中編
知っている人も居るだろう。
アリストテレス論理学含むギリシャ哲学は、欧州の世界では一度失われた。
何故、アリストテレス論理学が失われたのか、先に示した中国の例を見れば、最早説明は不要だろう。
『覇権』国家となり、それ以上の発展や伸張性よりも、国内の権力闘争が重要になったローマ帝国は、非アリストテレス論理学を選んだのだ。
覇権国家の知識階級にとって、権威を覆し得るアリストテレス論理学は、いつ、どのような時代においても害と見做される物だ。
結果、知識階級の独占した、非アリストテレス論理学的で、身内向けの排他的なストーリーが世界を支配するようになる。
それは現代を通して、今後の人類の未来においても、変わりはしない普遍的な原理なのだろう。
しかし、欧州に転機は訪れた。
小氷河期が訪れ、ローマ帝国が衰退すると、キリスト教会が台頭して来たのだ。
欧州に絶大な権威を持つに至ったこの宗教は、異教であるイスラム教圏から旧ローマ帝国の領土と聖地エルサレムを取り返すために出兵を始める。
十字軍の遠征である。
十字軍遠征の際、キリスト教圏はイスラム教圏との戦いで、衝撃を受けた。
宗教的な体系において、身内向けの排他的なストーリーで盛り上がってきたキリスト教は、アリストテレス論理学によって発展を続けたイスラム教に対して、教義において圧倒的な敗北の道しか残されていなかったからだ。
体系化されていない異民族や異教徒の故事など、異国には通じない。
異文化には全く通用しないのが、故事に倣う論理の大きなデメリットなのである。
両者の言語の違い、また軍事力によって、当時の教義的な敗北はキリスト教圏の敗北には直接結びつかなかった。
キリスト教は度重なる禁令によって流入するギリシャ哲学の封じ込めを狙うが、イスラム教との文化交流は目覚ましく、禁令の効果は見られなかった。
しかしキリスト教圏は、この敗北によって、人類史を覆す決断に至った。
キリスト教教義へのアリストテレス論理学の導入である。
ギリシャ哲学での、師ソクラテスの死から弟子プラトンが引き継いだ難題である学問と権威の複雑な対立。
係累であるアリストテレス論理学は、最終的には権威と対立するハズの学問であった。
この本来権威と結びつかないハズのギリシャ哲学は、後に世界宗教となるキリスト教とイスラム教の宗教対立を通して、権威と化学変化を始めたのだ。
人類の激的な変化、決定的なターニングポイントはここから始まる。
キリスト教とアリストテレス論理学の、本来ならあり得ない化学変化を生涯を通して進めたのが、トマスアクィナス1225頃-1274である。
トマスアクィナスはアリストテレス論理学とキリスト教を合理的に融合させ、異文化にも対応可能な世界宗教へと生まれ変わる教義へと変化させた。
アリストテレス論理学とキリスト教は神学を通して不可分の物となり、ありとあらゆる概念が、内輪向けの排他的なストーリーから解放され、アリストテレス論理学を通して、より現実に即した、実物そのままに近い姿として、見られるようになった。
アリストテレス論理学の持つ発展性、伸張性が、西欧諸国の発展を後押しし、欧州躍進の原動力となった。
しかし皮肉にも、アリストテレス論理学による神学の探究は欧州を分裂させる事になる。
宗教戦争である。
生真面目な学者はアリストテレス論理学と極めて相性が良く、そして、権威とは相性がわるい。
カトリックの権威は、アリストテレス論理学による聖典の探究と相性が悪かった。
カトリックという身内向けの排他的なストーリーから、マルチン・ルターが解放されてしまったのだ。
この時、仮にカトリックが宗教でなく、単一の覇権国家であったなら、アリストテレス論理学は再び欧州から駆逐されていたであろう事は間違いない。
キリスト教は学問に対して度々、異端審問を始めていたからだ。
しかし、欧州は中国のような巨大な大河で繋がった一つの国ではなく、陸地で分断された多民族多文化の地域であった。
宗教戦争や地域覇権競争に際して、異文化への対応に必要不可欠となっていたアリストテレス論理学の喪失はキリスト教の衰退と同義であり、それはイスラム圏の台頭と同義であった。
かくして、宗教の生存競争の中、アリストテレス論理学は再び宗教対立のどさくさで生き残ったのである。
このように欧州の論理性は自明の物などではなく、いくつもの危機の中、辛うじて生き残ってきた物だ。
覇権国家であるイギリスではなく、新興国ドイツにおいて、大国に対抗するためにアリストテレス論理学を使ったドイツ観念論が発展し、思想対立によってギリシャ哲学が辛うじて生き残ってきたようにだ。
社会が宗教対立や思想対立を辞め、政治の分野が伸張性や発展性を求めなくなった時、その多くは国家が覇権国家になった時に、特に政治の分野から徐々にアリストテレス論理学は失われ始める。
アリストテレス論理学よりも、権力闘争により優位な非古典論理的な故事に倣う論理が圧倒的に優先されるようになるからだ。
では、世界覇権とも言えるグローバリズムのこれからの時代に、アリストテレス論理学はどのように失われていくのだろうか。
そして、非論理的な身内向けの排他的なストーリー、即ち故事に倣う論理はいったいどのように変化していくのだろうか。
次の話では、現代社会で拡張し始めた非論理的な身内向けの排他的なストーリーと、これからの社会のあり方を書きたいと思う。