前編<1>
――安倍晴明再誕か?驚異の霊能力を持つ少女!――
その雑誌の見出しに、青年は目を止めた。持っていたつり革をはなして、棚に手を伸ばす。
某出版社の某誌である。軽薄な文面と、およそ誠意とか謙虚とかいったものから遠くかけ離れたシロモノで、当然、たびたび訴訟問題なども起こしながら、反省の色もなく次から次へと害毒を垂れ流している。
にもまして、買う人間がいるから始末におえない。
「……」
雑誌の表紙に書かれてある見出しと、件の少女と思われる写真を見ただけで頁をめくることもなく、棚へと放り返してしまった。こんなものは捨てるに限るが、ゴミ箱まで手に持っているのさえ汚らわしいように思えた。
そう思ったのも一瞬。
彼の思いは別にあった。
(…ふん。安倍晴明再誕ね…。今世にもあいつがいれば、楽しかろうに……)
青年の秀麗な面が物憂げに車窓に向けられた。電車はもう池袋に着く。
土曜も日曜もなく、家の周りをうろつく記者たちに、家のものはほとほとうんざりしていた。学校でもそうだ。登校から下校するときまで、モグラのように出没しては、彼女に霊力を見せてくれと言う。まるで、道端を歩いている手品師に手品を見せろと言うように。
その煩わしさに耐えかね、しばらく学校を休んだほどだった。
今日は珍しく家の周りをうろつくものはいないようだ。
薄いピンクが基調の部屋は、レースとフリルをふんだんに使い女の子の部屋らしく、可愛らしいもので飾られている。
少女がベッドに寝転んで本を読んでいると、コンコンとドアがノックされた。
「はい」
ドアに掛けられた小さな花のリースが揺れ、母親の顔が覗いた。
「たまきさん、ちょっとお買い物行ってくるわね」
「いってらっしゃい。私もちょっと外出するかも……」
「大丈夫?まだ、ヘンなのがうろついてるようだけど……。ご近所さんも迷惑してるからって、警察に言ってくれたから前よりはひどくはないけれど」
母親の心配そうな顔に、彼女はにっこりと笑って手の平サイズのスプレー缶を振って見せた。
「大丈夫よ、お母さん。もし来たらスプレーかけてやるから」
この少女、藤原たまきは、桜庭学園高校に通っており、四月には三年生になる。
いわゆるお嬢様学校として名が通っている女子高で、ベンツやロールスのお迎えは当然、(朝は遠方の生徒のみ許されている)立ち居振舞いのお上品さは都内屈指という噂である。
そのお嬢様学校の「ミス桜庭学園」の名を冠する少女であった。
桜が街を彩りはじめた日曜日。
たまきは、池袋で電車を降りた。
別によく来るというわけでもないが、今日はなんとなく、降りてしまっただけのことだ。
(ごちゃごちゃしていて好きじゃないわ…)
小さく呟く。
その駅の地下道を西武百貨店方向に向かって歩きはじめた。
通りすぎる人々が、はっとして振り返る。
人形のような可愛らしい相貌を栗色の髪が縁取り、やわらかくウェーブをつくって、歩くたびにふわふわと肩先で揺れる。
白いワンピースがいっそう西洋人形のように見せていた。
もともと母親譲りの美貌はご近所の評判だったが、ある時期から……つまり、彼女の霊力が発現してからさらに際立つようになったのであるが、彼女いわく、
「見えなかったものが見えるようになったのだから、心身が多少変わるのは当たり前」
だそうだ。
西武百貨店のロフトへ行こうとオレンジロードに入ったときだった。
突然、たまきの脳裏にスパークが起こった。激しく点滅する光は目で見ているのか、脳で覚知しているのかわからなくなる。
そして、まるで、空間から突如現れたように視界に飛び込んできた一人の青年。
たまきの唇からほとばしった、ある言霊。
「セ、セイメイ……!」
青年がこちらを向いた。
彼は驚いたように目を見張る。
二人は理解した。――そうとしか言いようがなかった。
亜空間が全身を包み込む。時間がジェットコースターのような速さで遡りはじめた。
己が輪廻か、別のものか判断がつかぬうちに、いくつかの死、生、誕が逆向きに流れた。
そして―――
あの時代。
闇と光が交錯する、鬼が生まれた時代。
陰陽師・安倍晴明と自分、自分と源博雅がいたあの時代。
千年の時が、しばし彼らの脳裏を白一色に染め上げた。
少女と青年はお互いを凝視していた。
道行く人々は何事かと振り返ってゆくが、当の本人たちはそれどころではない。
端正な面立ちの青年は、確認するような声音で呟いた。
「博雅……?」
問われて少女が頷く。
「そうだ。晴明だな、お前……?」
更に数秒の確認。
「はっはあ! いたのか、お前! この時代に!」
「おうよ! 久しぶりだな、晴明!」
歓声をあげ、がしっと抱き合った二人は、ばしばし叩き合って、互いをぎゅうぎゅう締め上げた。
「こっ…こらっ晴明! 手加減しろ! つぶれるっっ!」
博雅――たまき――は、じたばたと手足をばたつかせて、青年の手をもぎはなした。
不思議そうな顔をして、青年は改めて相手を見た。
頭一つ分小さいほっそりした美少女が口を尖らせて、青年を軽く睨んでいる。
「……。なんかヘンだと思ったら、お前、女に生まれてたのか……」
「………」
今更のような言葉にむっつりと口をつぐんだ。その沈黙が博雅にとっては不本意であるということを示している。
それは言っても詮無いことだが。
青年は、くつくつ笑って追い討ちをかけるように言った。
「博雅、前の生で女遊びが過ぎたんじゃないのか?」
勿論、冗談だったが、たまきの唇はますますとんがった。
―――この時すでに、「ミス桜庭学園」は跡形もなく消え去ってしまっていた。
目白。この土地も高級住宅地である。
その一角に青年の住むマンションがあった。
「ほほう。すごいマンションだな、晴明。おぬしが借りてるのか?」
広いダイニングルームに通されたたまきは感嘆して、キョロキョロと部屋を見回す。
ベッドになりそうなソファがでんと置かれ、ガラステーブルを挟んで大きなプラズマテレビ。
ダイニングのほかに、三つほど部屋がある。
おそらく、他の部屋に入れば巨大コンパスだの、わけのわからない模型だの、本だのがぎっしりとつまっているはずだ。そうに違いない。
そんなたまきの内心をよそに、青年は軽く笑った。
「まさか。俺の両親の持ち物だ。これでも大学四年だぞ」
「ふうん」
大きなソファにちょこんと座った姿がなんとも記憶とそぐわなくて、彼は思わず吹き出した。
「なんだ?」
「いや。すまん、まだ名乗ってなかったな。安倍太一だ」
「あ、俺は藤原たまきだ。……けど、べつに晴明でもよかろう?」
「かまわんよ。そのほうがしっくりくる」
しばらく、二人は思い出話に興じた。
「あ、そうだ。博雅、さっき買った雑誌……あれはお前か?」
「んん?」
太一がページをめくって、ある記事を指し示した。
先刻、青年が電車の中で見たものではなかったが、似たようなゴシップ雑誌だ。
途端、たまきは嫌そうな顔になった。
「これか。これのおかげで俺は家でのんびりもしてられなくなった」
「ほう」
「発端となったのがな、いつだったか親の知り合いの知り合いに頼まれて祓いをやったことがあるのだ。まあ、霊感は多少あったんだが、祓いなどの専門の知識はないからできんと最初は断ったんだ。けど、どうしても、といわれてな……」
その家は2年ほど前に立て直したばかりという。広い庭を半分ほど使って増築した。
その一角に祠があり、長い間放置されていて何が祭ってあるのかわからない。
大工は取り壊すのを嫌がったが、家の主人がかまわないというのでそのまま壊して家を建てた。
工事も支障なく終わって、しばらくは何事もなく過ごしていた。
それから1年ほどたったころ、ちょうど、祠のあったあたりから夜中になると床下からコンコンという音がする。何かが入りこんだのだろうと放っておいたが、日に日に音は大きくなり、しまいには ドカンドカンと岩でもぶつけられるような振動と騒音で、気味悪く思った家の主人は祓いをすることにした。
そこまで話すと、青年は首を傾げた。
「解せんなあ……。その時点でなんで、お前のところにそのハナシがくるわけだ?」
「……。言うのもなんだが、霊感云々というより俺の顔に用があったらしいぞ」
太一は瞠目して――というより、あっけにとられ、
「叩っ切ってやったのか?」
その言葉に、たまきは鈴のような笑い声をあげた。
博雅であれば、咆えるように、という形容がふさわしかったろう。
「博雅である今だったらな。まあ、そんなことはどうでもよくて。床下からな、人の顔をした蝦蟇が出てきたよ。調べたら土地神を祭っていたことが判った」
「ふむ…」
「それがきっかけで、なんか、あちこち引っ張り出されるようになってな。……口コミであのザマだ」
少女は肩をすくめて、晴明はここにいるのに、と呟いた。
「ふふ……。なるほどね。博雅。今世では俺は晴明の記憶を持って生まれてきたが、霊力までは持ってはいないのだ」
「……本当か…っ?」
「ああ」
仰天して目の前の青年を見つめる。この男に霊力がないなんて信じられなかった。
青年は、あのときのまま、やわらかに微笑んで自分の前に座っている。
「そんな顔をするな。別に不自由はしてはいない」
「しかし……」
「まあ、いいではないか。これもまた面白い。……で? まだ何かあるんだろう?」
「う、うん。鬼をな、よく見かける」
「鬼………?」
「表現が違うのかもしれん。しかし、俺には鬼としか言いようがない」
興味深そうに、太一の目が細められた。
なにしろ、安倍晴明という男は、この手のプロフェッショナルとして、平安時代に活躍した人物だ。こんなハナシを聞いて黙ってはいられない。嬉々としてたまきの話を聞いている。
「……。晴明、なんか嬉しそうだな…?」
不思議そうにたずねる親友に、”そうか?” と返す。
まあいいか、と呟いて、少女は先を進めた。
「でな、上野なんだがな、桜の力がだいぶ弱ってるようにも思えてなあ……。だいたい、鬼を見るのがあのへんなのだ。どういうことだと思う?」
太一はにっこりと笑った。
「博雅、鬼門だよ。たぶんな……」
黒い空間に、青白くぼんやりしたものがふわふわと揺れ、やがて、それは人の形に伸びて顔がぼうっと現れた。
老人だった。
「ほうほう、和音が聞こゆるのう。まことに妙なる和音じゃ。つかず、はなれず、してからに、また、なんたる強き光か……。なるほど、なるほど。わしもまだ、神仏に見放されておるわけではなかったようじゃ。やれやれ、助かったわい」
老人の声が空間にこだます。
闇の奥深くからうなるような声が響いてきた。
「ほ……貴様らごとき怨霊どもにつかまるわしではないわ」
シュルシュルと伸びてきた黒い触手をひょいとかわし、老人は笑う。
「大陰陽師の再誕じゃもの……ほほほ……楽しみじゃのう」
老人の姿はもうそこにはなかった。