3.恩返し
―――もしかして、私は避けられているのだろうか?
怪我を負っているはずのクマさんは、思いのほか足が速かった。行けども行けども、うしろ姿すら見えて来ない。いっそ、この血痕は違う生き物のもので、途中から間違ってたどって来てしまったのだと言われた方が納得できる。
あれだけの巨体だ。追いかけていけば、容易に見つけられると考えていたのが甘かった。
怪我をしている事などものともせずに、クマさんはどんどん森の奥へ進んでいるらしい。
私自身も森に住んでいるけれど、家の周辺くらいしか把握できていないので、ここまで森の奥深くまで来るのは初めてだった。
ずっと同じような場所を歩いて来たと思ったが、突然木が少なくなり視界が開けた。
そこには川が一つ流れていた。爽やかな風がこちらに届き、私の頬を撫でていく。
川の周りは木がなく開けた状態になっている。古い切り株がある所を見ると、以前にこの川を使用していた人がいたのかもしれない。水は濁っておらず、綺麗であるから納得だ。
川の周りは開けた場所だが、川を避ける様に沢山木が生えているため、押しつぶされそうな程の生命力を感じる。今まで森のなかに暮らしていたのだから、自然には慣れていると思っていた。
けれど、ここに生える植物の力強さは、私がこれまで生活してきた場所とは異なるように感じる。よく川の周囲へ目を向けてみれば、滅多にお目にかかれない薬草が生えていた。
これはパピルスという多年草で、ハーブの一種である。
多年草と言う事で容易くみつかりそうなイメージだが、綺麗な水が豊富にある場所でなければ生えない貴重なものだ。しかも、気温差が激しいと生えなかったりするから、これを直接手に入れたのは初めてだ。
解熱の効果があるこれは風邪のみならず、怪我をしたあとに熱が出たときなどにも使えるため、使用場面は多くある。幾らあっても足りない位だから、少しでも多く摘もうと手を伸ばす。
「…君はこんな所で、何をしているんだ」
「うわぁ!」
ウキウキしながら薬草を摘んでいると、突然後ろから声をかけられ驚いた。
振り返ると、そこには探していた対象であるクマさんがいた。
「クマが喋った…」
「君は……大概失礼だな」
そう言うと、クマさんは私の顔を見て苦笑した。……怒られなくてよかった。
クマさんを探していたのにも関わらず、薬草を見つけた途端に少しだけ存在を忘れかけていた自分が恥ずかしかったのだ。職業病もこういう場合は考えものだ。
さっきの言葉は、照れ隠しにしては失礼なことを言いすぎたと反省する。
助けてくれた礼を言いに来たのに、怯えた次は暴言を吐くとは『何処の世間知らずだ』と言われても反論できない。
何も言い返せず彼を眺めてみると、クマさんは器用にも太い腕と口を使い、止血しようと試みた事がうかがえた。片腕を怪我しているのに、器用なもんだと変に感心した。
傷口はきっと川で洗いながしたであろう。血の香りはせず、赤く汚れていた傷口が綺麗になり濡れていた。対応は悪くはないが、山犬に負わされた怪我の対処としては不十分だ。
ここは比較的綺麗な場所ではあるが、野生の動物たちはどんな菌や病気を持っているか分からない。幸い私は普段から薬を数点持ち歩いているから、咄嗟に治療にはなにが必要か考え始める。
「まずは、先程は助けていただきありがとうございました」
「…いや、別に大丈夫だ」
怪我をした右腕を凝視しているためか、わずかに彼が体をひねって、腕を見えないように隠そうとした。だが、そんな事をしても私も薬師の端くれ。
仮にも人を助ける仕事に携わっているのに、怪我を負ったものを放っておくわけがないだろう。
「腕、見せて下さい」
「嗚呼、こんな程度の傷気にするな」
いつもの事だ。と呟かれた言葉は、どんな生活を普段送っているのだと気になって仕方がない。この森は、私が知らないだけで意外と危険が多いのだろうか?
どう考えても、私の頭の中にはクマさんが森の動物達を簡単に吹っ飛ばしている姿しか浮かばないのだが・・・。
こんな大柄なクマさんが、森の動物達に追い込まれている姿が浮かばない。
むしろ動物たちに怖がられ、クマさんが近づこうとしても遠目で窺われるだけで、一歩でも動こうものなら一斉に逃げていく姿が容易に想像できる。
「私はシュティラという名前で、薬師をしています。助けてくれた方の怪我を見て見ぬふりするような不義理なことをすれば、両親に叱られてしまいます」
それはそれ、これはこれだ。
どんなに怪我に慣れていたとしても、放っておいていい理由にはならない。
大体怪我は、何処でどんな症状が起こるか分かったものではないのだ。少し怪我をしただけで、熱を出すこともある。早めに対処して悪い事はないだろう。
「お願いします。私に手当させて下さい」
そう言って頭を下げた私の耳に、クマさんのため息を吐く音が聞こえてきた。
やっぱり、こんな小娘が薬師だと言っても信用してもらえないのだろうか?
両親が生きていた頃に、ありとあらゆる知識を実地で教えて貰っていたので、これでも腕には少し自信がある。けれど『こんな小娘の腕など信じられるか』というのが普通の反応なのだ。
私が薬師の弟子を名乗って街に薬を卸しているのは、それが原因でもある。始めは村などに行っても、『こんな小娘が薬を作っているなどと不安で仕方がない』と言った様子なのに、弟子だと言うと安心してくれたりする。
……ほんの少し、クマさんならば身を任せてくれるのではないかと期待したのだけど。どうしてか、お礼の言葉すらも求めずに助けてくれた彼なら、偏見の眼差しを向けないのではないかと考えてしまったのだ。
まぁ、出逢って間もない私を信じろという方が無理な話だろう。
此処は、無理やりクマさんを抑え込んで手当てするしかないか…。そんな危険な思考がバレたのか、クマさんはその大きな手で私の頭を数度撫で、しぶしぶ私に腕を差し出してくれた。
「……君は何処か怪我をしなかったか?」
「えぇ、貴方のおかげで助かりました」
不思議なもので、あれだけ怯えてしまった大柄なクマさんが、今は少し可愛く見えた。
私の治療がしやすいように、大きな体を丸めてくれる気遣いをみると、それほど恐い存在ではない事が分かる。先ほどひどく動揺してしまったのは、この森で目の前のクマさんのような存在に出会う事は、まずないと甘く見ていたからだ。
一見すると、『御尋ね者になっている』と言われても納得できてしまいそうなこのクマさんは、意外と穏やかな気性らしいので安心して治療をする。
お菓子などを入れていた籠から薬を出し、ハンカチで溢れだした血を拭う。流石に包帯までは持ち歩いていなかったので、肩にかけていたスカーフを破いて傷口に処置を施した。
スカーフを破ろうとした時に、わずかにクマさんが制止の声を上げたが無視して破く。怪我人を前に、優先すべき事を間違ってはいけない。そして、正しい事をするのに迷いは不要だ。
―――たとえ数ヶ月前から欲しくて欲しくて、ようやく手に入れた新品のスカーフだとしてもだ。
「…すまない」
「いえ、気にしないでください」
微かに躊躇したのを見破られたのか、わざわざ頼んで治療させてもらっているのに謝られた。さほど深い傷ではなく、出血量が少ない事も幸いして治療は難しくなかった。
しかし右手と言う事もあり、生活するのに不便を感じるだろう事が申し訳ない。
「これで大丈夫だと思いますが、しばらくは無理に動かさないでくださいね?」
「…分かっている。有難う、助かった」
そう言ったクマさんは、怪我をしている事など感じさせない動きで、今度こそ森の
なかへと消えて行った。
くまさんが怪我をしていたのは、右です。間違った箇所がありましたので直しました。