46:屹然……孤高で周囲に屈しないその様
噂は火よりも速く燃え広がる。
「聞いたか。王都が——」
「国王が死んだらしい」
「殺された、だろう。虐殺だ。街ごと」
商人が囁いた。旅人が耳をそばだてた。酒場の隅で冒険者たちが声を潜めた。それが翌朝には隣の街へ届き、翌々日には大陸の反対側まで届いた。
『王都大虐殺』。
国王死亡。生存者は数名。犯人は不明。
それだけで世界は揺れた。
「勇者レイド様は? あの方は無事なの?」
「無事らしい。だが——」
「だが?」
喧噪の中でまた別の噂が広がる。
「謎の男だと?」
「ああ。名も知れない、Fランクの冒険者。そいつが勇者の代わりに魔物を倒したと——」
「おかしいだろう。Fランクが何故そんな力を持つ?」
「決まってる。罠を張ったんだ。勇者を陥れるために事前に仕組んだ。お前、あの録画を見てないのか?」 「ああ見たさ。俺もおかしいと思ったんだ。あんなことレイド様がするわけない!」
「そうだ! あれは動画から仕組まれてた卑劣な計略だ!」
「許せない! 正体を晒せ!」
人の口は都合の良い方向へ流れる。英雄の失態を認めるより、名もなき悪者を作る方が——ずっと楽だ。
そして噂にさらに、別の恐怖が重なっていく。
「なんだこの寒さ……」
民衆は体を震わせる。
夜空の遠方に、青白い光が見えた。
一つの街ごと丸ごと凍りついたような——そんな規模の、冷気の柱。誰も近づけなかった。近づいた者は、百メートル手前で身動きが取れなくなったと言った。空気そのものが凍っていると言った。
原因も、犯人も、目的も——何もわからないまま、
***
木々の間。腐葉土の上。頭上に星だけがある夜空。
ルーラが数歩後ろで止まっていた。ゼルは振り返らずに言った。
「感じるか」
「……うん」
「何を感じる」
ルーラは少し黙った。
「冷たい。でも——知ってる、感じ」
ゼルの喉が、かすかに動いた。
「そうか」
リナ
「ルーラ」
「はい」
「ここから先は」
ゼルは言葉を選んだ。いつもなら選ばない。いつもならすぐに言葉を投げる。だが今夜は——なぜか、丁寧に選ぼうとしていた。
「過酷になる。これまでとは比べ物にならんほど。戦いだけじゃない。俺がこれからすることは——お前が想像している以上に、ひどいことかもしれん」
「……ひどいこと」
「俺は、人間じゃない」
風もない夜だった。枝が揺れない。葉が鳴らない。ただルーラの呼吸だけが白く見えた。
「知ってた」
「知っていて、ついてきたのか」
「……知ってたけど、ちゃんとはわかってなかったから」
ゼルはそれきり、続きを促さなかった。
「戻れるうちに戻れ、とは言わん」
「……うん」
「ただ」
「うん」
「目を、逸らすな」
ルーラは頷きもしなかった。ただ、震えているのか、震えていないのか、遠くてわからなかった。厳密には見ていられなかった。投げかけた言葉にどう反応するのか、怖くて見ていられなかった。
だが今はそれで十分。
ゼルは夜空を見上げた。王都の方向の空に青白い光が滲んでいる。月光に光り輝いている小さな氷の粒だった。その氷の見当はついていた。
バカなやつだと思った。バカなやつだと思いながら、胸の奥の何かがぐっと重くなる。
「……やれやれ。もう後戻りはできないな」
ゼルが右手を胸に当てた。木々が軋み、根が地面の下で悲鳴を上げた。ゼルの全身から魔力が溢れ出ていく。ルーラが思わず膝をつきかけ、歯を食いしばって堪えた。
ゼルは纏っていた外套を剥がした。残されたのは重い鎧だけ。魔力の抑制と気配の圧縮。1500年を生きた王が、雑踏に溶け込むために押し込めていた、あらゆる本物が解放された。
ルーラが、息を呑んだ。ゼルの輪郭が揺らいでいるように見えた。彼を中心とした数メートルの空間が、現実から乖離していくような感覚。紫黒の魔力が霧のように溢れ出し、地面を這い、木々を包み、夜空へ向かって立ち昇っていく。
それは柱だった。
闇の柱。
禍々しく、重く、古い、1500年の時を生きた存在の全てが凝縮された柱が、静かに夜を染め上げていく。ルーラの足元に霜が走った。恐怖ではなく——魔力の圧だけで地面が反応していた。
「主よ」
どこかでバラルガの声が聞こえた気がした。ゼルは目を閉じたまま、右手をわずかに動かした。テレポートの門が開く。
座標はかつてそこにあった場所。今は瓦礫の山に変わった魔王城。1500年間自分が君臨していた玉座の間。
——そして門の向こうから、それは滑り出てきた。
黒く紫色の外套だった。ところどころ裂けていた、端が焼け焦げている。それでも生地の質は変わっていない。魔力が織り込まれた黒、一目で普通の布ではないとわかる、重厚な一枚。かつて父上が纏っていた象徴の外套。魔王城の地下の深層部に重宝されていた魔道具。
ゼルは目を細め、外套を手にしてゆっくり広げた。
父上……。なぜ俺にこれを教えてくれなかった?
ゼルは外套の場所を父の口から聞くことなく、自身で発見した。それも父の死の後に。
そして今、初めて纏う。
今の俺はこの外套を羽織る価値がある。だから父上、俺は……もう一度、魔王になるよ。
外套が肩に落ちた瞬間。世界の重さが変わった気がした。
ルーラは木の幹に手をつき、立っていた。震えていたが逃げなかった。遠くで何人もの人々が空を見上げた。夜空に二つの光が重なっていた。
青白い氷のキラキラとした光と、深い紫色の王の瘴気。
二つが、夜を二分するように並んで立ち昇っていた。
外套の端が、夜風に揺れた。
「その期待に、応える。もう一度、あの頃の自分へ」
俺はゼル・アルヴァルト。
テレポートの魔法を極め、一族の誇りを胸に、1500年間この世界に君臨し続けた。
それを笑いにした者がいた。
嘲笑した者がいた。
認めない者がいた。
「だが」
ゼルは重い漆黒の鎧を叩いて、一歩踏み出した。
「俺はまだここにいる」
瘴気が、さらに濃くなった。木々が重力に押しつぶされるように傾いた。
「魔王ゼル・アルヴァルト」
低く……。静かに……。もう一度、あの頃に。
「魔王はここに」
ルーラは頷かなかった。目を大きく開いてそこに立っていただけ。
だが今はそれで十分だった。




