第八話 合戦開始
― 同日七日・卯の刻
「者共! かかれぇ!!」
先刻の暁の出来事から程なくの頃、薄らと暗闇の残る明け方。一の谷の東……生田の森では、源氏の総大将である蒲冠者こと源範頼の掛け声に合わせて、合戦は開始した。
霞みがかる森の中、既に鬨の声をあげる源氏に対し、まだ戦支度中の者も残る、平家。
源氏は書状の言いつけを破って攻め寄せたか……!?
………否……、先程の、河原兄弟が「停戦について何も知らない」と申したのは、恐らく誠のことであったのではなかろうか。
「新中納言殿! 源氏勢が攻めて参りました! その数……約五万騎っ」
「……っ、河原兄弟は停戦について何も知らなかったと…………書状は、源氏には届かなかったのか……!」
そう……書状には八日に使いを送るから戦をせずに待てとあり、それは源氏にも同様に伝えていると書かれていた。だが本日はまだ七日。つまり、源氏が書状の言いつけを破ったか、源氏には一切伝わっていなかったことになる。だが先の河原兄弟の行動を鑑みれば恐らく……後者。あの書状自体が謀であった可能性が高い。
そうでなければ、河原兄弟が討たれたからと書状の言いつけを破り、軍で攻め寄せてなど来るであろうか。そもそも、先に攻めてきたのは河原兄弟である。……寧ろ攻める理由を作るために河原兄弟をこちらに差し向けたのでは……との考えも過ったが、それは昨日の様子からは考えにくい。
……法皇様は、我々平家が勝てば帝も三種の神器も戻らぬから都合が悪いということか。今更どうにもならぬと知りながらも、この状況に怒りがこみあげてくる。あの、書状は……っ!
…… 謀 っ た な
「者共! 直ちに迎え討て! 停戦は破棄されたものとみなしてよい!! 各々、存分に戦えっ!!!」
「おおおおおおっ!」
私の下知は、思わず怒気を孕む。元より矢合わせと示し合わせていた刻限ではあった為、先の夜討ち程乱されることはなかったが、中には和平を期待していた者等、狼狽える者も多く見られた。私はいつものように直垂に兜と大鎧を装着して母衣をかけ、箙を背に太刀を佩く。
馬に跨った私は、再度周囲に下知を飛ばす。
「敵の軍勢は約五万! 兵共は騎馬武者に続け! 戦において己の武士としての矜恃、名誉だけは大切にせよ! 一ノ谷へは絶対に歩を許すな!!」
先陣を切る者共は、鬨の声と共に森を駆けてゆく。合戦に先駆けるは、豪族武者や有力な武士ら郎党による騎馬武者である。次いで、馬に乗らぬ兵、そして。
「知章は私に続け!」
「は……はっ!」
「心配は要らぬ、私がいる」
「はっ!!」
総大将である私は、軍勢を指揮しながら自らも出陣せんとする。……と、その時、家臣の一人である監物太郎頼方が、苦悶の表情を浮かべながら私に問う。
「新中納言殿……書状の、停戦は…………、この状況は………! なぜなのです………っ!」
頼方の黒い瞳は疑念に揺れる。この状況と、先ほど私が下知した「停戦は破棄」という現実を、上手く受け止められていないのであろう。もしかしたら、そういう者は少なくはないのかもしれない。私は頼方を見据え、なるべく冷静に、自らの見解を話す。
「頼方。……あれは恐らく、我ら平家を陥れるための法皇様の罠」
「……!」
「我らが勝てば、三種の神器も帝も戻らぬ。和平をと見せかけ、我らを油断させた上で追討を望んだのだ。後白河法皇様は、我ら平家に余程思うところがあるのであろう」
「それ、は……」
言葉に愕然とした色が滲む。それは隣にいた知章も同様である。だが今までの平家と後白河法皇様の関係を思えば、なくはない話ではある。……が、これが本当に騙し討ちであれば、決して許せることではない。
……私自身、胸の奥に怒りの感情が湧き上がるが、今は集中する時である。
「もうよい、頼方、知章。勝利してしまえば、何も問題はなかろう。今は戦に集中せよ」
私は、自分にも言い聞かせるように二人を諭す。そう、勝てば良いのだ。ここは絶対に守り抜く。法皇様の謀などに屈してたまるものか……!
私は二人を交互に見遣り、喝を入れるかのように短く命ずる。
「行くぞ」
「はっ!」
頼方と知章は気を入れ直し、私に続く。
私は手綱を手に、腹の底から声を張り上げながら戦場へと駆ける。
「皆の者、続けーっ! 相手はあの源氏である! 一歩も退くな! 戦えーっ!!」
「おおおおおおおおっ!!!」
双方の閧の声が森に谺し、源氏勢約五万騎に対し、平家も一気に攻め寄せる。ここから、各々で激しい合戦が繰り広げられてゆくのであった。