偽りの聖女と、悪役令嬢の最後の微笑み
王城の大広間は、祝宴ではなく断罪の熱気に包まれていた。
「リシェル・フォン・アルヴェイン! お前との婚約を、ここに破棄する!」
王太子アレクシスの怒声が響く。
貴族達がざわめき、民衆は歓声を上げた。
その中央で、銀髪の令嬢――リシェルは静かに目を伏せていた。
「お前は聖女エレナに嫉妬し、数々の嫌がらせを行った。さらには彼女の祈りの儀式を妨害し、国を危険に晒した!」
「……」
「何か言い訳はあるか!」
叫ぶ王太子の隣で、白い法衣に包まれた聖女エレナが悲しげに首を振る。
「アレクシス様……もう、よろしいのです。きっとリシェル様も苦しかったのですから……」
その姿に、会場から感嘆の声が漏れた。
「なんとお優しい……」
「やはり真の聖女だ……」
一方でリシェルへ向けられるのは、軽蔑の視線ばかり。
悪役令嬢。
傲慢な女。
聖女を虐げた最低の女。
誰もがそう信じていた。
けれど。
「……言い訳、ですか」
リシェルはゆっくり顔を上げた。
その瞳は、不思議なほど穏やかだった。
「ございませんわ」
「なっ……!」
あまりにもあっさり認めたことで、逆にアレクシスが言葉を詰まらせる。
「……では認めるのだな!」
「ええ」
会場がどよめく。
だがリシェルは続けた。
「ですが、一つだけ訂正を」
静かな声だった。
なのに、なぜか全員が息を呑む。
「私は、一度たりともエレナ様を憎んだことはございません」
「白々しい!」
怒鳴ったのは側近の侯爵子息だった。
「貴様は聖女様の祈りの場を荒らしただろう!」
「ええ。止めました」
「ほら見ろ!」
「――死んでしまわれますもの」
空気が凍った。
「……え?」
エレナの肩がびくりと震える。
リシェルは彼女を見つめた。
「奇跡を起こすたびに、命を削られていたのでしょう?」
「っ……!」
エレナの顔色が変わる。
アレクシスが困惑したように彼女を見る。
「エレナ……? どういうことだ?」
「ち、違います……!」
だがその声は、明らかに震えていた。
リシェルは静かに目を細める。
「最初に倒れたのは、一年前の大干ばつ。二度目は疫病。そして三度目は北方の魔獣災害……違いますか?」
「やめて……!」
「聖女の奇跡は万能ではない。生命力を燃やして発動する禁術。だから私は止めていたのです」
ざわり、と会場が揺れた。
貴族達の視線が、一斉にエレナへ向く。
「う、嘘です……!」
「聖女様……?」
エレナは唇を震わせた。
「だって……だって皆が望むから……!」
ぽろり、と涙が落ちる。
「聖女なら救えるって……! 私が祈れば皆が笑顔になるって……!」
王国は彼女を神格化した。
誰も彼女自身を見なかった。
“聖女”という偶像だけを求めた。
「だから私は……!」
「だから、あなたを悪者にした」
リシェルが静かに言う。
「……!」
「私があなたを妨害しているように見せれば、あなたは祈らなくて済む日ができると思ったのです」
誰も言葉を発せなかった。
アレクシスだけが、呆然と立ち尽くしている。
「……そんな……」
彼は思い返していた。
いつもリシェルは、エレナの儀式の日にだけ現れていた。
冷たい言葉を吐き。
無理やり退出させ。
時には怒鳴ってでも止めていた。
最低な女だと思っていた。
だが。
あれは。
全部。
「……守って、いたのか……?」
「今さらですわ」
リシェルは小さく笑った。
その笑みに、アレクシスの胸が強く痛む。
昔、彼女はよく笑っていた。
花畑で。
紅茶を飲みながら。
くだらない話をして。
だがいつからだろう。
自分は“聖女”ばかりを見るようになった。
「リシェル……私は……」
「ですが、もう終わりです」
彼女は遮った。
「……え?」
「わたくしも、疲れてしまいました」
その言葉は、妙に静かだった。
そして。
ふらり、と。
リシェルの身体が揺れた。
「リシェル!?」
アレクシスが駆け寄る。
白い手袋に、赤い雫が落ちた。
「血……!?」
リシェルの口元から、鮮血が流れていた。
会場が悲鳴に包まれる。
「な、なぜ……!」
「……代償、ですわ」
彼女は苦しそうに微笑む。
「本来、聖女一人では足りませんでしたから」
「……何を言っている」
「奇跡の負荷を、わたくしが肩代わりしておりましたの」
その瞬間。
エレナが崩れ落ちた。
「ごめんなさい……!」
泣き叫ぶ。
「私一人じゃ耐えられなかった……! リシェル様が魔力を分けてくださってたの……!」
静寂。
絶望のような沈黙。
アレクシスの顔から血の気が引いていく。
「……そんな……」
自分は。
命を削って国を守っていた婚約者を。
断罪したのか。
「医者を呼べ!! 今すぐ!!」
叫ぶ。
だがリシェルは、ゆっくり首を横に振った。
「もう……遅いのです」
「黙れ! 死ぬな!!」
初めてだった。
王太子ではなく、一人の男として取り乱した。
リシェルは少しだけ目を見開き――そして、ふっと微笑む。
とても。
とても穏やかに。
「……その顔を、最後に見られて……よかった」
「やめろ……」
「アレクシス様」
昔のような呼び方だった。
「あなたは、優しい方です」
「違う……!」
「だから、どうか……」
彼女の身体から、力が抜けていく。
「今度こそ、大切なものを……見失わないで――」
その手が、落ちた。
王城に。
誰かの嗚咽だけが響いていた。
リシェル・フォン・アルヴェインの死から、一年が経った。
王都の冬は静かだった。
かつて“聖女”を称える歓声で満ちていた広場も、今ではどこか重たい空気に包まれている。
王太子アレクシスは、執務室の窓から雪を眺めていた。
「……また、ここか」
側近が困ったように息を吐く。
机の上には、山のような書類。
だがアレクシスは、それらに一切目を通していなかった。
視線の先にあるのは、一輪の白い花。
リシェルが好きだった花だった。
「殿下。そろそろ公務へ」
「……ああ」
返事はした。
だが立ち上がれない。
あの日以来。
彼はずっと、“最後の笑顔”に囚われていた。
『その顔を、最後に見られてよかった』
なぜ。
どうして。
彼女は最後まで、自分を責めなかったのか。
むしろ救うように笑った。
その優しさが、何より苦しかった。
「……私は、愚かだった」
ぽつりと呟く。
側近は何も答えない。
もう誰も、否定できなかった。
リシェルの死後、真実は次々と明らかになった。
干ばつを止めた奇跡。
疫病を抑えた結界。
北方の魔獣災害。
そのすべてに、リシェルの魔力供給記録が残されていた。
しかも匿名で。
彼女は功績を一切語らなかった。
ただ国を守り。
聖女を守り。
そして“悪役令嬢”として死んだ。
民衆は手のひらを返した。
『本当の聖女だった』
『なぜ処刑した』
『王家は彼女を殺した』
王城には毎日のように抗議文が届いた。
そして。
最も壊れたのは、エレナだった。
「……お食事を、また残されたそうです」
側近が小さく言う。
「そうか」
聖女エレナは、今や祈りを行えなくなっていた。
いや。
正確には、祈れない。
奇跡を起こそうとするたび、思い出すのだ。
自分の代わりに命を削っていた少女を。
『私は、一度たりともエレナ様を憎んだことはございません』
その言葉を。
エレナは毎晩、泣きながら思い出していた。
「……殿下」
「なんだ」
「本日は、命日です」
アレクシスの指先が止まる。
「墓前へ向かわれますか」
「……当然だ」
彼は立ち上がった。
白い外套を羽織り、雪の降る外へ出る。
城外れの丘。
そこには、小さな墓があった。
豪華な霊廟ではない。
リシェル自身が生前望んでいた、“静かな場所”。
墓石の前には、すでに花が置かれていた。
民衆だろう。
今でも毎日のように誰かが訪れる。
アレクシスは膝をついた。
「……リシェル」
返事はない。
当たり前だ。
もう、彼女はいない。
「私は結局……最後まで、お前に何も返せなかった」
雪が肩に積もる。
「お前は私を守っていたのに……私は、お前を信じなかった」
声が震える。
「……会いたい」
情けない言葉だった。
王太子としてではない。
一人の男としての後悔。
「もう一度だけでいい。謝りたい……」
その時だった。
「でしたら、生きているうちに謝るべきでしたね」
静かな声がした。
アレクシスの目が見開かれる。
振り返る。
そこに立っていたのは――
銀髪の女性だった。
「……え……?」
息が止まる。
白いマフラー。
見慣れた青い瞳。
静かな微笑み。
「リ……シェル……?」
「お久しぶりです、アレクシス様」
彼は立ち上がろうとして、雪に足を取られた。
「な、ぜ……」
「生きていますわ」
あまりにも普通に言う。
「処刑されたはずじゃ……」
「されておりません」
「だ、だが!」
「あの後、辺境へ運ばれましたの。医師達が必死に治療してくださいました」
アレクシスは言葉を失った。
「……夢、ではないのか」
「夢ではありません」
リシェルは少し困ったように笑う。
その笑顔は、一年前より柔らかかった。
「本当は、このまま姿を見せないつもりでした」
「……なら、なぜ」
「エレナ様に頼まれたのです」
「エレナが?」
「『あの人は、一生自分を許さないから』と」
アレクシスは顔を歪めた。
「許されるはずがない……!」
「そうでしょうか」
「私はお前を……!」
「ですが」
リシェルは静かに遮る。
「私は、あなたを恨んでおりません」
まただ。
また彼女は。
責めない。
「どうしてだ……!」
アレクシスの声が震える。
「どうして、お前はそんな顔で笑えるんだ!」
リシェルは少しだけ空を見上げた。
白い雪が舞う。
「……疲れていたのです」
「……」
「誰かに必要とされ続けることも。期待され続けることも」
彼女は小さく息を吐く。
「だから今は、少し自由になれて……案外、悪くありませんの」
その表情は穏やかだった。
王都にいた頃より。
ずっと。
「……戻ってきては、くれないのか」
絞り出すような声。
リシェルは少しだけ目を伏せた。
「申し訳ありません」
優しい断りだった。
「私はもう、“悪役令嬢”でも、“公爵令嬢”でもなく、一人の人間として生きてみたいのです」
アレクシスは何も言えなかった。
引き止める資格がない。
それくらい、わかっていた。
「……そうか」
「はい」
沈黙。
雪だけが静かに降っている。
やがてリシェルは、一歩下がった。
「では、そろそろ」
「……待ってくれ」
彼女が振り返る。
アレクシスは深く頭を下げた。
王太子が。
未来の王が。
雪の中で、ただ一人の女性へ。
「……すまなかった」
長い沈黙の後。
リシェルは小さく笑った。
「はい」
それだけだった。
許すとも。
許さないとも言わない。
けれど。
その微笑みは。
一年前の“最後の微笑み”より、少しだけ温かかった。




