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48:宣布……広く一般に告げること

 思えば1500年、城の外から世界を眺めたことがなかった。魔王城の玉座から見える景色は常に同じだった。崩れかけた石の廊下と、遠くに霞む山脈と、空と。世界は常に遠くにあり、俺はその中心に座っているだけだった。

 だが今。

 俺は世界の中に立っている。

 潮の匂いがした。足元の瓦が、かすかに揺れた。カルロスはとうに気を失っている。この都市の構造。流通の要。大陸の商業的な血管がどこを通っているか。そして——人間という生き物が、何を恐れ、何を信じ、何によって動くか。


 ゼルは右手を持ち上げた。

 指の間から、紫の魔力が糸のように漏れ出す。それはすぐに形を持ち始めた。城の頂上を起点に空間が裂けた。

 

一つ目の門が開く。

二つ目。

三つ目、四つ目、五つ目——


 アドネの空に無数の空間の穴が出現した。直径は様々だ。小さいものは人の顔ほど、大きいものは家の壁ほど。それらは広場の上に、路地の角に、港の船の上に、市場の天井に、大通りの交差点に、ありとあらゆる場所へ繋がっていた。全ての門の出口がこの城の頂上へと収束している。


 ゼルは息を吸った。


「——聞け」


それは城の頂上から、空間の門を通って、アドネの全ての場所へ同時に届いた。広場で立ち止まる人間がいた。路地裏で荷を運ぶ男が足を止めた。港で綱を引いていた船乗りが顔を上げた。酒場の扉を開きかけた冒険者が固まった。子どもが母親の服を掴んだ。


「魔王が、ここにいる」

沈黙が広がった。

街が呼吸をやめたように。


「俺はゼル・アルヴァルト。魔王はお前たちの勇者に殺され、消えたはずの存在と化したはずだが」

声は続く。抑揚の無さが却って恐怖を増す。


「だが魔王はまだここにいる。お前たち人間が未来で俺を笑い者にした映像は、今でも残っているだろう。再生回数は増え続けているだろう。だがそれでいい。よく見ておけ」


 ゼルは右手を静かに横へ広げた。次の瞬間——城が揺れた。揺れではなかった。城そのものが内側から軋んだのだ。石が悲鳴を上げ、壁に亀裂が走った。魔力の圧が、建物の構造ごと押し潰そうとしていた。


「人間は儚く醜い。だからこそ魔王は存在する。魔王は人を殺すために、そして人を世界から無くすために君臨する」


増援として城内に待機していた騎士たちが、その場で膝をついた。立っていられない。重力が変わったわけではない。ただ魔力の圧力が、あまりにも大きすぎた。


「その目的のために、アドネを使わせてもらう。文句があるなら、俺を殺しに来い」

それだけだった。宣言は終わった。門が、静かに閉じていく。


 だが街の静寂は解けなかった。むしろ——深まった。

最初に動いた男が一人、桟橋を駆けた。仲間を呼ぶ声も出さずに、ただ走った。綱を解き、帆を上げようとして、手が震えて縄が結べなかった。隣の船でも同じことが起きていた。さらに隣でも。やがて港全体が、声なきパニックに飲み込まれた。先に出た船が邪魔で後の船が押しのける。桟橋で転倒する者がいた。水に落ちる者がいた。誰も助けなかった。みんな次々に逃げた。


 大通りでは商人が荷を捨てて走り始めた。屋台が倒れ、積まれていた果物が石畳を転がった。それを踏みにじりながら人の波が動いた。家の扉を閉める音が連鎖し、鍵をかける音が響く。アドネの街は見る間に縮んでいった。


 城の騎士たちが廊下を走る音がした。だがその足音は「向かっていく」音ではない。遠ざかる音だった。

ゼルはそれを聞いていた。潮風の中で外套の裾が揺れた。裾から紫色の魔力が長々と漏れ出ている。


 俺はいつ、「怖れられること」を失ったのだろうか、と思った。1500年、勇者が来るたびに戦った。負けることはなかったが最後の最後、「古い」と言われて笑われた。データとして消費された。SNSのコンテンツとして殺された。


 そしてここで今、声を一つ出しただけで街が逃げる。魔王の座は力ではなく——圧倒的な「存在」だったのかもしれない。


「……魅せる、ということなのか」

声には出なかった。口の中だけで転がった言葉だった。


 魅せるという恐怖を植え付ける行為は、もっとも簡単な殺しなのかもしれない。


城の頂上に一人立ったまま、ゼルは逃げ惑う船を眺めていた。港から次々と出ていく船。帆が開き、水面を蹴り、沖へ向かっていく。


 あれが使者になる。

 あの船が港につく場所、全てに——今日の話が届くはずだ。


「行け」

 独り言だった。

 運んでいけ。魔王が帰ってきたことを。世界の果てまで。


路地裏で、盗んだ服を着たルーラは壁に張り付いていた。さっきまで聞こえていた声。空間のどこからともなく響いてきた、あの重く冷たい声。


「魔王……様?」

あの声を聞いた瞬間——ルーラは全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。自分の体の奥底にある何かが、その声に対して反応していた。


 怖い。

 怖いのに。


彼女は目が離せなかった。紫の何かが、柱のように立ち昇っている。雲ではない。煙でもない。魔力の気配だけが視覚化されたような、重く禍々しくどこか美しい——闇の柱が青空を侵食するように空へ向かって伸びていた。


「ゼル様……」

声が漏れた。

震えていた。だが逃げなかった。


 スライムだった頃、核が砕けそうになるほど怖い目には何度も遭った。あの時は逃げた。逃げることしか知らなかった。


 でも今は、あの柱の中心にいる人が誰か、分かっている。

 だから怖くても、目が離せない。


路地の奥で誰かが泣いていた。遠くで何かが倒れる音がした。港の方から水音が聞こえてくる。


 ルーラはゼルから借りたコートを綺麗にたたみ、早く届けなきゃと焦った。

魔王様のところへ。足が少しずつ動き始めた。震えながら、でも確かに動いていた。

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