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16:軋轢……人と人の仲が悪くなり、争うこと

 翌朝。

宿場町カナンを出発し、『疾風の大渓谷』へと向かう街道にて。一行を包む空気は重苦しいものになっていた。


「……」

リナは無言で歩いていた。いつもなら「足が痛い」だの「お腹すいた」だの言う彼女が、今日は一言も発しない。ただその背中からは、触れれば凍りつきそうなほどの冷気が――実際に物理的な冷気として立ち上っていた。


「……おい、小娘」

ゼルが後ろから声をかける。だが、リナは聞こえていないふりをして、スタスタと歩く速度を上げた。


「……」

ゼルは眉をひそめた。昨日のギルドでの啖呵はどこへ行ったのか。


 今朝、宿を出てからずっとこの調子だ。

 

ゼルは隣を歩くバラルガに視線を投げた。


「バラルガ。貴様、何かしたか?」

「えっ、私ですか!?」

バラルガが目を白黒させる。

 

「まさか! 私は荷物を持ち、朝食のパンを多めに譲り、至れり尽くせりの対応を……。主こそ、何かお気に障ることをしたのでは?」

「俺か? ありえん」

ゼルは即答した。


「機嫌を損ねられる覚えなどない」


実際にゼルには心当たりがなかった。昨夜の会話を聞かれていたなど、微塵も思っていないからだ。


「……まあいい。放っておけ。子供の癇癪(かんしゃく)など、腹が減れば治る」

ゼルはそう結論づけ、再び歩き出した。だが、その放っておくという態度が、リナの苛立ちに油を注いでいることにも気づかずに。



***



 数時間後。

風景は一変していた。穏やかな平原は終わりを告げ、目の前には大地が巨大な爪で引き裂かれたような、深く険しい渓谷が広がり、その上に一本の不安定な橋があった。

 

『疾風の大渓谷』。

その名の通り、谷底からは常に突風が吹き荒れ、普通の人間なら立っていることすらままならない難所だ。


「……風が強いな」


 風に微弱な魔力が混じっているのか? 肌をチリチリと刺す感覚がある。『開門』でこいつらを向こう岸にテレポートさせるのは距離的に無理そうだな。かといって中途半端に橋の真ん中にテレポートさせるのも、魔物にやられる可能性がある。


「リナ、お前の氷魔法で防壁を作れないか? 風除けがないと進めんかもしれない」

当然の命令だ。ここまでついてきたリナには、それなりの役目がある。

だが。


「……」

リナは立ち止まり、クルリと振り返った。フードの下の青い瞳が、ジロリとゼルを睨みつける。


「……嫌よ」

「あ?」

「なんで私が、あんたらの風除けにならなきゃいけないのよ」

予想外の拒絶に、ゼルとバラルガの動きが止まる。


「嫌、とはどういうことだ。これは効率的な役割分担だ。お前の魔力なら造作もないだろう」

「効率、効率、効率……! あんたの頭ん中はそればっかり!」

リナが叫んだ。風の音に負けないほどの金切り声。


「私は道具じゃない! 便利な壁でも、使い捨ての『駒』でもない!」


「……っ」

その言葉に、ゼルの目がわずかに細められた。


 ……。


リナは瞳に涙を溜めながら、それでも泣くまいと唇を噛み締めていた。ゼルは溜息をつき、頭を掻いた。

「リナ――ここまでついてきたんだ。もう、戻れる故郷も住居もない! だから」

「うるさい、うるさい! もういい! あんたたちなんか頼らない!」


リナは杖代わりの短剣を抜き放ち、渓谷の入り口へと走り出した。


「ちょ、リナ殿!? そっちは危険です!」

バラルガが慌てて叫ぶ。

「この渓谷には魔物が巣食っていると……!」


谷底から吹き上げる突風に乗って、鋭い鎌のような翼を持つ鳥型の魔物の群れが飛び出してきた。その数、およそ二十。


「キシャアアアアッ!!」

魔物の鋭利な殺意が、先行したリナに集中する。


「……ッ!」

リナは足を止めない。


「邪魔よ! あんたも、私を見下してんでしょ!」

リナの全身から、青白い冷気が溢れ出す。


「凍りつけぇぇぇぇぇッ!!」

リナを中心に、凍結させるような氷が爆発した。襲いかかってきた群れが、一瞬にして空中の氷像へと変わる。


「……すさまじい出力……」

バラルガが腕で顔を覆いながら驚愕する。

「ですが、あれでは魔力の消費が激しすぎます!」


「放っておけ」


ゼルは静かに、その光景を見つめていた。

暴走気味の魔法。だが、その威力は以前よりも確実に上がっている。

怒り。屈辱。反骨心。

それらが彼女の力を無理やり押し広げているのだ。


リナが肩を揺らしながら、フラフラと前へ進む。


「……来るぞ」


ゼルが低く呟いた瞬間。渓谷の底から、風を纏った龍――『疾風竜』がその顎を開いてゼルの頭上へと躍り出た。


「ギャアアアアアアッ!!」


鼓膜を引き裂くような咆哮と共に、『疾風竜』が急降下する。巻き起こる風圧だけで、周囲の岩が砕け散るほど。


「主よ! 防御を!」

バラルガが前に出る。だがゼルの視線は頭上の竜ではなく、その先――今まさに橋を渡りきろうとしている少女の背中に向けられていた。


……逃げるか、リナ。


普通なら、ここで足がすくむ。あるいは見捨てて進む罪悪感に苛まれるはずだ。だがリナは一度も振り返らない。氷魔法で自身の足元を強引に固定し、暴風の中を突き進む。そして対岸の岩場へとその足をかけた。


そこで初めて、彼女は足を止めた。

ゆっくりと、こちらを振り返る。


距離にして約三十メートル。

風の音にかき消され、声は届かない。だがその瞳は冷たかった。


彼女の唇が動く。


――バ、イ、バ、イ。


音のないサヨナラ。直後、リナは短剣を振り上げた。


「なっ……!?」


バラルガが絶句する。それは、彼女自身がたった今渡り終えた、唯一の退路である橋への魔法だった。


パキィィィィンッ!!


支柱を凍らされ、砕かれた橋が、轟音と共に底へ崩落していく。こちら側とあちら側を繋ぐ道は、物理的に切断された。


「おい! お前、なんてことを!!」

バラルガの悲鳴に近い叫び。だがリナは振り返らず、霧の向こうへと姿を消した。完全に拒絶したのだ。


「ククッ……ハハハッ!」

ゼルは笑った。


「やるではないか。まさか逃げると!」


「わ、笑っている場合ではございません主! 道が! それに竜が!」

疾風竜の鉤爪が、ゼルたちの立っていた地面を粉砕する。土煙が舞い上がる中、二人は左右へと跳躍して回避した。


「グルルルゥ……ッ!」


竜が着地し、長い首をもたげて次なる獲物――ゼルを睨みつける。その口元には風の魔力が収束し、圧縮された空気のブレスが放たれようとしていた。


「バラルガ」

「はっ!」

ゼルは砂埃を払いながら、退屈そうに竜を見上げた。


「ここから、予定変更だ」


ゼルが右手を軽く振るう。

「この羽虫が目障りだ。叩き落とせ」


「御意!」


バラルガは一瞬目をつぶり、極度の集中に入る。そして見えない鎖が竜の翼に絡みついた。空の王者がカエルのように地面へ這いつくばらされる屈辱。


だが竜も反撃する。全身からカマイタチのような風の刃を全方位に放出し、重力を強引に切り裂こうと暴れる。


「ギシャアアアアッ!!」


「抵抗するか。……ならば」

ゼルが一歩前に出る。リナというリミットが外れた今、魔王が遠慮する理由はどこにもなかった。

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