Ep26: 【エタ・リヒト】
その顔を見た瞬間、血の気が引いた。
「エタ・リヒト」
かつての婚約者。フォルトーゼ家が選んだ、政略結婚の相手。
エタは柔らかく微笑んだ。
「そんな顔をしないでくれ。再会だよ?」
リナの視線は、足元の母子に落ちたまま。
「アンタが、やったの?」
「そうだよ」
即答。
「ここに来るまで何人もの人がやられてた。それもアンタが」
「静かに、綺麗に。誰も苦しまない形で」
は?
怒りが込み上げるのを感じる。
でも、同時にリナの心には恐怖もあった。
エタの目は昔と同じだ。
穏やかで知的で。
そして、どこか底が見えない。
「昔から、そうだったよね」
エタが言う。
「君は怒ると、まず唇を噛む」
リナの動きが止まる。手は唇を触った。無意識だった。
「それから、“どうして”って三回くらい心の中で繰り返す」
心臓が強く鳴る。
「なに、言って」
「図星?」
エタは楽しそうだ。
「昔から分かりやすかったよ、君は」
違う。
昔から?
リナは一歩下がる。
「気持ち悪い」
「ひどいな。私は君を理解しているだけだよ」
エタが近づく。
「君はね、あの家が嫌いだった」
「……!」
「才能で価値を決められる世界が嫌いだった」
言葉が詰まる。
「でも否定できない。だって君は“選ばれた側”だったから」
エタの瞳がわずかに細まる。
「今もそうだろう?」
リナの背筋が冷える。
「何が言いたいの」
「君は怖いんだ」
間。
「価値のある存在を手放すことが」
呼吸が乱れる。
違う。
違う。
「……黙れ」
「違わないよ」
違う!
「私は」
リナが氷を展開しようと魔力を練る。
「怖がってなんか、いない!」
瞬間。
エタが横に跳ぶ。氷柱はエタがいた方向へ飛んだ。
「やっぱり正面から来ると思ったよ」
リナの思考が止まる。
なんで。
どうしてわかるの。
「君は真正面から戦闘するタイプだ。そう教えられているからね」
エタは穏やかに言う。
「だけど私は違う」
エタはダガーを逆手に持ち、リナへと向かう。
「――!」
リナは咄嗟に氷壁を張った。
だがその位置も――
読まれてる。
エタは迷いなく壁の薄い部分を突いた。
氷壁にひびが入る。
どうして読まれてるの……。
「どうして読まれているか?」
エタが微笑む。
「リナは分かりやすい」
リナの胸がざわつく。
違和感。
昔から彼は、妙に察しが良すぎた。口に出さなくても。言葉にしなくても。
「ねえ、醤油――」
「はい」
「じゃあ――」
「はいこれ」
あの頃も。私が欲しいもの、してほしいことを全部わかってるかのように、動いてくれた。
怖い。どうして。
「君は今、“怖い”と思った」
心臓が止まりそうになる。
「そして今、“逃げるべきか”と考えた」
足が動かなくなる。
「でも逃げない。君は意地っ張りだから」
「やめて」
声が震える。
エタは一歩踏み込む。
「私はね、リナ。人間を救おうと思ってるんだよ」
「人を殺して?」
「違う」
エタを首を横に振る。
「平等にしている」
月光がダガーを照らす。
「死は完全な平等だ」
リナはバレないよう、後ろで手のひらに魔力をためていく。
「そんなの、救いじゃない! 『六花の葬釘』」
圧縮された六つの氷柱が、手のひらから連射された。だが顔に狙ったはずの氷柱を、頭を傾けるだけで簡単に避けられた。
氷が来る前に……動いたの?
エタは不敵に笑うと短剣をリナの心臓めがけて振るった。咄嗟に体を守ろうとリナは避けようとする。だが刃先は確かにリナの指先を走った。指先を覗くと少し透明な血が零れ出る。
大丈夫、指先だけ……。不意をつかれてもこれくらい――
え?
ガクンと体が落ちるような感覚がした。
どういうこと……?
「毒だよ。それもかなり強力なね」
エタは静かに言った。
「ほら。立ちなよ。今も君は私を止めたいより、私を否定したいと思っている。否定するためには私より強いことを証明しなければいいけない」
否定したいと思ってた。
その思想を。
この男を。
私の過去を。
エタは仮面をつけ直す。
「君は優しい」
背を向ける。
「だから壊せない。人の思想も、過去も」
「待ちなさい!」
「また来るよ」
エタの口角が上がった。
「次は、もっとお手柔らかに」
姿が消える。
路地裏の静寂と大量の殺戮。
リナはその場に立ち尽くした。
――読まれていた?
違う。
見透かされていたんだ。
あの頃から。
「あいつ……」
胸の奥に、冷たい恐怖が残る。
剥かれているのだ。
心を。
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