39:至冷……極めて冷たいこと
氷のフィールド全体の温度が、さらに落ちた。白い霧のような冷気が地面を這う。
エタは白い息を吐いた。
「……なるほど」
足元の氷を靴で軽く踏む。
「これは完全に君の領域ですね」
気を抜くと足を滑らせてしまうほどの足場の悪さ。
リナは何も言わず、ただエタをじっと見ている。
その目はとても静かだった。怒りも、憎しみも、表には出ていない。
だがエタには分かる。
「リナは怒っている」
小さく笑う。
「やっぱり、怒っているんですね」
リナの眉がわずかに動く。
「当然」
短く答える。
「お前に」
――ドンッ!
リナの足元の氷が爆ぜた。
体が前へ弾ける。一直線をスケートするように、エタの喉元を狙う。
拳が振り抜かれ、空気が凍りつく。
エタは一歩足を横に踏み出した。
「っ!」
氷で足場を崩し滑り、低位置になるとリナの拳が頬をかすめた。
その瞬間エタの手が、リナの腕を掴んだ。
だがリナの腕から氷が噴き出し、エタの手が凍りつく。
「……!」
エタが咄嗟に腕を引く。腕は冷気を帯びており、並大抵の冷たさではなかった。絶対零度、またはそれ以下。
摂氏−273.15 °C 絶対零度。
そんな温度、巧者でも作れるはずがない。
――だが今、リナはそれを超えている。そしてリナの思考の違和感。
氷を氷壁にぶつけ、砕け散らせる。その隙。
リナの膝が腹にめり込んだ。
エタの体が吹き飛ぶ。
氷の床を滑り、数メートル先で止まる。
静寂。
「おかしいと思った。なぜリナの思考が戦闘に置かれていないか」
氷の粒が、ゆっくりと落ちてくる。
「そこにある思考は確かに存在する。だがそれは死と似たような、または……」
エタは腹を押さえながら笑った。
「はは……」
口元から血がにじむ。
「強い」
リナはただ歩く。
一歩。
また一歩。
「でも」
エタが言う。
「まだ迷いがあるね」
リナの足が止まる。
「さっきの拳」
エタが指で自分の喉を指す。
「本気なら、首折れたはずだよ」
氷のフィールドの外。ゼルは腕を組んで見ていた。
二人の距離。動き。呼吸。
すべて見ている。
フィールドの中。
リナが口を開く。
「……エタお前は」
ゆっくりと拳を握る。
「ずっと、勘違いしてる」
エタは首を傾げる。
「何を?」
リナの目が細くなる。
「私は」
小さく息を吐く。
白い霧が広がる。
「誰のものでもない」
その言葉に。エタの笑顔が止まった。
「……」
エタは笑った。
ゆっくりと。その仮面の下から見える口の動きが、壊れたかのように。
「違う」
首を振る。
「違う違う違う」
指でこめかみを押さえる。
「それは違うリナ!」
リナは動かない。エタの目が、狂気を帯びる。
「だって」
ゆっくりと顔を上げる。
「私は全部見てきた。君が泣いた日も」
一歩、前へ踏み出した。
「君が怖がった夜も」
また一歩。氷の床を砕きながら進む。
「君が笑った瞬間も」
短剣を逆手に持ち直す。
「全部全部、私が見てきた!」
エタの目が歪む。
「それなのに!」
低く呟く。
「どうしてゼルなのか」
その瞬間。
リナの目が、わずかに揺れた。視線はどかさずにだが確かに彼を見ていた。視線の端で。
ゼルは何も言わない。ただ見ている。フィールドの中を。
リナがゆっくり口を開く。
「……違う」
「何が?」
「私はゼルのために戦ってるんじゃない」
「じゃあ何のために?」
リナの答えは短かった。
「私のため。私だけだ」
氷のフィールドの温度が、さらに下がった。エタの体へ氷がこびりついていく。
仮面の下は不気味な笑みを浮かべていた。
「……そうなら、じゃあ」
両手を広げる。
「壊してみてよ」
「その“私”で」
エタが大きく一歩を踏み出すと、氷の床が大きくひび割れた。
「エタ、もう終いよ」リナは腕を天に掲げた。




