45:厳冱……非常に寒く、空気や水が凍りつくような様子
魔法の残り香と冷気。それを辿っていけば、だいたいの場所は掴めた。あとはこの扉を開けるだけ。
ドアノブに手を掛け、ゆっくり開けていく。
部屋の中は、とても静かだった。
ベッドの上に小さな女が横たわっている。乱れた毛先は青いボブの髪。閉じた瞼。胸元の布はまだ薄く赤黒く滲んでいるが、わずかに本当にわずかだが——先ほどより色が薄い気がした。
「主」
だが呼んでも返事はない。
バラルガは部屋の中を見回した。椅子と窓。倒れたままの水差し。ベッドの脇に畳まれた服。
「……主?」
もう一度。今度は廊下へ向かって。だが足音がしない。バラルガは宿の廊下を端まで歩いた。一階。裏口。厩舎の前。どこにも——人影がない。
どこへ行かれたのですか……
胸の奥で、何かが軋む。回復魔法の使い手を探して街を駆けた。その女に主の状況を話した。しかし相手は目を逸らし首を横に振った。心臓の止まった者に魔法は届かない——その一言だけ残して、足早に去った。
他を当たろうと考えた。だがここにいる人々はほとんど全滅。残りは王都だけだった。
それでも、主ならば何か手を考えておられると思っていた。
戻れば——いる、と思っていた。
当然のように。部屋に。リナの傍に。
「主は、どこへ行かれたのだ」
誰もいない廊下に、声と影が沈む。陽の光が窓から差し込んできていた。
***
森に、霧が出ていた。ゼルは一人で歩いていた。松明もない。魔力の光も使わない。夜の森を、重い鎧とマントをグラグラ揺らしながら、ただ歩く。街で買った服は宿においてきていて、魔王の服をテレポートさせて着替えていた。
散歩でも、情報収集でもない。
自分に言い訳をする気力も、今夜はなかった。
「……あの」
後ろから声がした。ゼルは足を止めなかった。
「あなたが、ここにいるの、何となくわかってた」
「そうか」
「……ルーラ、来ちゃダメでしたか」
「好きにしろ」
足音が近づいてくる。小さな足音。リナのそれとは違う、もっと軽い。緑の髪の少女——ルーラが、数歩後ろでゼルに並ぼうとして、また遠慮して、少しだけ距離を置きながら歩く。
「リナさん……は」
「眠っている」
短く答えた。
「……そう、ですか」
「お前は何も知らなくていい」
「でも」
ルーラの声が、かすかに揺れた。
「あなたが、ここで一人でいる理由は、なんとなく……わかる、から」
ゼルは歩を緩めなかった。
わかる、か?
足元の草が露で濡れている。踏むたびに冷たい水が靴に滲みた。
「仲間を見捨てて」
独り言のように言った。
「こんな夜更けに、森を彷徨っている。情けないな」
「情けなくない」
少し驚いた声だった。自分でも咄嗟に言葉が出たことに驚いているような。
「……情けなくないよ。あなたが一番つらいと思うから」
木々の間、陽の光が前方から降り注ぐ。枝が揺れ、葉が鳴った。二人はしばらく無言で歩いた。
お前は優しいな、ルーラ……
声には出なかった。
出し方を、知らなかった。
***
それは、指先から始まった。リナの——左手の人差し指の先。エタの短剣に指が触れた時についた、浅い切り傷。すでに塞がっているはずだった。
その傷口が、白く光った。一瞬だけ。そして光が広がった。指の第一関節。第二関節。掌。手首。肘。白い光が静脈をなぞるように走っていく。それは魔力の流れだった。だがリナの魔力ではない。
もっと重く、もっと古く、千年を超えた何かが混じっている。紫がかった白。禍々しいはずなのに、どこか——親しみがあるその気配。
魔王の血が。魔力の尽き果てた回路を。強制的に塗り替え始めていた。
「ぅ……」
リナの唇が、微かに動いた。眠ったまま、意識のないまま。だが体だけが——何かに応えるように、わずかに震えた。
呼吸がだんだんと戻っていく。回路の書き換えは止まらない。指先から始まった光が今や全身に広がっている。血管の一本一本を、紫白の光が満たしていく。魔力回路が引き伸ばされ、拡張され——リナの器が、本来の容量を超えて開かれていく。
窓ガラスが内側から凍りつく。部屋の温度が急激に落ちていく。吐く息が白くなった。
……なに
これは。
リナの意識の底で、何かが気づいた。夢の中の遠い感覚として。
冷たい
寒い。寒すぎる……
でも——これは
温かい。
どこか、温かい。知っている気配だった。嫌いじゃない重たい気配。いつも少し遠くにあって、決して近づいてこない、あの——
「ぁ……」
リナの眉が、わずかに寄った。その瞬間ベッドが爆ぜた。木材が内側から砕け、氷の結晶が一気に膨張する。部屋の床が白く染まり、壁や天井が、瞬く間に凍てつく。扉の隙間から零れ出す冷気が廊下を走り、隣の部屋へ、階段へ、一階へと凍結が始まっていく。
バラルガが廊下の角を曲がった瞬間だった。
——なんだ
視界に靄がかかるように体の凍結が始まった。宿の廊下の先が——見えない。壁の代わりに巨大な氷の壁が生えていた。天井を突き破り、屋根を凍てつかせ、外へと溢れ出す氷の奔流。
「ッ——!」
バラルガは反射的に後退した。重力魔法を展開し、飛んでくる氷の破片を叩き落とす。屋根が割れ、外壁が内側から押し広げられ、直径十メートルを超える氷の塊が夜の街に出現していた。その中心に——ベッドの残骸と、リナがいた。
眠ったまま。
目を閉じたまま。
だが全身から溢れ出る魔力は、もはや人間のものではなかった。冷気が彼女の体を霧のように包んでいる。その光が触れる場所が、片っ端から凍りついていく。地面、街灯、石床。
すべてが凍り始めた。バラルガは立ち尽くしていた。長く生きた。バラルガという存在は、魔王の血を受ける前は、絶対重力圏を持つ魔獣として大陸最強の一角にいた。千の戦場を見てきた。恐怖など忘れていたはずだった。
これは……
冷気が頬を灼く。
眉が、凍りかける。
主の気配!
リナから。
あの小娘から——魔王の気配が。
「主……」
バラルガの声が、霞んだ。
氷は広がり続けていた。轟音を立てながら、雪崩のように街の一角を飲み込み、夜の闇の中で青白く輝きながら、止まる気配がまるでない。バラルガの周囲は絶対重力圏により冷気や破片が床に振り落とされていく。それでも感じるとてつもない寒さだった。
リナは中心で氷のベッドを作って深く寝ていた。
バラルガは一歩、後退した。
主。これは一体、何が起きているのですか。
氷が夜空へ向かって伸びていく。答える者はどこにもいない。森の中のゼルには、まだ届かない。街の一角が静かに凍っていく。




