第五十四話:ありえないはずだった。
状況の確認。特に問題なし怪我人多数。しかし、死者はゼロ。
あらゆる生き物の中でも宙を自在に動けるものは多くない。悪性霊体種や善性霊体種は皆、種族スキルとして重力の束縛から解き放たれることができるが、そもそも存在する個体の数が少ないのだ。
アムはリンの言う事を全く聞かなかったようだが、その戦果だけは大きかったという事だろう。
これは驚くべき話である。本当に憂慮すべき事態である。
うまくいきすぎている。うまくいきすぎているというのは、全然うまくいかないという事と同じくらいに厄介だ。
勿論、頭おかしいと言われかねないので口には出さないが……この時点で僕はこの依頼に対する評価を変更せざるを得なかった。
これは試練だ。少なくとも、死者が出てもおかしくない、むしろ出なければおかしいくらいの試練。
世界に存在する根底の法則。弱肉強食。ダンジョンで人は淘汰される。
縋り付くように近づいてくるアムを手を突き出して抑える。アムは眉を歪めて涙目で一歩後ろに下がった。
今はこのまだ発展途上のスレイブにかまっている時ではない。側でいたたまれない風に佇んでいるリンを呼びつける。
戦況は一旦リセットされていた。エティの『雷嵐』が天井に張り付いていた蟻たちを一網打尽にしたためだ。
まだ敵の在庫は残っているはずだが、魔法を警戒したのか、新たな戦力がこの部屋に向かってくる気配はない。
リンが小さな声で頭を下げる。
恐らく、スレイブを任されたにも拘らず扱えなかったことが申し訳ないのだろう。
「は……はい。その……すいません」
だが、これは必然である。
アムをリンが扱えない事などとうにわかっていた。分かっていて任せているのだ。言う事を聞かないスレイブを扱うのもまた一つの勉強になるから。
逆にここでアムが言う事を聞いたらそれはそれでアムの成長度が、仕込み具合が判断出来る。
目を伏せるアムの方をちらりと見て、
「アムのこと、任せたよ。アムの種族ランクは高いんだ、余り気をはらなくてもいい」
「し、しかし……」
ナイトメアの種族ランク。能力。相性。その全てを考慮して僕はアムをリンに任せてもまぁ何とかなるだろうと思った。これでダメだったらそれは――僕の見る目がなかったという事だ。
どうやら、僕の言葉に名誉挽回の契機を感じ取ったらしい。アムが気合を入れ直すのが見える。これなら大丈夫だ。次はリンの言う事を聞くだろう……多分。
最後におざなりだがアドバイスをあげる。
「スレイブに対して恐怖してはいけない。スレイブを扱うのを恐怖してはいけない。スレイブと言っても彼らは意思を持つ生き物だ。マスターの思い通りに動かせるわけがない」
僕だって苦労した。アリスを仲間に入れて仕込むのにも苦労したし、アシュリーだって――初めから言う事を聞いていたわけではない。
上ばかり見ているとそれを忘れがちになる。リンの歩く道は僕の歩いた道。僕の方が少しだけ――早く歩いた、ただそれだけの話だ。
リンがこくこく頷くのを見て、笑いかけるとそれ以上何も言わずにランドさん達の方に向かった。
ランドさんの側に立ち、こちらに何とも言えない視線を向けていたエティが小さくため息をついた。
「フィル、遊んでる場合じゃないのですよ」
「簡単だったけど、ちゃんとフォローしないとね。状況の確認は終わった?」
僕の言葉に、ランドさんがこちらを見下ろす。
その目は油断していなかったが、表情でなんとなく現状は読み取れた。
「ああ……概ね、想定通りだ。計画に大きなずれはない」
「ずれはない……か」
「……何か不審な点でも?」
ランドさんが訝しげな表情を向ける。
計画は立てた。何か起こっても対応出来るように人員を配置した。手筈を整えたのはランドさんだ。
僕がやったのは根幹になる奇策を出したのとザブラクを引き込んだ事くらい。
これは驚くべき話である。本当に憂慮すべき事態である。
うまくいきすぎている。うまくいきすぎているというのは、時として非常に大きな問題になりうる。
僕はうまくいっている時程警戒をすることにしていた。調子に乗った時程失敗するものなのだ。
「大きな罠はなし。蟻の数は多少、多いが、戦線は崩れていないし、他のグループでも死者は出ていないようだ。非常事態の笛も使われていない」
セーラが腕に軽い傷を負ったメンバーに回復魔法をかけている。
低位の回復魔法だ。なるほど、あの程度で傷を癒せるくらいに被害がないのか。
ランドさんの隣に立っていた、この部屋での足止めパーティのリーダーの男が続ける。
「先行しているシウィンさんからの連絡も特に来ていません」
「なるほど……連絡が来ていないということは――」
「ああ。特に問題はないという事でしょう」
シウィンさんはプロの斥候だ。斥候のクラスを持っている。そのアクティブスキルとパッシブスキルを利用した状況把握の能力は僕の比ではない。
そして、斥候のチームも決して一人ではない。生息する魔物が、自身の世界に他者を引きずり込む幻想精霊種ならばともかく、機械種の巣窟で危険を知らせることすら出来ずに全滅したというパターンは考えられない。
だが少しだけ嫌な予感がした。脳髄の奥から染み出してくる眠気を、舌を噛んで耐える。是非。是非この奥を見てみたい。
腰の袋から体力回復の飴を取り出し口に放り込む。それをばりばりと噛み砕く。
飴のその味だけは境界線の南も北も殆ど変わらない。
ランドさんとガルドが僕を呆れたように見る。が、僕が何も言わずにいると、エティが声をあげた。
「予定通り先に進みましょう。幸い、ここに来るまで殆ど魔物と出会っていないのです。魔力にも余裕があります」
その声に自信が見え隠れしていた。
その通りだ、懸念点はない。ならば先に進むしかない。
臆病者に探求者は務まらない。それでも多少僕の存在が気にかかっているのか、エティがチラリと僕の方に視線を向ける。僕はただ小さく頷いた。
足止めのパーティを置いて先に進む。状況が何事もなく進んでいても、ランドさん達に油断はない。
懸念点はある。懸念点がないのが懸念点だ。
僕はもっと死力を尽くした抵抗を予想していた。死力を尽くした抵抗がなければいけないはずだった。
望んでいたわけではないが、予想していた。それと今の現状は余りに乖離がすぎる。
女王蟻。アルデバラン。
SSSランク依頼に該当する魔物ならば間違いなく、量産品の機械種ではない。
その記憶装置には創造主に関する情報が入っているはずだ。そしてそれは恐らく、この不可思議な地の始まりにつながる。
最低でも負傷すると思っていた。ランドさんかエティが、この地で最強の探求者達が手間取るような魔物が現れると思っていた。
既に終着点は近い。いくらなんでも、防衛網が薄すぎる。僕が彼らならば――
「フィル。顔色が余り良くないのです」
「気のせいだよ。僕はいつもこんな感じの顔色だ」
僕の言葉にエティが一瞬硬直し、そして目を大きく見開いた。そして、言いづらそうに呟く。
「……フィルが嘘をつくの、初めて見たのです」
「……」
ミスを悟る。どうやら嘘をついてしまったようだ。
優れた洞察力を前にプライマリーヒューマンには虚偽すら許されない。
僕は一度誤魔化すかのように咳をした。言葉を選んで答える。これ以上彼女を混乱させてはいけない。
「僕だって強がりを言う事くらいある。だけど、体調が悪くないのは本当だ。安心していいよ」
「……ごめんなさい。私の中で貴方は――超人のように見えていたので……」
超人。超人ときたか。その単語程僕に似合わない言葉はないと言うのに。
目を伏せるエティは本当に申し訳なさそうだ。これは隙である。
僕はこの探求が終わったら今エティの抱いている感情の隙をついてうまいこといろいろやることを決意した。
フラフラしながら前について歩く。僕の周囲をハイルとエティが守る。時折現れるモデルアントをランドさんが、ガルドが容易く粉砕する。やがて、僕達は目的の場所にたどり着いた。
§
広々とした道。女王の間に続く道。
その脇に先行していた斥候のメンバー、シウィンを含めた五人のメンバーが佇んでいた。
その身体に傷はないが、その目は大きく見開かれ、まるで化物でも見たかのような、地獄でも見たかのような、夢でも見ているかのような表情を作っている。
斥候メンバーの役割は罠の察知、元々女王の間にまでは入る予定ではなかったが、それでもその表情はいくらなんでもおかしい。
それは凶悪な魔物を見た時の表情ではない。ターゲットを目視して力量を測った結果、想定以上に強かったとか、実際に対象を見て今更死の実感が湧いてきたとか、そんな表情ではない。
その目が僕の方に向く。まるで悪魔でも見るかのような視線は僕がグラエル王国で時折受けていた視線に似ている。
だが、何かあったらすぐに笛を吹いていたはずだ。合図を出す必要のない事態だという事か。
ランドさんが足音一つ立てずに五人に走り寄る。
「何かあったのか?」
「……」
シウィンが青ざめた表情でランドさんの耳元に口を寄せ、二言三言囁く。
その時、僕は隣のエティが訝しげなものになっている事に気づいた。
「何かあった?」
「……いえ……女王の間の反応が――これは……」
要領の得ない言葉。嫌な予感が脳裏を過ぎり、背筋がぞくぞくする。
僕の嫌な予感の的中率はかなり高い。
シウィンの言葉にランドさんが一瞬呆気にとられ、すぐに慎重な足取りで女王の間の入り口付近に近づく。
数メートル手前、女王の間が覗けるくらいに手前に来た所でその表情が一変する。今まで常に冷静だったランドさんの忘我の表情にガルドの表情も、セーラの表情も変わる。動揺は瞬く間にパーティに伝播した。
これは不味い。周りに注意しながら女王の間に接近する。僕の後ろをエティとハイルがついてくる。
そして、僕はそれを見た。
ヒカリゴケのない限りなく闇に近い空間。
プライマリーヒューマンは夜目が効かないが、暗視の目薬を差していたお陰で中の様子を窺う事くらいはできる。
そして、それを見た瞬間、理解したその瞬間、僕の思考が一瞬完全に空白になる。
「フィル……ッ!?」
「おいッ! 大丈夫かッ!?」
遠くから。とても遠くから慌てふためくエティの声が、ハイルの声が聞こえる。
だが、それが思考に入ってこない。
アルデバランが死んでいた。映写結晶であれほどの威容を誇っていたアルデバランが死んでいた。
空中に無数に張り巡らされた卵管は健在だ。だが、死んでいた。完膚なきまでに死んでいた。遙か頭上にあったはずのアルデバランの頭がなくなっていた。えぐり取られたのか、削り取られたのか、それとも内部から破裂したのか。
蟻を生み出す機能ももう止まっているだろう。
その下ではモデルアントが死んでいた。一体一体がBランク以上の討伐対象のモデルアントが死んでいた。奈落のように深い穴にモデルアント達の残骸が山と積まれていた。
それらの機体に一見外傷はないがその目に光はなく、動く気配はない。
完全に想定外だった。そんな光景、ありえないはずだった。
足が一瞬砕けかけ、石ころを蹴り飛ばす。落下した石ころが数秒で残骸に当たり、小さな高い音をたてた。
§
そして、気がつくと僕はレイブンシティのギルドにいた。
疲労か精神的なものか、気怠い身体。完全に我を失っていた僕をランドさん達が背負って運んでくれたらしい。
まだ半分夢心地の僕に、ランドさんとエティがその後の経過を教えてくれた。
綿密な確認の結果、アルデバランの死亡を確認した事。女王の間で女王を護衛していたはずの上位の蟻達も確認した限りでは核を破壊され停止していた事。エティの感知スキルでは女王の間に生きている蟻の生命反応は検出されなかったという事。
下級から中位の蟻達はまだ大量に巣を徘徊していたため、全員に命令を出し機蟲の陣容から脱出した事。
重傷者七名。軽傷者五十一名。死亡者ゼロ。
討伐対象、アルデバランの破壊を確認。
紛れもなく、僕の――完全な敗北だった。
多分2016年最後の更新です。
今年もありがとうございました。来年もよろしくお願いします!




