目に似合わず格好いいし……あ、もちろん彼の見た目が格好わるいって言ってるわけじゃないですよ? 見た目も格好いいですけど……」
アムが何かを弁明するように、また後ろを振り返る。
「あ、サファリさん、笑ってますよ。ねぇねぇ、フィルさん! こっちの声とか聞こえてないですよね?」
「どうだろうね……二、三十メートルくらいなら聞こえるはずだから、この距離ならぎりぎりかな……」
アムがしつこく肩を叩くので、仕方なく後ろを振り向く。
サファリはアムの言うとおり、爬虫類特有の表情で笑っていた。これ、絶対聞こえてるだろ。
……一応フォローしておくか……サファリが気にしているとは思えないが……
月明かりの下、サファリの銀色のボディが鈍い光を放っている。
僕はそれを一度眺め、アムに注意した。
「アム、彼じゃない。彼女だ」
「え……?」
アムが僕の言葉にポカンとする。
機械種の雌雄の見分けは確かにつけづらいが、だからこそ覚えておく価値がある。
「サファリは男じゃない。女の子だ。見ればわかるだろ!」
「ええええええええええええええ!?」
アムが今日一番大きな驚きの声を上げた。
サファリの方にすまない、とスレイブの不出来に頭を下げる。
何故か、サファリもギョロリと眼を瞬かせて驚きの意を示していた。
「……フィルさん、本気ですか?」
「本気も本気だよ。こと雌雄の差異、個体の差異の分別にかけて僕の右に出るものはないよ……」
恐らく小夜さんが、僕がスレイブに女の子を求めていたので、気を利かせてくれたのだろう。そんな気の利かせ方……いらない。
機械種だろうが幻想種だろうが元素種だろうが、人型だろうが獣型だろうが、僕はどんなにわかりづらい雌雄の差異も間違えたことがないし、双子だろうが三つ子だろうが製造ロットが同じだろうが、どんな個体の差だろうが間違えたことがない。
雌雄の差で、個体の差異でスペックもスキルも違うのだ。
魔物使いとしてそこら辺を分別するのは……当然の事だ。
今回倒したアリだって、事前に特徴を調べておいたので全て個体の区別がつく。ちなみに今回は全て雄だった。
さすがにそこまではアムに求めないが……
「まぁ、確かにわかりづらいかもしれないね……機械種は。もっと女の子っぽい格好をしてくれればいいんだけど……」
「ですよね……女の子っぽい格好のサファリさんとか想像もつかないですけど……」
そんなことを話しながら、自動ドアを潜る。
ギルドの中は、昼間とはうって変わって酒場の方が賑わっていた。
明かりが酒場に比べてやや薄暗くなっている受付側に向かう。
電光掲示板は暗く沈黙し、昼間は三つのカウンター全てに常駐していた職員も一人しかいない。
唯一開いているカウンターに向かう。
「小夜さん、ただいま」
「……へ?」
たった一人、薄暗い明かりの中、受付に静かに座っていた小夜さんが驚きの声を上げる。
機械種なので時間経過程度では疲労はないはずだが、その表情にはどこか疲れているかのような表情が見えた。
アムがカウンターに戦利品である、D703六脚動体モデルアントの触角をどんと置く。紐で束ねているが、それでも十五対、三十本もあればずいぶんと嵩張った。
「フィル……さん? え? もう戻って来られたんですか? どうやって?」
「いや、普通にモデルアントの生息地までランナーで行って15体分狩って討伐証明手に入れて戻ってきただけですけど……」
「え? モデルアントの生息地はここから二百キロ近く離れていて……どんなに急いでもこんな時間に戻ってこれるはずが……」
「えっと……」
そうは言っても、現に僕はこうして討伐証明を手に入れて戻って来ているのだ。
アムの方をちらりと横目で確認する。
真顔で言った。
「小夜さんのために急いで戻ってきました」
「え!?」
「へ……フィルさん!?」
僕の言葉にアムが慌てる。小夜さんも唖然としている。
薄暗い周囲を見回す。人気のないカウンター、静かな受付。カウンターの奥にもギルド職員の姿は数人のみで、ほとんどいない。
明らかに窓口はもう閉まっている。
「小夜さん、待っててくれたんですよね? 僕が戻ってくるのを……」
「……いえ、たまたま残っていただけです。やることがあったので……」
残業がある人は、カウンターで何もせずに座っていたりしない。
小夜さんは、平然とした表情で応答しているが、アンテナに感情が出ている。ゆっくり動いているそれは……動揺か?
王国のギルドは二十四時間営業だったのだが、場所が変われば営業時間も変わることを考慮するべきだった。失敗だ。
だがそんなことよりもむしろ、小夜さんの挙動に惹かれた。
予想外の反応だ。好奇心が刺激されるのを感じる。王国ではここまで感情表現に優れたガイノイドは見たことがなかった。テスラ製のガイノイド……この型番は有名だし、知識では知っているが何しろ素材も金額も馬鹿高いので、遭遇した事も触れたこともない。
下手したら生き物より豊富な感情表現……魔物使いとしての矜持を刺激する。是非いじってみたい。
不穏な気配を感じたのか、アムが僕の肩を強く揺すった。
「フィルさん、フィルさん! 早く達成報告しましょう! もう時間も遅いですし……」
「おっと、そうだったね。小夜さん、討伐証明の確認をお願いできますか?」
「はい、かしこまりました」
ギルドカードを差し出すと、小夜さんは討伐証明の検分を始めた。
モデルアントの討伐証明は触角……アンテナだ。くの字の形に曲がった六十センチほどの黒色の金属でできた二キロ程の重さの棒で、直径はおよそ三センチ、救援電波を放っていた事から分かる通りに、内部の特殊な電波の発生機構を内蔵している。
それが十五対、三十本で約六十キロだ。プライマリーヒューマンにとっては相当な重さであり、もちろん回収してからここまでそれを運んだのは僕ではなくアムだった。
小夜さんが丁寧に一本一本触角に触れる。
「確かに……間違いなくD703六脚動体モデルアントの討伐証明です……極良品と粗悪品が混じっていますが、討伐証明として影響があるほどではありません……」
アムが解体したのは、いらない部分が傷ついたりしてたからな……
小夜さんは討伐証明をカウンターの下にしまうと、ギルドカードを返却してきた。
「D703六脚動体モデルアントの討伐、お疲れ様でした。報酬は150万キリと、ギルドポイントが1500ポイントになります。フィル様はこれでFランクの昇格条件である、合計100ポイント以上のギルドポイントを得る、を達成しました。本来ならばEランクの条件である1000ポイント以上のギルドポイントの獲得を満たしておりますが、前提条件がFランク保持者のため、まずはFランクの昇格試験を受けてもらう事になります」
「わかりました。それでいいです」
「百五十万……!?」
アムが驚いていた。ちなみにアムの取り分は契約にある通り、報酬の三割である四十五万程になる。
あのランクの敵だとまぁ相場的にそんなものだろう。機械種の死骸は素材として生活にも密着しているため、同ランクの他の種の死骸と比較すると値段が高めの事が多いのだ。
「今はもう夜間なので、試験は明日以降となりますがよろしいですか?」
「はい。もちろんです。明日受けにきます。……ところで、この窓口はいつもは何時まで開いているんですか?」
小夜さんは、僕の言葉に少し躊躇したが、やがて諦めたように答えた。
「受付に職員がいる時間帯は利用できますが……レイブンシティのギルドの窓口の閉まる時間は基本的には十九時です。それ以降の達成報告は翌日行っていただく事になるのでご注意ください」
「なるほど……こんな時間までわざわざ僕のために残ってくれてありがとうございます」
「いえ……元々私が撒いた種ですし、それに……私の想像よりもずっと早かったです」
小夜さんがくすりと微笑んで言った。
「私、本当は徹夜で待つつもりだったんですよ……それがまさかこんな時間に帰ってこれるなんて……身体能力を確認した時は信じられませんでしたが、さすが元高ランクの探求者ですね」
いい人だった。まさか徹夜で待ってくれるつもりだったとは……
だが、冷静に考えてみればそれはそうだ。
なんたって、このギルドの最速ランナーのカタログスペックは時速八十キロ、アリの生息地までは二時間半かかる上に、帰りには普通ランナーはいない。狩る時間を考えると、帰還が明日の明け方くらいになってもおかしくないのだ。
僕は隣のアムの頭をしっかり掴むと、頭を下げさせた。もちろん一緒に僕も頭を下げる。
「ちょ……フィルさん!?」
「小夜さん、本当にすいませんでした。こんな時間まで待たせてしてしまって……。ほら、アムも謝れ!」
「う……は、はい。申し訳ありませんでした、小夜さん」
もちろん僕の責任も大きい。あの場でアムの意見を命令で封殺することだってできたのだ。
だが、それ以上にアムのあの反応はどうかと思う。そこまで言っておいてアリに不覚をとったのだから尚更だ。想定外の事態はせいぜいアムの実力くらいで、結果的にはうまくいったから問題なかったが、何か一つでもボタンを掛け違っていたら荒野の塵になっていた可能性すらある。
小夜さんがその様子に逆に慌てる。
「そ、そんな、フィル様。頭を上げてください。アム様も」
「このお礼はいつか必ずします。アムを売っぱらってでも」
「そ、そんな……そんなの、酷いです!」
僕の言葉に慌てたアムが右腕にすがりつく。
それに身を任せながら実感する。
反省が足りないと思うんだよねぇ……アムは。徹底的に矯正しないと、契約を切った後にどうなってしまうか……
小夜さんがその様子を眼を丸くして見た。
「ずいぶん仲良くなられたんですね……」
「そう見えますか?」
ぶんぶんと右手を振って引き離そうとするが、アムは首を横に振って離れまいとしっかり右腕に捕まっている。
「べったりじゃないですか……目の前でいちゃいちゃされるとちょっと……妬けます……」
「え……?」
妬ける……?
好奇心が再び刺激される。
せっかく気になっていたのを、気がない振りをしていたのに。
慣用表現か? それとも嫉妬を感じ取れる程に高度な感情機構を積んでるのか?
一般的に感情というのは六種類あるとされているが、機械種はその中でも喜、怒、哀の三種類を保有している事が多い。逆に言えば、それ以外の感情については希薄なのだ。
機械種の感情は感情機構と呼ばれる一種のパーツによって作られたものだ。天然物であるヴィータのものとはやはり差異がある。だが、技術の進歩は目覚ましい。僕が全く知らないシステムがあったとしても不思議じゃない。
いやいや、待て、落ち着け。
深呼吸して、小夜さんの表情をじっくり観察する。
小夜さんは不思議そうな眼でこちらを見ていた。
じっと見ているとそれだけで例えようのない焦燥が沸き上がってきた。
く……見てみたい。その感情機構の力、是非この眼で見てみたい。グラエル王国じゃ見たことがない、もしかしたらこの国、独自のアーキテクチャを……
バラして並べてスケッチしてまた組み立てたい。機械魔術師のクラスじゃない事が心底悔やまれる。
自分の腕は把握している。特に僕にはメカニック特有のスキルがない。
バラすのはできても、このレベルの高度なガイノイドを僕が元通りに組み立てるのは不可能だ。致命的にスキルが足りていない。
いや、待てよ…、とちょっと考える。
バラすのは無理でもちょっといじって反応を見るくらいならあるいは……いけるか?
でもさすがにそこまでしたらライセンス料がかかるんだろうな……所詮高嶺の花か。
目的を見誤るなフィル・ガーデン。大丈夫、全てを達成した後にもう一度来ればいいんだ。
でも……テスラ系のガイノイドかぁ……ああ……
「……小夜さんの身体弄りてぇ……」
「へ……?」
五指がうずいてしょうがない。
だがだめだ。ここは我慢するしかない。思い切り拳を握りしめる。
大手メーカーが作成した人型機械種は基本的に高い。
その中でもテスラ製のガイノイドの……特に最新型のライセンス料は馬鹿高い。質も一流だが値段も一流だ。
基本プランで月一億に迫ると聞く。ここまで高度な感情機構が全てのガイノイドに載せられているとは思えないから、恐らく追加オプションのはずだ。小夜さんのライセンス料は更に高いだろう。
それにギルドの職員ってことは、ギルドと既に契約しているってことだし、一般的なガイノイドにそこまで高度な感情機構が必要とも思えないから、もしかしたらギルド専用に卸しているタイプである可能性すらある……
必死に葛藤する僕に、小夜さんがやや引きつった表情で聞いてくる。
「フィ、フィル様? 今何かおっしゃいましたか? 聞き間違えだと思うのですが、不穏な言葉が……」
まて、落ち着け。フィル・ガーデン。
同意……そう、同意を得られたならそれは和姦という事にならないだろうか?
邪な考えが浮かびかけ、自分の頭を殴る。
「あの……フィル様!?」
いや、違う。そうじゃないだろ。怯えてるじゃないか。落ち着くんだ。
さー、深呼吸をして。そう、冷静になるんだ。
心臓の鼓動を沈めると、小夜さんの眼をしっかり見て言った。
「……小夜さんの身体……いや、髪、髪でいいので触らせてもらえませんか?」
「ひゃ……ちょ、ちょっと……」
小夜さんが一歩後退る。それに向かって左手を伸ばそうとした瞬間、アムがその手にしがみついた。
その衝撃で正気に帰る。
「フィ、フィルさん! ダメ、ダメです! 嫌がってるじゃないですか!」
「……ああ……そうだったね」
怯えた表情の小夜さんを見て、ようやく頭に冷静さが戻った。
そう、アムの言うとおりだ。
危ない危ない。嫌がっている事をするなんて、最低だ。人としても魔物使いとしても風上にも置けない。
そしてそれ以上に自分の未熟さが憎らしい。
ぎりぎりと噛み締めた奥歯が軋む。後少し、後少し信頼を築いていれば、快く触らせてもらえたかもしれないのに。
……痛くするつもりはなかったんだけどなあ……
「すいません、小夜さん。怖がらせてしまって……」
「……いえ、少し驚いただけなので」
若干先ほどよりも遠い所で小夜さんが言う。
「……いえ、小夜さんが『嫉妬する』なんていうから、つい……」
つい、僕の好奇心に火がついてしまったんです。
と、言いかけたが止めた。言い訳は見苦しい。
「……え!? それって……」
小夜さんが何事か言いかけ、黙った。
信頼は築くのには時間がかかるが、崩すのは一瞬だ。しばらくはちょっと様子を見るべきかもしれないな。
薄暗い中でもはっきりと分かるルビーのような眼が、何やら僕を見つめ、一歩前に出る。
ゆっくりとその唇を開いた。
「あ、あの……どうしても、とフィル様がおっしゃるなら……」
「! フィルさん! 髪なら私のを触ればいいと思いますよ?」
アムがぐいぐいと頭を押し付けてくる。小夜さんがそれを見て、言葉を飲み込んだ。
「……ああ、そうだね」
違う。違うんだ、アム。
僕が触れたかったのは最新の技術であって、レイスの髪なんてもう触り慣れているんだ。
とか思いつつ、少しくすんだ金色の髪を軽く手で梳かしてやると、アムがほっとしたように頭をこちらに預けて眼を閉じた。
わかってない。わかってないが、ようやく僕の頭にも冷静さが戻ってくる。
ため息をついて、身をこちらにまかせているアムを見下ろした。
もう眠いのかな……
壁にかかっている時計を見ると、もう二十一時を回っている。
眠るにはまだ早いが、今日はなかなか波瀾万丈な一日だったので、宿に戻るにはいい時間だ。
と、そこで気づいた。
あれ? そういや僕、今日どこに泊まればいいんだ?
金はあるが、これから宿を探す気にはなれない。
「……そういえば、アムって今どこに泊まってるの?」
「……? ここから歩いて十五分くらいの所にある『白銀の歯車』っていう宿ですけど……それがどうかしましたか?」
「一人で泊まってるの? ベッドはいくつある? 部屋は広い?」
「え……ちょ、ちょっと待って下さい……フィルさん、まさか……来るつもりですか?」
「……泊まる所がなくてね。まぁ、契約を交わして初日なわけだし、アムも僕のスレイブになったわけだし、今日の討伐依頼の反省会とかもやらなくちゃならないし……問題ないよね? それとも嫌だったりする?」
アムが慌てて首を横に振って否定の意を示す。
よかった。これで嫌がられたりしたら、面倒なプロセスを踏むつもりだったが……
まぁ、アムの部屋に泊まるのは今日が最後だ。どちらにせよどこかに拠点は築く必要がある。幸いなことに目星は付いているし、明日には引き払えるだろう。
「あ、でも、あの……私、一人で住んでるので……その……ベッドが一つしか……」
付け加えるようにアムが言う。まぁそりゃそうだ。ソロの探求者にベッドは二つもいらない。
一緒のベッドで寝ても僕は全く構わないし、それはそれで信頼が上がるのだが、一日目の過度な身体的接触はこれから教育していく上でよろしくない。耐性ができるからだ。
それに、僕は低血圧で寝起きが少しばかり悪い。アムに迷惑をかけてしまうだろう。
「アムの部屋には椅子とかソファとかないの? 人が横になって眠れるような……」
「……ソファがありますけど……寝るにはちょっと狭いですよ? ……わ、私は……一緒のベッドでも……全然……」
アムが頬を微かに染めて上目遣いで見上げてくる。
「……いや、勘違いしてる所悪いけど、僕がベッドでアムがソファだよ?」
「え……?」
アムの表情が可愛らしい笑顔のまま凍りつく。
小夜さんにも想定外だったのか、驚いたような表情で見ている。
「いや、僕の方が体力ないし、疲労も高いし、それに、アムは僕の何?」
僕の言わんとすることを察したのか、アムが目を伏せて答えた。
「……スレイブ、です」
「マスターを差し置いてベッドで寝たい?」
僕の剣幕に、アムが一歩引く。
ついでに小夜さんも引いていた。それがちょっと悲しかった。
「……わ、分かりました……私がソファで寝ます……」
「よしよし。大丈夫大丈夫、今日だけだから。明日からはベッドで寝れるよ」
意気消沈するアムの頭を撫でながら、考える。
学者で言う書斎、鍛冶師で言う工房、魔術師で言う研究室。
魔物使いはそれを、自らの縄張りであるそれを、箱庭と呼ぶ。あまり長い事ここにいるつもりはないが、構築する必要があるだろう。
予想したよりも遥かにへっぽこで、そして遥かにポテンシャルを秘めていたアムの事を想いながら、僕はとりあえずアムとの契約の更新が必要となる一ヶ月はレイブンシティにいる事を決めた。




