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Tamer's Mythology  作者: 槻影
第二部:栄光の積み方

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第五十八話:もうどうしようもない

 やりすぎてしまうから、というのが理由だ。


 僕は行動に大義を要求する。自分自身でそれを決めたのは、SSSランクの探求者になった時の事だ。それまで僕は手段を選んでいなかった。

 生きとし生けるもの全ては欲望を持つ。僕のそれは他の人よりもほんの少しだけ強かった。だから、抑制する必要があった。

 それは成長であり、同時に弱くなったという事でもある。


 もしも今、僕が義に反する行動を取れば、僕は他者との差異から徹底的に叩かれる事になるだろう。それは僕にとって致命打になり得る。


 僕は地位が高くなるにつれ行動範囲が広がりそして同時に弱くなっていった。SSS級探求者。誰だって警戒する。つまり今の状況はそういう事だ。

 側にスレイブがいない。個体としての能力もカスみたいなものだ。確かに常に護衛を付けてはいたが、それでも僕が襲われなかったのは地位が理由だとしか思えない。


「僕は……弱いんだ」


「……」


「皆が皆、警戒するに値する人間ではない。用心深いのはいいことだけど、過剰評価されるのはこちらとしては正直――心苦しい」


「フィル……」


 感情のあまり篭もらない小さい声。

 しかし、それが嫌がっているわけではないという事を僕は知っていた。

 ウィンディーネというのは――元素精霊種というのは、魂からなる霊体種などと異なり、元来人の感情を理解しないものなのだ。純粋になればなるほど、種族ランクが上がれば上がる程にその傾向が強くなる。


 そういう意味で、恐らく人間社会の中で探求者をやる事によってある程度溶け込めたのだろう、スイ・ニードニードは全体的に見れば付き合いやすい方だった。

 小さくため息をつき、スイが腕の中で微かに身動ぎする。ひんやりとした髪――後頭部が顎を上げた事により僕の首元をくすぐった。それだけで僕の中の情動がある種落ち着いていくのを感じる。


「フィル……噂が……流れている」


 スイはあまりコミュニケーション能力が高い方ではない。彼女にまで知れ渡っているとなると、相当広がっているのだろう。

 その言葉にはどこか呆れているような色があった。


 蟻の女王すら自ら死を選ぶ――魔王。

 言葉に出されずともわかる。噂は洗っていた。


「それは陰謀だ。僕は何もやっていない」


 風評被害だ。何かやる前に逃げられてしまったのだ。詐欺である。

 やるせない気分でため息を吐く。そこでスイがじーっと見上げてきた。


「一つ聞きたい。……何でここに?」


「今日は……外に出たくない気分なんだ」


 残り時間は短い。情報が致命的に足りていなかった。

 敵は狡猾だ。非常に僕にとって有効的な手段を取っている。


 時間さえあればゆっくりと方法を模索するのだが、完全に手詰まりだった。


 再び心中に渦巻くイライラをスイの髪を梳いて抑える。スイは青色の目を瞬かせ、迷惑そうに首を小さく振った。


「違う。私が聞いているのは……何で私の部屋へ、と」


 その言葉に、改めて室内を見渡す。


 僕とセイル達が滞在している宿屋――白銀の歯車の部屋の構造はどれもほとんど一緒である。スイの部屋は一人部屋であり、僕の部屋とは違ってベッドが一つしかないが違いはそれだけだ。

 長く滞在していると聞いていたが、スイの部屋にはあまり物が置いていなかった。


 僕は一通り確認して、僕の膝の上に座っているスイの方に向く。


「一人だと心細かったんだ。僕は魔物使い(テイマー)なんだ」


「……」


 スイが無言で膝の上から降りようとする。僕はとっさにスイを抱きしめた。後ろから、肩に顎を埋めるように密着する。


「私は……スレイブじゃない」


「でも友人だ。出会ってからは短いし、一度しか一緒に探求したこともないけど、少なくとも僕は友人だと思っている」


「フィル……私はあなたの考えている事がわからない。あなたが――なんて言いながら入ってきたか、忘れた?」


 珍しく口数の多いスイ。勿論忘れるわけがない。

 先程放った言葉を忠実に再現する。


「さぁ、スイ。ポーカーの賭けの貸しを支払ってもらおう。僕の膝の上に大人しく座るんだ」


「……友人に言う言葉じゃない」


「その通りだ。ただのジョークだよ」


 スイが目を見開く。心細げに視線を逸らし、諦めたように僕に視線を戻すと、珍しく震える口調で言う。

 出てきた言葉は僕の言葉を無視したものだ。


「賭けは……なしって言ったはず。イカサマ……したからって」


「その通りだ、スイ。イカサマは唾棄すべきものだ。勝負は無効だよ」


 恐らく混乱しているのだろう。スイの髪の毛が僅かに波打っていた。

 水の精霊なのに抱きしめるとぬくもりを感じるのは何故なのだろうか。


 イカサマはただのきっかけだ。賭けなんてどうでもいいし、ポーカーに意味なんてなかった。必要なのは積み重ねだ。


「でも、スイはこうして大人しく――僕の言葉を聞いている」


 情報の収集が必要だ。誰がどの程度まで僕のことを信頼してくれるのか、動いてくれるのか。

 スイの動揺がピタリと止まる。


「心細かったのは本当だよ。スイ、僕は――いつ死んでも後悔しないように動いてる」


「…………離して」


 拘束を解くと、スイは僕の膝の上から軽やかに飛び降りた。まるで体重を感じさせない挙動。飛び降りると、そのまま離れる事なく、僕の方を見る。

 確かめるように僕の容貌を観察すると、そっけない様子で言う。


「足……見せて」


 足。以前セイルさん達と向かった黒鉄の墓標での探索。そこで受けた負傷の事を言っているのだろう。


「傷は残っていないよ。いい回復薬を使ったんだ」


「いいから……見せる!」


 スイが僕の足に飛びつき、無理やりブーツを脱がせてくる。靴下を剥ぎ取り、僕の白く貧弱な足をぺたぺたと触れながら確認した。

 最高級の回復薬を使っただけあって、後遺症もなく傷跡もない。希少なものだが、ただでさえ低い機動力を無駄に落とすわけにはいかなかった。

 踝をなぞるようになで、マッサージするように触れる。その無色透明な瞳が何かを探しているかのように動く。


「だから言っただろ、傷は残ってないって」


「フィル……私には――かばってもらった借りが……救ってもらった借りがある」


 随分と義理堅い話だ。確かにクリーナーの群れの中で立ち往生したのは問題だったが、それは仕方のない事で、僕はその件について一切何かを要求するつもりはない。


「一時的とはいえ――パーティメンバーを助けるのは当たり前だ。偶然僕がかばっただけでセイル達の方が先に動いていた可能性だってあった」


 だが、要求しなくても得られるものはあるもので、大抵の場合そういうものは金銭に換えられないものだ。

 額の記されていない手形のようなものだ。性格次第では簡単に踏み倒せるものだが、スイはそういう性格ではない。


 僕の言葉をしっかり聞いて、だがスイの表情は晴れる気配がなかった。


「セイル達は私のパーティメンバー。だから……私は、セイル達よりも先にフィルが動けた理由が……わからない」


「僕はブレインだ。パーティの司令塔だった。いざという時の判断速度には自信がある。その判断の正誤はともかく」


 だからさっさと動いた。それが僕と彼らの絆を強くした。あの判断は正しかったと胸を張って言える。

 一つ間違えれば死んでいた可能性もあるが、あの時はアリスがずっと僕の動向を見ていたので何かあったとしたら無理やりこっちに転移してきて助けてくれていただろう。


 黙って僕の言葉を聞くスイに手招きをする。スイは呆れた表情をしていたがゆっくりと近寄ってきた。

 至近距離まで近づいてきたところでようやく本題に入ることにする。


 理解してもらおうとは思わない。ただ吐露する。胃がきりきりと痛む。悲しみが、憤怒が、臓腑を苛む。


「スイ、僕の負けだ。もうどうしようもない」


「何を……言っているの?」


 スレイブに意味もなく弱音を吐く訳にはいかない。だから、代わりに愚痴を聞いてもらう。


「どうしようもないんだ。調査する時間もない。僕の作戦は僕の敵が敵である事が最低限の条件だった。相手は狡猾だ。本当に狡猾だ。僕は誰が見ても明らかな証拠を掴む前に相手に逃げられてしまった。絶対にありえない方法で……もうきっと敵はボロを出さない」


 護衛(ハイル)を解雇したのに未だ僕はこうして無事でいる。酒場から宿に戻るまでの間、僕は確かに一人だった。襲撃するのならば絶好のタイミングだったはずなのに、相手は何もしなかった。


 状況からして、敵の存在はまず間違いない。こちらの動向を探り、僕のもっともやられたくない手を打ってきている。

 ここまで完膚無きまでにやられたのはいつぶりだろうか。

 

 アリスの裏切りとこれはまた異なる。あれは完全に僕の思想の範疇の外にあったが、今回僕は僕の考えうるあらゆる方法を使って対応していたのだ。


 隠しているつもりだったが表情に出ていたのか、スイが僕の目の中を覗き込んでくる。透き通る青の虹彩には消沈している僕の顔が映っていた。


「スイ、僕はそう遠くないうちにこの街を去る。元いた所に帰るんだ」


「!? ……そう」


 帰らねばならない。もしも王国に残してきた僕のスレイブが――夜月とアシュリーがここに一緒にいたら、僕は間違いなくここに残る事を選んでいただろう。だが、そんなことはもう考えても意味のない事だ。


 気分を切り替える事にした。

 目を僅かに見開き、注意しなければ気づかない表情で驚きを示すスイに冗談めかした声を作り、続ける。


「そうすれば、二度とスイは僕に借りを返すことが出来ないね。十年、二十年、あるいはもっと長い間――スイはふとした瞬間に思い出すわけだ。あぁ、あの時に助けてもらったフィル・ガーデンに、私は借りを作ったまま結局何も返すことができなかった。今頃彼は何をやっているんだろう、と」


「え!? ……さっきと言っている事が……違う」


 こうでも言わなければスイの心に痼が残る。そして僕の心にも。たとえ結果的にどうにもならなくなったとしても――せっかく遠方まで来たのだ、やり残した事は終えねばならない。


 プライマリーヒューマンの寿命から考えて、ここを去ったら二度と僕がこの地を踏む事はないだろう。


 身体を震わせるスイの手を取る。その手の質感は有機生命種(ヴィータ)の物とほとんど変わらない。


「外に出るつもりはなかったけど、気が変わった。スイ、僕に付き合ってくれ」





§





「あ、おかえ――お兄さん……何してるの?」


 偶然鉢合わせたブリュムの笑顔がみるみる内に引きつる。

 僕はその言葉に引くことなく答えた。こういう時に、自分に非があるように振る舞ってはならない。というか非はない。


「貸しを返して貰っていたんだ」


「貸……し……?」


「具体的に言うと買い物に付き合って貰ったんだ」


「買い……物……?」


 ブリュムの視線が僕の後ろから入ってきたスイに向けられる。スイは半分死んだような目でぽつりと呟いた。


「……騙された」


 そんな大げさな……。

 ブリュムが恐る恐るといった様子でスイから視線を背け、僕を見上げる。


「お、お兄さん、何したの!?」


「見ての通りだよ」


 荷物持ちに使ったわけでも代わりに金を払ってもらったわけでもない。


 だが、スイの格好は出かけていった時の格好から変わっていた。色気の欠片もない探求者御用達のローブからフリルのあしらわれた半透明な薄水色の涼やかなドレスに。いつも服装に気を使っている様子はないが、僕の目はごまかせない。

 スイは本日一日周囲から注目の的だった。どこか清純さを残しつつも扇情的なスイの姿はしばらくこのレイブンシティで噂として残る事だろう。


 スイが死んだ目でもう一度言う。


「口車に乗せられた」


「着せ替えたんだ。最近全然やってなかったから……あ、これは元の服だよ」


 元々スイの来ていた衣類を入れた紙袋をブリュムに押し付けるように渡す。

 身支度を整えてやるのも魔物使いの重要な役割である。衣食住を保証するという意味だけでなく、スレイブの姿形はマスターの評判に影響するのだ。


 ブリュムは押し付けるままに紙袋を受け取り、じーっとスイの方を見ている。

 スイが自分のパーティメンバーにまるで言い訳でもするかのように言った。


「思い詰めた様子だったから……付き合ったら……付け込まれた」


 ブリュムの視線が僕の方に移る。今まで見たことのないくらいな、温度感の低い視線だ。

 僕はその視線に真っ向から立ち向かった。


「データを取ろうと思ったんだ。可愛いでしょ?」


「お兄さん、一体何なの?」


 パーフェクトだ。可愛い女の子を側に侍らせるのはいつだって気分がいい。

 また一つ僕の悔いは満たされた。


 スイの足元にかがみ込み、薄手のスカートに包まれた脚に触れる。そこに入った大きなスリットに手の平を入れ、まるでカーテンでもあけるように横にずらしてみせる。華奢な足首から太ももまで、スイの白磁のような肌が大きく露になる。


「スリットが重要なんだ。絶対に視線を取れる。僕が保証する」


 金になるし印象も得られる。


「ちょ……お兄さん!? スイ!? ダメだよ、止めないと! 何で言いなりになってるの!?」


 ブリュムが、スカートの裾を取った僕の手を軽く払う。スイは疲れたようにため息をついた。


「初めは止めたけど……もうどうでもいい」


 ウィンディーネ。水の精霊は度々セイレーンと混同される。どちらも気に入った相手の魂を吸い取るとか眉唾ものの伝承を持っていたりするが、スイの口から漏れるのは魂が抜けるようなため息だった。


「どこまで交渉できるか試したんだ。僕の経験上、もう少しだけいける」


「え!? これ以上何するつもりなの!?」


 ブリュムが素っ頓狂な声をあげる。


「着せたんだから次は脱がせるに決まってるだろ! あ、安心して。手は出さないよ」


 データだ。データを取るだけだ。


「???????????」


 ブリュムが僕の言葉に目を白黒させる。スイはその隙に、てこてこと僕の側から離れ、テーブルに上半身を投げ出してぐったりした。

 どうやら彼女は自らの容姿の向上に対して興味をほとんど持っていないようだ。だが、二回目からは少しずつ慣れていくことだろう。髪いじった時もぐったりしてたし。


 ブリュムが僕とスイを交互に見て戦慄く声で抗議してくる。


「……お、お兄さん、スイはお兄さんの玩具じゃないんだよ?」


「ああ。本当だったらスレイブを相手にすべきだったんだけど……」


 アリスは街の外だし、アムはリンの元で修行に勤しんでいる。そして、彼女たちにはいつでも手を出せる。


 それに、僕だって遊んでいたわけではない。釣りだ。僕は釣りをしていたのだ。


 だが、やはり、誰も僕に絡んでこなかった。恐らく噂が独り歩きしているのだろう。

 あからさまに隙を見せたにも拘らず、捕まえる事ができたのはスイに対する視線だけだ。


 突然黙り込んだ僕に、ブリュムが続ける。


「? な、なら、スレイブにすればいいじゃん? あの……アリス、さん、だっけ?」


「アリスは……まだ駄目だ。仕事中だからね」


 ブリュムがばんと強く机を叩く。信じられないものでも見たかのような表情で、語気荒く聞いてくる。


「お、お兄さん、アリスさんにだけ働かせてるの? マスター? として恥ずかしくないの?」


「僕はすべき事をやり、アリスもすべき事をやってる。恥ずべき点はない」


 アリスは出来たスレイブだ。裏切りはともかく、彼女は僕に適合している。僕の意図を察して動けるように鍛え上げられている。だから心配はない。


 そして、ブリュムのすべき事もまた違う。


「な、なに?」


 ブリュムの顎に人差し指をあて、こちらを向かせる。

 そして、ぐったりとしたスイを顎で指して、交渉を開始した。


「ブリュム。君がスイの代わりになるのならば、もうこれ以上彼女には手を出さないよ。さぁ、どうする?」


「……お兄さんって、大体最低だよね」


 ブリュムの視線の冷たさが過去最低を更新した。




§ § §






 分厚い雲に覆われた暗い空。そして、空に負けず劣らぬ暗黒を思わせる眼こそがアリス・ナイトウォーカーの起源だ。

 地べたに這いつくばる自分を見下ろすその眼は確かに先程まで獲物だった者の眼だった。


 少なくともその時点では、都市一つを飲み込み命を蓄えたアリス・ナイトウォーカーとSSS級探求者になったばかりだったフィル・ガーデンの間に大きな戦力差はなかった。

 それでも圧倒的に敗北した理由を一つ自分で述べるのならば、油断していたからだと言えるだろう。


 油断していて、そして魅入られた。


 倒れ伏す数え切れない人の群れ。

 その間を平然と歩く一人の青年の姿はいかにも怪しかったが、同時に与し易い獲物に見えた。

 街を呑み込む途中であった如何なる抵抗よりも、そして発生した災害を止めるべく『夜の女王(ナイトウォーカー)狩り』に参加してきた如何なる探求者よりも弱く見えた。


 だから負けた。その存在を千回殺せる程の戦力を持って襲いかかったにも拘らず負けた。そして、慈悲を受け、下僕になった。


 悪性霊体種とは内に悪性を秘めた魂であり、それ故により深い闇に魅入られる。




 気絶したように眠っていた。生命のストックを節約するために睡眠は必要不可欠だ。

 数日寝ずに歩き回り、無数の戦闘をくぐり抜け、死体のように倒れ伏し眠り、目を覚ましたアリスの視界に入ってきたのはここ数日飽きるほどに見た荒野だ。


 身を隠すためにかぶっていた大量の機械種の残骸を跳ね除け、朦朧とした意識で起き上がる。


 どこまでも続く荒れ果てた地に、空気に染み付いた機械種の臭い。身体の奥底から湧き出てきた強い吐き気を無理やり跳ね除ける。


 アリスは強力な悪性霊体種だが決して無敵ではない。


 生命なき存在との相性差。油断すれば命のストックを簡単に減らしてくる強力な機械種に終わりの見えない『任務』。

 食糧こそ備蓄があったが、緊張感の途切れない状況と強い孤独はアリスのパフォーマンスを大きく低下させている。

 見渡す限り荒れ果てた地には未だ数え切れないくらいの数の魔物の姿があった。一瞬ふらつき、体勢を立て直す。

 白く華奢な喉が小さく動き、冷たい息を吐き出す。


「うぅ……ご主人……様」


 か細い声が空気を震わせるが、返事はない。いや、返事が来ない事はアリス自身も分かっていたが、それでも声を出さずにはいられなかった。


 アリス・ナイトウォーカーは強力な武器だが、武器とは持ち手を必要とするものだ。

 アリスは元々、たった一人で戦えるように出来ていない。いや、昔は戦えていたが今はもう無理だった。


「ご主人様……任務……SSS級……残り……」


 小さく声を出すことで少しずつ意識が鮮明になっていく。

 地獄のような状況で、自らの存在が暗く輝いていくのを感じる。


 ご主人様に会いたかった。だが、まだ会えない。会うわけにはいかない。


 意識を取り戻したアリスの存在に気づき、天から飛蝗の形をした機械種が襲い掛かってくる。それを、アリスは一歩歩みを進め回避する。地面に突き刺さった一メートル程の身体。その身体から生えた気味の悪い複眼がこちらを見上げ、靭やかな金属で作られた脚がきりきりと軋んだ音を立てる。


 それをアリスは疲れの滲んだ、しかし昏い輝きを秘めた眼で見下ろした。


 アリスには分かっていた。


 これは罰だ。シィラ・ブラックロギアとの戦いでご主人様を謀った罰。

 故に、ご主人様は自分に高難易度の任務を与えた。何よりも苦痛である孤独を与えた。


 罪を雪ぐには罰がいる。

 期待されている。与えられた、ご主人様が自分の戦果として予想している結果を上回る事を。

 そして、それを達成した時、自分の罪は許されるだろう。きっと、王国に戻ったその後、アシュリーが真実を明るみにしたとしても、ご主人様は自分の事を庇うはずだ。


 アリスのご主人様は陰湿だ。言葉で許したと言っていても、その心は自分の事を許していない。


「あぁ……ご主人様……酷い」


 飛びかかってくる飛蝗を、無造作に蹴り飛ばす。金属製の靴で包まれたつま先が複眼を砕きその体内をえぐり新たな残骸とする。

 既に殺した数も殺された数も覚えていなかった。証拠の隠蔽も既に仕切れていない。

 恐らく情報の伝達がなされているのだろう、ほとんど間断なく襲い掛かってくる機械種はそれほど敵がアリス・ナイトウォーカーに対して脅威を感じている証だ。


 身体に無数の視線を感じた。観察の視線だ。

 こちらを測っている。実力を、疲労を、生命力の残量を、弱点を。


 だが、アリスに言わせてもらえればその視線には冷徹さが足りていない。


 そして、気配が近づいてくる。ここ数日ずっと晒され続けていた義務的な殺意、外敵を排除するシステムが再びアリス・ナイトウォーカーという脅威を排除するべく襲い掛かってくる。

 近づく死の気配に魂が煮えたぎるかのようにエネルギーを発する。アリスがうっとりと呟いた。



「ご主人様……とても酷くて……素敵」


 屈辱も痛みも死すらも、主のためならば受け入れられる。

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嘆きの亡霊は引退したい。

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