第七十話:こんなリスクを背負う事もなかった
魔物使いは通常、契約の紋章を通じてコミュニケーションを取る。だが、アリス・ナイトウォーカーはその強さ故に契約の紋章を刻めない。
それが先の事件の発端でもあったのだが、だがしかし、言葉なしでマスターの命令がアリスに届かないわけではない。
指先が、合金の骨格、柔軟で強靭な人工筋肉に包まれた首元にみしみしとめり込む。
アリスとは異なる、透き通った宝石のような赤の瞳が無表情のアリスを映していた。
「いつ、のまに…………」
よほど重い一撃を貰ったのか、エトランジュが地面の上で呻くような声をあげる。
何も気づいていないエトランジュを、アリスは鼻で笑った。
霊体種のスキル。憑依には成功させるために様々な条件がある。
憑依対象は一度に一人。取り憑くには触れねばならない。
アリスが憑依対象をフィルからエトランジュに変えたのは、変えるタイミングがあったのはたった一度――『機神の祭壇』から脱出した後だ。
以心伝心。紋章など必要ない。ずっとマスターの事を考え続けていたアリスには、マスターの思考が手に取るようにわかる。
本来ならば、言語道断だった。
アリスの生はマスターのためにある。赤の他人を――しかも女を守るために憑依対象を変えるなどありえない話だが、それがフィルの意向ならば是非もない。アリスはフィルの、スレイブなのだ。
それ以来、アリスはずっと、憑依を通してエトランジュの生活を監視してきた。
食事中も研究を行っている間も、戦闘中も会話中もそして、眠れぬ夜を過ごしている間も――。
そして、引っかかった。敵に情けを掛けこのザマとは、本当に愚かだ。
だが、ライバルが弱いに越した事はない。トラブルは本来起きない方がいいものだが、役に立てるのは至上の喜びである。
もしかしたら御主人様はこういう甘い女が好きなのだろうか? だが、とてもアリスには真似できそうもない。
強さこそ、ナイトウォーカーの絶対的な柱であるが故に。
首を握りしめた指先に強い紫電が流れ、指先が勝手に離れる。
小夜は数歩後ろに下がると、何の痛痒も見せない速やかな動きで構えを取った。
どうやら、霊体種対策も行われているらしい。
表情には怒りも恐れもなく、それ故に、感じる強い殺意に得体の知れない違和感がある。
いや、瞳の奥の光と、アンテナは押し込められた感情を示しているのかもしれないが――。
「アリ、ス、駄目なの、です、小夜は――フィルの友で、操られているだけ――」
「知ってる」
ずっと、先日アムに暴かれるまで、ずっとアリスはマスターの行動を見てきた。その中には当然、小夜への名付けの瞬間も含まれる。
小夜の足運びは熟達した戦士のものだった。魂はなく、ライフドレインも効かない少々不利な相手だ。
だが、アリスはそういった連中を尽く下し、災害となった。
夜を梳いたような髪。人工的故にシミひとつない白い肌に、この上なく整った容貌は多少の煤で汚れていても変わらぬ美を誇っている。
アリスの中心。その魂に、ざわりと悪寒が奔る。
最高級に近い戦闘用人形。ああ、この人形を見ていると、夜月を、ただ実験的にフィルに貸し出されただけなのに、アリスからマスターを守護し散々邪魔してきたあの機械人形を否応にも思い出す。
もっとも、あの機械人形はここまで弱くはなかったが――。
躊躇いなど、手加減など、出来るわけがない。
破壊だ。御主人様は、破壊を望んでいる。エトランジュの命を守るために他のものを切り捨てる事を望んだ。
ならば、アリスの行動は命令に抵触していない。戦意と殺意が強い高揚となってアリスの全身を駆け巡る。
構える機械人形に、ナイトウォーカーは笑った。
「粉々に――どう頑張っても戻せないくらい、粉々にしてあげる」
§ § §
仄暗い部屋に轟音が響き、頑丈そうなテーブルに大きなひびが入る。マクネスさんが拳を叩きつけたのだ。
機械魔術師は前衛ではないが、スキルツリーには基礎能力を強化するパッシブスキルがある。
副ギルドマスターに抜擢される程職を進めたのならば、その身体能力は前衛職にも匹敵するだろう。
精神を安定させるパッシブスキルも持っていたはずだが、マクネスさんの顔は完全に引きつっていた。
顔が上がり、その双眸が僕に向けられる。
純人など片手で捻れるような能力を持っているはずなのに、その瞳には理解し難いものに対する恐怖が溢れていた。
「あり、えない……お前は、そんなに、愚かじゃない…………それでは、ただの、馬鹿だッ!」
アリスは確実にエトランジュを守ってくれるだろう。彼女の強さは折り紙付きだ、たとえ消耗していても、小夜だろうが、機械魔術師だろうが、負けるわけがない。傷の回復から逃亡まであらゆる能力を高いレベルで備えた彼女はある種の完成形に至っている。
もしかしたら――ちょっとやりすぎてしまうかも知れないが、それはまあ仕方あるまい。
「ならば、なんだ!? お前は、お前は、無数の監視の中を、武器も携帯せずに無防備に、歩いていたというのかッ!?」
マクネスさんが悲鳴のような声を上げる。
いつだって、そうだった。僕は弱い。今も昔もずっと弱い。そして、昔はアリスもいなかったのだ。
恐れていては何も手に入らない。故に、怖れない。これは――マクネスさんが得意とする合理と言う奴だ。
そもそも、アリスがいたって死ぬ時は死ぬのである。ならば、死人は少ない方がいい。
「イかれてる、フィル。貴様は死が――怖くないのか!?」
「もちろん、怖いさ。僕にはまだ未練がある」
アシュリーの元に戻らなくてはならないし、目標であったL級の探求者にも未だ至ってはいない。
リース代の支払いが滞っているであろう夜月からも小言を受けねばならないし、やりたいことはいくらでもある。
大きくため息をつく。
「必要ないなら――こんなリスクを背負う事もなかったんだが――」
正面から戦いができるならばそれに越した事はなかった。僕からここまで譲歩を引き出したのは間違いなく目の前の男の手腕である。
疲れたような僕の声にやや冷静さを取り戻したのか、マクネスさんが鋭い目つきで、未だ腰を下ろしたままの僕を見下ろす。
「君は――状況が、わかっているのか? チェックメイトだ」
「…………」
心臓が強く打っている。黙る僕の前に、そのスレイブが一歩踏み出す。
マクネスさんが、まるで状況をできるだけ早く終わらせようとしているかのような早口で言う。
「君は、自ら、武器を捨てた。君を消せば、全て終わるんだ」
その声には確信があった。世界は痛い程静かだった。
「エトランジュは確かに助かるかも知れない。君の自慢なスレイブも生き残るだろう。だが、そんなのは関係ない――私は、全てを、終わらせられるんだ。何故ならば、この夜の事を知る者は君以外に、誰もいない」
ここには誰もいない。ギルドに雇われた機械種は全てマクネスさんの下僕だ、白夜が僕にSSS等級依頼の解決を頼んだ事から、全員が事情を知っているわけではないだろうが、機械魔術師に彼らは逆らえない。記憶だって自由に操作できるだろう。
「たとえアリスが君の死を叫ぼうが、誰も悪性霊体種の言葉など聞かない。エトランジュの言葉だって、封殺できる。何しろ、ここは密室だッ! わかるか、冷静に考えてみろ! アリスもエトランジュも、君がここにいる事を知らないんだッ! アリスが君に憑いていなかったというのは、つまり、そういう事だッ!」
まるで、自分のミスを隠そうとしているような声だった。だが、マクネスさんの言葉には理があった。
アリスを憑けないというのはつまり、アリスから僕の動向を一切探れないという事を意味している。
だから、彼は僕がアリスを憑けている事を何の根拠もなく確信し、だから真っ先に僕を『回復』し憑依を解除した。
マクネスさんと僕のやり取りを、アリスは一切知らない。恐らくアリスならばマクネスさんが怪しい事を察するだろうが、証拠もなくそれを聞いてくれる者などいるわけがない。
マクネスさんが頭を搔き、僕を糾弾する。
「どうしてだ! 何故、どうして、その表情を、そんな表情が、できるんだッ! 君は、これから、死ぬというのにッ!」
そこで僕はようやく、本題に入った。
足を組み直し、とんとんと人差し指で腕を叩く。どうやらマクネスさんはすぐに僕を殺すつもりはないようだ。
納得できないのだろう。これだから理屈で動く者はやりやすい。
「マクネスさん、実は僕は戦いに来たわけじゃない。交渉に来たんだ」




