44:一筋……細長いものの一本
岩塊が落ちた。音ではなかった。振動だった。空気が圧縮され地面が叫び、世界そのものが一瞬だけ震えた。エリアは目を閉じたまま、レイドを抱きしめていた。
重い。
岩塊が落ちてくる。その質量の気配が、皮膚を通して伝わってくる。
怖い。怖いけど……
やめられなかった。
手を離すことが、できなかった。レイドの胸に顔を押し当てたまま、エリアはただ、その息を聞いていた。浅い。不規則だ。でも——確かにそこにある。
ちゃんと、生きてる。
だから。
ここにいるよ。
轟音が来た。衝撃が来た。だが石が砕ける音がしても——潰れる感触が、来なかった。恐る恐る、エリアは目を開ける。
砂埃の中。瓦礫の山の中。
岩塊は真横に弾け飛んでいた。寸前で文字通り、紙一重で。
「……え」
エリアは声を出すことも忘れ、その岩塊を見つめた。
「呆れました」
後ろから声がした。右手を降ろしながら、砕けた岩塊を見て、小さく息を吐く。
「殺すつもりだったのに」
感情のない声だった。
「死ぬつもりで目を閉じるとは。……あなた、なかなかの胆力ですね」
「どうして」
エリアの声は掠れていた。
「なぜ、止めたの」
バラルガはしばらく黙っていた。
そして遠くで鳴るように風がゆっくり吹く。
「……命令が、なかったから。主から、お前らを殺せという命令は——いただいていない」
バラルガは淡々と言った。
「私は、主の邪魔になるものを排除しようとした。だが考えてみれば、その男はすでに戦闘不能。今ここで殺す必然性を、私は主から与えられていない」
エリアは言葉を失った。
「……勘違いしないでください」
バラルガはエリアを見下ろした。その瞳に慈悲はない。ただ事実だけがある。
「次に会えば、殺します。その男も、あなたも——主の障害になるなら」
彼女は震える手でレイドの頭を支えながら、急いで頷いた。
バラルガは一度だけ、倒れているレイドを細めた目で見た。それから、踵を返した。その背中はぐんぐんと離れていった。
石畳が足音を立てる。バラルガは早足で歩いていた。普段の悠然とした歩き方ではない。それを自覚しながら止められなかった。
主は今——
なったことのない、ざわめきがあった。バラルガは生涯自分が恐怖を感じるとは思っていなかった。戦闘への恐怖ではない。勝敗への恐怖でもない。
ただ。
主に何かあったら——
それだけで足が速くなっていた。
***
見つけた瞬間、バラルガは足を止めた。水浸しになった広場。ところどころ血が流れて赤く染まっている。崩れた石の壁に背を預け、ゼルは地面に足を伸ばしていた。両腕で何かを抱えて。
あれは——リナ殿。
バラルガは目を疑った。ゼルの腕の中でリナが横たわっている。乱れた青い髪と閉じた瞼。頬に触れた月光がやけに白く見えた。彼女の首元と太ももに巻かれた服の生地は、すでに赤黒く滲んでいる。
傷が深い。だが——
バラルガは静かに近づいた。
一歩。
また一歩。
近づくほどに、違和感が輪郭を持ちはじめた。
……息をしていない
バラルガは止まった。
リナの胸が——動いていない。
「主」
バラルガは声をかけた。
ゼルは答えなかった。ただリナの頭を自分の肩に預けさせたまま、どこでもない一点を見ていた。
「主」
もう一度、呼ぶ。
ゼルは低い声でやっと答える。
「お前はどこにいた?」
「すみません主、手こずりました。このような不測の事態にすぐに駆けつけられず——」
「もういい、わかった」
リナの服は波紋のように赤黒くさが増していく。
「わかっているから黙れ、バラルガ」
「しかし——」
「黙れと言った」
その声は震えていた。バラルガは息を呑む。
ゼルは右手をリナの首筋に当てて、脈を確かめる。
「……止まっている」
独り言のように、ゼルは言った。
「心臓が、止まっている」
バラルガは何も言えなかった。
ゼルの視線が、ゆっくりとリナへ落ちた。
黒い髪が夜風に少しだけ揺れた。
「毒だ。エタの毒が——傷口から回った」
ゼルの親指が、リナの頬をかすかに撫でた。無意識の動作のように見えた。
「バカなやつだ」
低く、短く、吐き出すように言った。
「自分の傷口を凍らせて毒を止めた。理屈はわかる。だが魔力が尽きた時、氷は溶け、毒が動き出す。なんでお前はそんな馬鹿なことをした。やりようなら、いくらでもあったはずだ」
答えは返ってこない。当然だ。リナはもう、何も言わない。バラルガは膝をついた。主の前で膝をつくのは、礼をするためではない。ただ立っていられなかった。
ゼルはまた黙った。リナの肩をそっと引き寄せた。崩れないように。落ちないように。バラルガは主のその横顔を——見ていられなかった。視線を落とした。
「魔王の血は」
ゼルが、突然口を開いた。
「解毒できる」
バラルガは顔を上げた。ゼルが月のない夜空を見上げる。赤い瞳が暗い。
「だが、核が潰れて死んでいる魔物に血が効くかどうか、わからない」
「主……それは」
「わかっている」
ゼルは遮った。
「わかっている。俺が一番、わかっている」
その言葉が、石畳の上に落ちた。拾えないまま、ただそこにある。ゼルは右の拳を握った。膝の上で静かに。誰にも見えないように。
父上。
脳裏に浮かんだのは、なぜか父の顔だった。あの日、塔の上で初めて泣いた父の顔。
「できた」と言った自分に、涙をこぼした、あの顔。
俺は今——
何もできない。
テレポートを極めた。時空を繋ぐ技を持てた。こうやって再び過去に戻った。どんな空間も、どんな座標も——俺の手の届く場所に変えてきた。
なのに。
「……どうだった?」
その声が、耳に残っていた。リナの最後の声が。戦いの評価を聞こうとした、その声が。
ゼルはしばらく動かなかった。やがてゼルは口を開いた。
「バラルガ」
「はい」
「医術師を——いや、回復魔法の使い手を探せ。この街の中で、一番腕のいいやつを」
バラルガは一瞬、言葉に詰まった。
「主、しかし心臓が止まった状態では、回復魔法でも——」
「探してくれ」
バラルガは何か言おうとしたが、その口はすぐに塞がる。そしてゆっくり立ち上がった。
「……御意」
背中を向けて、振り返る。ゼルはリナを抱えたまま、動いていなかった。その背中がバラルガには——やけに小さく見えた。
元魔王が、今夜だけはただの男に見えた。バラルガは何も言えなかった。
***
廃墟に、静寂が戻る。
ゼルは一人になった。リナの重さを腕に感じながら、ゼルは夜空を見上げた。月だけがちょうど雲に隠れていた。星だけが冷たく光っている。
「……聞こえているか」
誰に言うでもなく、呟いた。
「お前が最後に言った言葉、聞こえていたぞ」
答えはない。当然だ。
「……どうだった、か」
ゼルは目を細めた。
「終わった。お前が殺した。見ていたぞ」
それだけを言って黙った。水の流れる音がする。ゼルの喉がかすかに動いた。
「……魔王が」
声に、出なかった。口の中だけで、言葉が転がった。
魔王が。
お前一人を、救えないのか。
ゼルはリナの髪に、そっと手を置いた。押しつけるでなく、撫でるでなく、ただ置いた。
「Fランクのゼル。冒険者ギルドに登録した時の名前だ。……随分と、遠いところまで来た」
誰への言葉でもなかった。
「人間に混じって情報を集め、勇者を観察し、文明を学ぶ。そのために、ここまで来た。それは——変わらない」
リナの頬に触れていた親指が、止まった。
「だが」
ゼルの赤い瞳が、夜空から下りてきた。
リナの顔へ。
閉じた瞼へ。
もう動かない、その顔へ。
「今の俺では」
声に静かな何かが混じった。
「届かない場所があった」
ゼルはゆっくりと、自分の右手を目の前に持ち上げた。
広げた掌。
魔力が、ひと筋だけ、指の間から漏れ出した。それは炎でなく雷でなく——ただ重く、古く、千年を超えた何かの気配を纏っていた。
掌を握り込む。紫の光がその中に消えた。ゼルは立ち上がった。リナを腕に抱えたまま、ゆっくりと。
「……まだ死ねん」
それはリナに言ったのか。
自分に言ったのか。
あるいは遠い夜空のどこかにいる、父に言ったのか。
ゼル・アルヴァルトはリナをどこかの宿屋に寝かせて、遠い森へ歩き出した。
掌握のその続きを。だが今夜から——その歩き方が、少しだけ変わった。
重く。
静かに。
かつて玉座に座っていた父上の、あの歩き方に。




