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47:顕現……はっきりと姿を現すこと

 ——半日が経った。

商業都市アドネの裏路地は昼間でも薄暗い。石畳の隙間に溜まった海水の臭い。干した魚と、荷馬車の轍と、煙が混ざった港町特有の濃い空気。森から出れば、そこは別の世界だ。王都からの唯一生き残った避難民たちが路肩に毛布を敷き、商人の怒号と物乞いの声が重なり合う。


その路地の隅。ルーラは壁に張り付いていた。


 落ち着いて、落ち着いて、落ち着いて……


心の中で三回唱えたが全く落ち着かなかった。目の前には無人の物干し台。そこに、誰かが干したままにしている服が三着。シャツ一枚、ズボン一本、それから——帽子。


 これを……取るだけ。取るだけでいいの。


ルーラは唾を呑んだ。スライムだった頃は、こんなことで緊張しなかった。というより感情という概念が今ほど鮮明ではなかった。


 ゼル様は「見つかるなよ」とだけ言ってた。見つかったら? 聞いてないよ。どうしたらいいの。


ルーラは目を閉じて深く息を吐いた。そして足音を立てずに一歩近づく。

もう一歩。


ルーラは物干し台に手を伸ばした。シャツの裾をそっと掴む。引っ張る。


 無人……だから、すぐに取って逃げちゃおう……


ぽとり、と落ちた。

すぐにしゃがんで拾う。

「こら! そこの娘!」

「——ひゃっ!!」

ルーラは叫びながら走り出した。服を抱えたまま。角を曲がり、もう一つ角を曲がり、袋小路に飛び込んで壁際で息を殺した。


足音が遠ざかる。

消えた。


 ……ふぅ


ルーラはへたり込んだ。胸に手を当てると心臓が暴れていた。人の体というものは、なんと正直なのか。


 痛っ!


彼女は泥と血にまみれた足を見た。ここにくるまで裸足で、石や草が邪魔をして傷をつけていた。


 ルーラは空を見上げる。アドネ城が青い空に突き刺さっていた。

 

 今頃、ゼル様は……



* * *



 同刻。アドネ城、第三応接室。


「な、何者だ貴様ァ!!」

大貴族カルロス・アドネが己の胸倉を掴む手を振りほどこうとしていた。


ゼルの目が、冷たく光る。

「静かにしろ。耳が痛い」

「ゆ、指を離せ! 衛兵! 衛兵ーッ!!」


扉が蹴り破られた。重武装の警備兵が五人、廊下から雪崩れ込んでくる。

「発見! アドネ様、ただちに救助を——」

「待て。人質に取られているのだ。下手なことはできない」


「……呆れた」

ゼルはため息をつき、カルロスを応接室の上空へと放り投げた。幸い応接室は無駄にデカくて広い。


 落ちるまで三秒といったところか。


ゼルは最初の一人の前へテレポートし、拳を顔面へ当てた。そして床へめり込むように叩きつけられる。

二人目が剣を抜こうとしたが、ゼルは身を捻り、刃を肘で逸らした。そのまま肘を返し、男の側頭部を打つ。崩れ落ちる前に、三人目の腹部を蹴って壁に吹き飛ばした。


地面にカルロスが落ちそうになる瞬間、テレポートを使って服を掴んだ。


「な……」

カルロスは引きつった顔をしていた。四人目、五人目の兵士が突撃してくる。カルロスを持ったまま、ゼルは片方の膝を踏み抜き、もう片方の鼻筋を頭突きで砕いた。


「ひ——」

カルロスは服を掴むゼルの手を払いのけようとした。だが引っ張ってもびくともしない。廊下の外で怒号が上がり、増援の足音が何十もの靴底を叩きつけながら迫ってくる。


ゼルはゆっくりと、カルロスに向き直った。

「お前に聞きたいことがある」

「な、なんでも言う。金か! 金なら出す! この城ごと——」

廊下の扉が吹き飛んだ。十人以上の騎士が雪崩れ込んでくる。全員が槍を構えている。


ゼルは振り向かなかった。

「……煩い」

次の瞬間、騎士の一人が天井から落ちる。残りが止まる間もなく、ゼルの右腕だけが動く。掴む、引く、投げる。一人が壁を砕き、一人が扉を再び破壊し、一人が窓枠に頭を打って崩れ落ちた。


ゼルの外套の裾が揺れた。床に転がる騎士の数が、十五を超えた。室内が静まり返る。廊下の外でも足音が止まっていた。次の増援が入ってこない。


「あ……あぁ……」

カルロスは蒼白な顔で床の惨状を見ていた。


「貴族というのは」

ゼルが言った。

「なぜこう、守られることに慣れきっているのか。くだらん」


「た、助け……」

カルロスの足が、また宙を泳いだ。その時、部屋の奥の接続する小部屋の扉が開いた。絹のドレスを来た若い娘だった。侍女を引き連れた、いかにも大貴族の令嬢という風情の少女が、室内の惨状を見て——

「——いやあぁぁぁぁぁッ」と叫ぶ。


ゼルが眉を寄せた。廊下の外はまた騒がしくなる。令嬢の悲鳴に釣られたのか、今度は足音の数が段違いに多い。城の警備が、全力でこの部屋へ向かっている。


ゼルはカルロスを掴んだまま、部屋の奥に目を向けた。

巨大なガラス窓。海の見える、南向きの窓だ。


「行くぞ」


「え——え?」

ゼルは助走なしに、足の裏で窓を蹴った。ガラスが砕け、潮風が一気に流れ込む。令嬢の二度目の悲鳴が、遠くなっていく。


二人の体が宙に出た。地面は、はるか下だ。


「ひ、ひいいいいいっ!!」

カルロスが目を閉じた。

ゼルは開いていた。


「『開門』」

紫の光が一瞬だけ落下する彼らを照らした。


 風が、強い。


潮の匂いがした。遠くで波が岩を叩く音がした。既にゼルは城の屋根の頂点に立っていた。アドネ城で最も高い場所。足元には茶色の瓦が並んでいる。


カルロスは震えながら膝をついていた。

ゼルが展望するそこには、大陸一の商業都市アドネが広がっていた。


港から伸びる幾本もの桟橋に、無数の船が繋がれている。大通りには屋台が並び、商人が入り混じって動いている。石造りの建物が隙間なく立ち並び、その隙間を縫うように水路が走っている。


広い。

とても豊かだ。


「ふん」

ゼルは短く鼻を鳴らした。

「世界一の商都か」


眼下の人々は、まだ気づいていない。城の上に何者かがいることに。頂から見下ろされていることに。

カルロスが震える声を絞り出した。

「き……貴様は、何者だ」


ゼルはしばらく街の遠くを見ていた。波の音がザーザーと聞こえてくる。港で積み荷を下ろす号令が薄く届く。


「俺は」

ゼルがようやく口を開いた。


「ゼル・アルヴァルト」

カルロスが息を呑む。


「魔王だ」

陽の光が石畳に反射して、街全体が白く輝いている。


 この街には、答えがある。


この豊かな街の、どこかに。

ゼルは外套の裾を、潮風に任せた。


「この街を使わせてもらう」

誰への宣言でもない。強いて言えば眼下で動く、知らぬままの全員への。街が白く光り続けていた。ゼルはそこに立ったまま、動かなかった。

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