前編
論理と聞いてまず何を思い浮かべるだろうか。
世の中には様々な論理が溢れている。
その中で、真っ先に我々が思い浮かべるであろう論理が、ギリシャ哲学の系譜から連なる古典論理だ。
中でも、古典論理の中核を成すアリストテレス論理学は、科学の発展に欠かせない思考方法だったと言える。
近代にかけて西洋世界が軍事、科学、経済で台頭するのにアリストテレス論理学は、最も活躍した思考方法だと言えよう。
断言するが、科学の発展に必要不可欠なアリストテレス論理学が無ければ、西洋はここまで発展出来なかった。
思考からアリストテレス論理学を除いてしまっては体系的な推測、認知を深める事の難度は一気に増してしまう。
論理学の初歩で、まずアリストテレス論理学が紹介されるのは必然と言えよう。
しかし、一般的な論理として紹介され、多くの人が主流だと認識しているアリストテレス論理学含む古典論理は、実は我々の使う論理の主流などではない。
では、我々の使う主流の論理とはいったい何なのだろうか。
例えば、古来中国では物事の判断を古典論理ではなく、故事に倣ってきた。
中国にアリストテレス論理学が伝来するのは1886年だ。
それまで中国はどのような論理をもって国家を運営してきたのだろうか。
1886年以降、アリストテレス論理学の伝来によって、唐突に中国の論理が変わったのだろうか。
非アリストテレス論理学である中国の論理体系の発展は、実に示唆に富んでいる。
もっとも、中国で発展した論理体系を現代人は『論理学』とは呼ばないだろう。
体系的に物事を考えられない場合、人は物事をどう判断するのだろうか。
中国の場合、思考対象により近い故事、つまり過去のストーリーから推察するのである。
その際、思考対象に近しい故事をより多く、正確に覚えてる側が思考判断の勝者となるのである。
中国の論理体系の発展は、常に過去のストーリーの暗記と共にあった。
暗記するストーリーは正確で緻密でなければならないが、多ければ多いほど良い。
結果、常人には到底不可能な大量のストーリーの暗記量と正確性で競う。
中国の論理体系の究極の姿が科挙である。
アリストテレス論理学ではなく、故事を使う論理には、明確なメリットとデメリットがあった。
まず、アリストテレス論理学は度々権威を無視する。
知識量ではなく、一度の反例の是是非非を争うアリストテレス論理学は、権威を無視し技術や思考の体系を優先するのである。
それは中国の知識階級らにとって明確なデメリットであった。
対して故事を使う論理は、アリストテレス論理学の持つ、思考の体系的な拡張性、伸張性はない。
故事に倣う論理には、過去のストーリーしかないからだ。
しかし、当時の覇権国家である中国国内で争う中国の知識階級らにとって、体系的な発展が出来ない過去のストーリーに拘る故事を使う論理は、大きなデメリットにはなり得なかった。
中国の人々が必ずしも非論理的だった訳ではない。
アリストテレス論理学は技術や知識を体系化するには、たとえアリストテレス論理学を知らなくとも普遍的な仕組みではあるからだ。
科学者、技術者に近い者は、必然的にアリストテレス論理学に近い論理を扱っていただろう。
しかし、近代までの中国において成果に対して名を残す技術者や科学者はあまりにも少ない。
その地域の知識階級がアリストテレス論理学を選ぶか、故事に倣う論理を選ぶか、余所者を追い出す事が可能な自国の故事に倣う論理を選ぶのは自明といえよう。
我々人種は権力闘争と不可分な生物だからだ。
しかし、歴史は故事に倣ってきた中国を勝者に選ばなかった。
世界の繋がる大航海時代を経て中国は欧州列強の植民地となってしまったからだ。
これらの話を聞いていて、身の回りで思い浮かぶ事はないだろうか。
古典論理ではなく、権威によって物事を判断したり、その知識量の量によって物事を判断する人は身近にいないだろうか。
我々の日常には、実に多くの非古典論理が溢れていてる。
行政を見れば、その決断は知識的な体系によってではなく、前列を持って決断がなされる。
これは典型な非アリストテレス論理学である故事に倣う論理と同一の物だ。
世界は、古典論理による秩序ではなく、慣習と幻想が支配しているのだ。
我々の社会において、アリストテレス論理学や古典論理は必ずしも主流ではなく、普遍的でもない事は説明出来たと思う。
多くの人が使っている論理は、ストーリーを伴う故事に倣った論理なのだから。
故事に倣う論理とは、体系的でなくとも、体験的には普遍的な物と思え、誰しもが利用出来る論理なのだ。
では、ここで謎が残る。
人類史に残る大きな謎だ。
何故、西洋ではアリストテレス論理学が主流と成り得たのだろうか。