50:蹂躙……暴力的に踏みにじること
数日が経った。
アドネは、変わっていた。変わった、という言葉では足りないかもしれない。あの城が別の何かになっていた。港から見上げると、城はまだそこにある。石造りの塔と城壁と、青空に突き刺さる尖塔。外観は何も変わっていない。変わっていないはずだった。
だが、近づいた者は全員が引き返した。一人の冒険者が語った。
「百メートル手前から、空気が違う。足が止まるんだよ……」と。
別の勇敢な男は城門まで辿り着いたと言った。「扉を開けた時から、おかしかった。廊下があるべき方向に続いていないんだ。右へ曲がったはずが、気づくと同じ場所に戻っている」
城の中で何が起きているのか、誰も知らなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。夜になると、城の窓から紫色の光が漏れていた。脈打つように、呼吸するように、一定のリズムで明滅している。その光を見た者は決まって眠れなくなると言った。
城の奥深く——あるいは、城のどこかで。
ゼルは外套を脱いで椅子に腰掛けていた。カルロスが書類にサインをしている。震える手で何度も何度も。アドネの税収記録。商人ギルドの構成員名簿。港の船舶管理台帳。倉庫の物資一覧。水路の管理図。
ゼルはそれを黙って眺めていた。この街がどう動いているか。血管はどこか。心臓はどこか。どこを押さえれば、街全体が俺の掌の上に乗るか。
着々と把握しつつあった。
「終わったか」
「は、はい……これで全部です」
「ご苦労だった」
カルロスは涙目で頷いた。
「一つ聞いていいか」
「な、なんでしょう」
「この街の人間たちは、今どこにいる」
カルロスは口をパクパクさせた。
「ほ、ほとんどは、逃げました。でも港が塞がれてから戻ってきた者もいて、街に残っているのが……」
「悪くない」
ゼルは立ち上がった。
「人が残っているなら、街は死なない。街が死なないなら、俺の計画には好都合」
窓から外を見た。アドネの石造りの街並みが広がっている。水路に朝の光が反射して白く輝いていた。
どこかで、子どもの声がした。
そしてアドネの海から遠く離れた港で、勇者たちが船を出そうとしたのは夜明け前だった。五隻の軍船と、百名の精鋭部隊。総勢500名と、圧倒的魔力の奔流を纏う五人の人影が並んでいた。
先頭はガルドだった。焦茶色の髪を風になびかせ、両手に大剣を持っている。港の先に見えるアドネの城を見据えている。
「……静かだな」
「そうですね」
ライラが隣に立った。白銀の短髪が、潮風に揺れる。
「予想以上に静かです」
「逃げたんだろ、住民は。当然だ。魔王が居座ってんだから」
「……城を見てください、ガルド」
ガルドは視線を上げた。
城の上空に何かが出来ていた。光でも闇でもない。空間そのものが歪んでいた。城を中心に半径数百メートルの空気が、じわりと揺らいでいる。蜃気楼のようで、蜃気楼ではない。ただそこだけ世界の縫い目がほつれているような、おかしな見え方をしていた。
「……空間魔法の系統か? もしや他にも仲間が」
「規模が、異常ですね。その可能性がありそうです」
ライラの声が、わずかに硬くなっている。
「城全体を囲んでいる……。それほどの魔法使いがいるというわけですね」
「もう、分析はいい」
ガルドが船首から飛び降りた。桟橋に着地し、大剣を鳴らす。
「魔王に仲間がいようが、ぶっ殺すだけだ。行くぞ」
五人が桟橋を歩く。鎧の音が響き渡った。
ジェドルドが前髪をかき上げながら言った。
「一つだけ確認しておくが俺がトドメを刺す。それは合意しておきたい」
「手柄争いは後にしろ」
「争いではない。実力の話だ」
「うるせぇ」
「ねえ二人とも」
ボンスが後ろから小走りで追いついた。サングラスをズレたまま、羊皮紙を胸に抱えている。
「ちょっと待ってよ二人とも! 歩幅がデカすぎるんだって! 足長おじさんかよ! 俺のトラップはね、超・精密なの! 繊細なの! 展開する時間をちゃんと作ってくれないと困るんだわ。だから……ねぇ、聞いてる? 大切なこと言ってるよ」
「来い」
ガルドが大通りへ踏み込んだ。アドネの街は確かに静かだった。だが完全に無人ではなかった。路地の陰から、こちらを覗く目があった。物陰に隠れた住民たちが、息を殺して勇者たちの行進を見ている。
恐怖ではなく、希望の目だった。
助けに来てくれた、と思っているのだろう。
ガルドはそれに気づいて、口元をわずかに動かした。
これだから仕事は、やめられねぇ!
城へ向かって、足を速める。城門の前まで来た時、全員が足を止めた。
ボンスが「あー、これは……まずい」と呟いた。珍しく軽口がなかった。
城門は開いていた。問題は、その先だった。廊下があった。だが廊下の奥に見えるはずの壁がない。代わりに空間そのものが折り畳まれているような、あり得ない視界が広がっていた。
「これは、なんですか」
左の壁が気づくと右にある。天井が足元からも見える。遠くに続くはずの廊下が、十歩も歩かないうちに最初の場所に戻ってくる予感がした。
「この魔法は……」
ライラが眉をひそめると
「どちらにせよ、ぶち壊す」
とガルドが大剣を構えた。
「城ごと叩き壊せば——」
「来たか」
声がした。頭上から。
全員が上を見た。
ゼルは、空中にいた。城の頂上より高い。街全体を見下ろす高度。
黒い鎧。紫黒の外套が、風もないのに揺れている。この光の中で、外套の紫色がじわりと輝き始めた。
抑えない。1500年分の全てを、今この瞬間だけ解き放っている。
「……っ」
ガルドの口から、短い息が漏れた。足が止まった。止めようとして止めたのではない。止まった。全身の筋肉がそれ以上前へ進むことを拒否した。
ライラの顔から、血の気が引いた。
「これは——」
声が出なかった。
「な、なんだこれ」
ボンスの声だけが、妙に素直だった。
「え、ちょ、なにあれ……。は? いやいやいや、おかしいでしょ! 何そのオーラ」
「黙れ」
ジェドルドが静かに言った。彼は唯一、足が止まっていなかった。一歩、前に出る。上空のゼルを、真っ直ぐに見上げる。
「……確かに、でかい魔力だ。これが魔王」
認めた上で、続ける。
「だが、魔力が大きければ勝てるわけじゃない。俺たちには策がある。動けなければただの的だ」
ゼルは何も言わなかった。ただ見下ろしていた。
五人、その後ろに精鋭部隊。アドネは完全に方位されたか。そして何より大きな問題は……あの女。
勇者パーティの一番端にいる、一言も喋らない無口の女。魔力制限をしているな。魔力量ならあの女のほうが勝るかもしれん。
「ボンス」
ジェドルドが呼んだ。
「展開しろ。今すぐ」
「わ、わかった。やる。やるよ」
ボンスが羊皮紙を広げ、魔法陣を展開し始めた。指が震えている。それでも手は動いていた。
「皆、散れ。囲め。奴が動けなくなった瞬間に——」
ガルドが走り出した。地面を蹴り、大剣を構え、真下から一直線に跳躍する。
「終わらせるッ!」
一瞬だった。ゼルの右手がわずかに動いた。
世界が裂けて、音は後から来た。
まず、見えた。
空間がズバリと斬れる瞬間を。
一本ではない。無数に。上から下へ左から右へ、斜めに縦に横に、あらゆる方向へ向かって、不可視の刃が同時に走った。
『アドヴァント・カスケート』
予備動作も何も、魔力を溜める時間も無かった。ただ空間そのものがズタズタに引き裂かれた。大通りの石畳が爆ぜ、路面が内側から弾け飛ぶ。そして砕けた石が嵐のように舞い上がった。建物の壁がまるで紙を破るように縦に断ち切られる。
ガルドの動きが止まった。大剣が一本、簡単に両断されていた。刃が柄から分離して落ちていく。鍛え上げられた最高品質の金属が、一瞬で壊れた。
「な——」
ガルドの身体に斬撃が走った。鎧が容赦なく断ち切られる。ワープする空間の中に存在するものは例外なく、一緒に裂ける。
ガルドの身体が地面に叩きつけられた。赤い霧が一瞬だけ舞い上がった。ライラが後方へ跳ぶ。
「光魔法! スター・フルエレン!」
斬撃を光で防ぐため、光魔法を腕に纏い空中で回転した。そして距離を取ろうとした。
だが斬撃は彼の進路の先にも走っていた。右腕の鎧が弾け飛ぶ。幸い肉を抉るだけで致命傷にはいたらなかったが、ライラの右腕はもう使い物ならなかった。
地面に転がり、転がりながらも剣を構えようとして——
「剣が……ない!」
持っていたはずの剣は一刀両断にされていた。
「——ッ、ボンス! 今すぐ——」
「無理!」
ボンスの声は、街の反対側から聞こえた。彼だけが動いていた。走っていた路地へ、建物の陰へ、とにかく城から離れる方向へ。
「無理無理無理無理!! 絶対無理だってあんなの! 逃げろ逃げろー!」
斬撃で粉々になった羊皮紙を持って、走りながら叫ぶ声が遠ざかっていく。ジェドルドはかろうじて立っていた。
右足に深い傷。それでも剣を手放していなかった。そして上空のゼルを見上げる。
「……なるほど。予備動作なし、防御貫通、しかも空間そのものを斬る」
恐怖を分析に変換することで、辛うじて意識を保っていた。
なら、装備も意味を成さないか。
ジェドルドは鎧を脱ぎ捨てた。
「一つだけ聞いていいか? お前の目的は何だ。俺たちを殺すだけなら、最初の一撃で全員殺せたはずだ。なぜ——」
「生きて帰れ」
静かで低く、アドネ全体に響くような声をしていた。
「持って帰れ。お前たちが見たものを、感じたものを」
ジェドルドの眉が、微かに動いた。
「……それが目的か」
「次に来る時は」
ゼルの赤い瞳が、ジェドルドを見下ろした。
「連れを増やしてくるな。増やすなら——今度は全員、帰さない」
それだけだった。ゼルは背を向けた。外套の裾が風もないのに揺れた。ジェドルドはしばらく動かなかった。
大通りには、倒れているガルドがいた。息はある。だが立てない。ライラが片腕を抑えながら壁に背を預けていた。
ガルドは戦闘不能、ライラも同じだ。ボンスは逃げて、残るは俺と……ネネだけか。
無口のネネと呼ばれるまで静かな女。だがそのピンクの瞳は誰よりも冷静だった。瓦礫が静かに崩れ続ける音がした。
建物の断面から赤いものが地面に滴り落ちていた。民衆を一人巻き込んだ。だがゼルは狙っていない。ただその中にたまたまいただけ。
それだけのことが——あれだけの結果になった。
ジェドルドはゆっくりと視線を落とした。
自分の剣が、震えていた。
ああ、認めるよ。ここまで魔王が怖いなんてな……
「……撤退する」
声に出した瞬間、少し楽になった気がした。
「今日は、撤退する」
路地の奥から、ボンスの声が届いた。
「おーい、みんな生きてる〜? いや〜、日頃から逃げ足だけは鍛えといて良かったわ。……ねぇ、誰か返事して? 無視は悲しいよ!? 聞いてる!? 俺、結構頑張ったよ!?」
誰も答えなかった。港の方向から、波の音が聞こえてくる。
アドネの城は、静かにそこにあった。紫色の光が朝の空に向かってゆっくりと昇っていた。




