6.お嬢さんの家族
私の両親は、知識のほかにも様々なものを残してくれている。
調合書に薬学書、それに現在暮らしている家。目にはみえないが、薬剤に関する知識や人脈も両親が与えてくれたと言っても過言ではないだろう。
「…だから、両親の意思を少しでも引き継いでいきたいと考えてここに住んでいるんです」
「そうだったのか」
なぜ森に一人暮らしているのかと話すと、クマさんは考え深げにうなずいた。
…だって、おかしいではないか。お金がある貴族や商人だけが生き延びて、その人たちの生活を支えている国民が苦しい生活を強いられなければいけないだなんて。
『そんな状況を変える』だなんて偉大な事は言えないから、せめて目の前にいる人たちの役に立ちたいとずっと考えてきた。そんな考えは、もしかしたら子供のころ両親に連れられて旅をしていた事が影響しているのかもしれない。
貧しい村や、病気に苦しむ人の姿を見ながら私は幼少期を過ごしてきた。
その中では救えなかった命があったし、もう少し早く薬を渡すことが出来たら、助かったかもしれない命がいくつもあった。去年薬を卸しに来た時はみんな笑っていたのに、はやり病で多くの人が亡くなり、村として機能しなくなってしまったという場所もみてきた。
私がそれなりの年齢になると現在の場所に定住して、近くの村などに薬を卸しに行くという形が多くなった。旅をして生計を立てるのは楽ではない。ましてや、極力お金は貰わないようにしていたのだから当たり前と言えば当たり前だ。
…それでは何故、私たちが普通に生活できたのかというと、それは人脈という言葉に結びつく。薬を卸していた人たちの中には、養蜂を生業としている人から、お菓子などの鋳型を作っている職人さん。その他にも、様々な専門職の人がいるのだ。
中にはお金がなくて薬を買えないというような人もいるから、その時に物々交換として名産品や食糧などを貰うのだ。街では輸送費などでお高くなってしまう品物も、直接作っている場所に行くと手が出しやすい値段だったりする。
だから、薬の代わりに貰うという形の他に、正式に品物を買うこともある。村などでは、お金の周りがあまり良くない所がある。その為、大した金額を渡せないとしても喜ばれることが多い。
実を言えば、商人が大分輸送費として持っていってしまうので、村人は街での売値を聞くと驚くこともしばしばだ。体よく商人に利用されないように、アドバイスを与えることも両親は重要視していた。私も、街の様子や友人から聞いた噂話などを元に、微力ながら意見を言わせてもらっている。
「…偉そうなことを言っても、どれくらい役に立っているか分からないんですけどね」
何も、流行っている物を一時的に作り出せばいいという訳ではない。流行りが去るのは直ぐなので、大量に生産して商品が余ってしまう事も考えられる。
よみが外れて、売れると思った品物の売れ行きが悪いなどしょっちゅうだ。
今の所はヘタなアドバイスをせずに済んでいるが、「相手のためを思ってしたことがマイナスに働くこともあるので、注意しなさいと」友人にもよく窘められている。
食事をしている途中でいきなり塞ぎこんだ私を心配したのか、クマさんは食べていた手を止めぽんぽんと頭を撫でてきた。食事に夢中になっているクマさんは、見た目以上に周囲を見ていたらしい。
顔を容易に覆い隠せそうなその手は、私を傷つけることなく離れていく。
特に何を言う事もないその様子が、今はありがたかった。クマさんはベラベラ喋るタイプではないし、こうやって一人いきなり落ち込んだ私の事も、そっと見守ってくれる。
「…有難うございます」
「飯食わないなら、食べてしまうぞ?」
「それは駄目です」
即座に否定した事で、クマさんはほんの少しムッとした表情をしている。
人の物を取ろうとしたことが悪いのだと、まずはそこの所を彼には理解してほしい。
このクマさんといると、たとえ感謝していても素直にそれだけでは終わらない気がするのは、私だけだろうか…?きっと本人にとっては至ってまじめにボケたことをいうから、怒りたくなってしまうのだ。
いつか素直にお礼を言えなくなってしまうのではないかと、変な心配をしてしまう。無理に追及しないでくれた事も、頭を撫でて慰めてくれた事も嬉しかったのに…。何というか、彼は実に惜しい性格をしている気がする。
「まぁいいか。さ、クマさんの御蔭で籠いっぱいに熊苺も集まったし、家に帰ったらジャム作り頑張らないとな~」
「っ!俺が摘んでいたのが、熊苺という名だとは初めて聞いたぞ」
「嗚呼ー、じゃあいい勉強になりましたね」
投げやりにそう言った私に、クマさんはパクパクと口を動かし何か訴えかけようとしていたが、やがて諦めたようにため息を吐いた。
「君は本当に、熊が好きなんだな…」
「いいえ、別に?」
じゃあ何で、クマさんと呼ぶんだ…。そんな風に微かに呟いた彼を、心の中で『ヘタレの熊さん』と命名した。のんびりと会話をしていた刹那、風がさぁーっと二人の間をすり抜けた。穏やかな風が木立を揺らし、その風を身体全体で味わうかのようにクマさんが目を細める。
川の水があおられ、涼しい風がこちらまで届いてくる。陽だまりの中、空腹も満たされた状態である今となっては、クマさんが昼寝を好む気持ちが少しだけ分かってしまう。
こんな穏やかな雰囲気のなか眠ったら、きっと気持ちいいだろう。
「…今更だが、君は俺が恐ろしくはないのか?」
「ほんっとうに、今更ですね!」
のんびりとした時間を楽しんでいた私に、クマさんはいきなり問いかけてきた。
私とは比べ物にならない屈強な体も、鋭いその瞳も恐くないと言ったら嘘になる。ただ…害を受けた事もなければ、脅された事もない。この彼を今になって警戒しろなんて言われても、私には無理そうだ。
「助けてもらって、色々話しにも付き合ってもらって。
そんな後で、聞くことじゃないと思います」
「だが、俺は何処の生まれか…どんな生活を送ってきたのか全く君に話していない。それどころか、名乗ることすらしていないんだぞ」
「それを言ったら、私だって過去のことなんて話していませんよ?」
両親のことや仕事のことについては、多少話したりもした。けれど、今の暮らしや友人については一切話していない。出会ってすぐに治療をさせてもらうために薬師だと明かしたとはいえ、具体的なことを言ってはいないのだ。
「君と俺では、生きてきた環境が違うっ!」
「何当たり前のことを言っているんですか?」
どうしてこのクマさんが森の奥深くに一人で住んでいるのかは知らないが、見た目からいって私たちが異なる事など容易に分かる。彼の意図している事が何なのかは予想できないが、これだけ気にしているという事は、もしかしたら良くないことかもしれない。―――それでも。
「心配しなくても、クマさんと居て危険そうだと判断したらもう会いに来ないようにしますよ。」
「…嗚呼、それだけは守ってくれ」
頼むぞ…。そう、わずかに顔をしかめた彼に、私は何も言葉をかけることが出来なかった。けれど今、何も知らない私が『何かを』言ったとしても、彼の心には届かないだろう。だから、クマさんと森で過ごす穏やかなこの時間を楽しみにしているという事だけ、伝わればいいと願う。
「それまでは、一緒に優雅なティータイムでも満喫しましょう」
「…こんな森の奥で、優雅も何もないと思うのだがな」
ふっと、笑みを向けたクマさんに、私は笑いながら紅茶を渡す。
「いいじゃないですか、気楽で」
確かに切り株に腰かけた私たちは、とても優雅とはいえないかもしれない。
けれど変に気取った机などを用意するより、よっぽど落ち着く。彼が起こしてくれた火に小さな鍋をかけ、沸騰したお湯に持ってきた茶葉を入れる。しばらく蒸して茶葉をこせば、森の奥でティータイムだ。
器用なクマさんは小さな鍋さえ用意すれば、火打石で湯を沸かしてくれる。
マッチという存在がある今、どうして火打石を使っているのか疑問に思ったこともある。だが、こちらの方が使い慣れているからという風に言われてしまえば、何も反論出来ない。火打石の他にも何か道具を使っていたようだが、早々に興味をなくして火おこしはクマさんに任せてしまった。
まったりと紅茶を味わっている私の横では、嬉々としてクマさんが蜂蜜を入れていた。確かに「砂糖の代わりにどうぞと」蜂蜜を用意したのだけれど、入れ過ぎではないだろうか。あれでは、蜂蜜が紅茶に溶けきれないだろうに。
そんな私の考えをよそに、彼は満足そうに眼を細め、美味しそうに紅茶を飲んでいた。
熊苺は、一般で言われる木イチゴに近いものです。