第七話 [E]ぼくたちのゆうざい! - Aパート
百年前のパンゲア界、東グザイの川向こうの教会。
晴れた日の静かな夜、半月が光を伸ばした寝室。
ヌルは、引っ掻き音と呻き声で目を覚ました。
同じ部屋の、隣のベッドで眠る、ミリィが唸りながら全身を掻いていた。
身体は引っ掻いてはいけない、とヌルは教えられていたから、ミリィを止めることにした。
「ミリィちゃん、だめ! 女の子は、からだ、だいじしなきゃだめだよ」
ミリィの手首をヌルは掴む。ミリィは半狂乱になって、
「触るな!!!!」
と叫び、ヌルを突き飛ばした。ヌルは寝室の床に背中から倒れ、苦痛に泣き出した。
その声を聞いて、ミリィははっとした。いま自分の手首を掴んだのは、伯父でも実父でもないのだと理解した。
自分の皮膚から出た血で汚れた指が目に入り、さらに動揺して奇声を上げざるをえなくなったそのとき、騒ぎを聞きつけたマーキュリーが車椅子を押して寝室にやってきた。
「どうしたの!?」
マーキュリーが灯りをつけると、酷いありさまだった。床に座り込んで泣くヌルと、ベッドのうえで指を血まみれにしながら叫ぶミリィ。
どちらを先に落ち着かせるべきかすぐに判断せず、マーキュリーは目を泳がせた。ミリィのベッドの傍に、一冊の本が落ちているのを見つけた。それはつるぎがミリィに贈った、百年後のファンタジー小説だった。
「……ふたりとも、どうしたの?」マーキュリーはとりあえず幼いヌルに手を伸ばして頭を撫でた。「ヌルちゃん、何があったの?」
「ミリィちゃん、身体かいてたから。だめってやったら、さわるなーって」
「……そっか。何かあったのかもしれないわね。ミリィのほうは、何があったの?」
「マーキュリー」ミリィは泣きべそをかきながらマーキュリーを見た。「ごめんなさい。なんでもありませんわ」
「なんでもないなら、子供に乱暴する人じゃないことくらい、わかるわよ。一緒に住み始めて、何日経ったと思うの?」
「……悪い夢を見ましたわ。それで取り乱しただけ。それだけですわ」
「そう。……寝直せそう?」
「一度、身体を清めてきますわ。そうしたら、眠れると思いますの」
「わかった。湧かしてくるわね」
「私が自分でやれますわ。心配いりませんの」
「……そう?」
教会の浴室で、薪と着火剤を用いて湯を沸かした。ミリィは湯の温度を確認すると、入浴の準備をした。マーキュリーは陰からその様子を確認して安心し、ヌルの様子を見に寝室に戻った。ヌルは泣き疲れたのかぐっすりと眠っていた。
落ちているファンタジー小説を拾った。ミリィがゆっくりと読み進めていた作品で、生きる楽しみのように思っていたはずだった。それをこんな扱いしてしまうほどの悪夢なんて、と思いながら捲ってみると、強く握りしめられたようなページがあることに、マーキュリーは気がついた。
そのページでは、冒険仲間から引き離されてしまった主人公が野宿していたところ、野盗が現れ、大切な精霊の宝石を金目当てに脅し取られようとするシーンが繰り広げられていた。野盗は抵抗する主人公を寝床に押し倒していた。主人公の恐怖や緊張を緻密に描写するその数行には、涙の痕のようなものが散見された。
(ひょっとして、ミリィは。これを読んで、場面を思い描いて。それで、自分にされたことを思い出してしまったのかしら……)
次のページを捲ると、そこから主人公が暴行被害に遭うということはなく、すぐに宝石に封じ込められていた精霊が主人公を護るために不思議な力を発揮し、野盗を追っ払う――そんな展開が書かれていた。
そこから始まる精霊とのふたり旅も面白く温かいものであり、作者はあくまでも精霊の登場を印象深いものにしようと思っていただけであろうことは、マーキュリーには容易に想像できる。
(でもミリィは傷口が開くような気持ちになったのだから、そんなことは関係ないのよね。それで眠ることにしたら、引きずられて、そういう夢を見てしまったんだわ、きっと)
物語の表現が傷を開くことがあるのだ、とマーキュリーは知る。そして翻ってみると、たしかにマーキュリーも以前、恋愛をしない者は痩せ我慢をしているだけ、というような描写のある物語に息苦しさを感じたことがあった。
読み手を苛む可能性のある表現。
(あたしの物語は大丈夫かしら?)
マーキュリーは不安になった。
ミリィは、いま読んでいる――この先も読み続けるかどうかは不明だが――ファンタジー小説を読み終わったら、マーキュリーが書いたファンタジー小説を読むと約束してくれていた。
マーキュリーはつい最近、三作目のファンタジー小説を書き終えたところだった。
その三作のなかに、たとえば性暴力を連想させるくだりはあっただろうか?
(たしかめないと。そして、直さないといけないわ。
あたしだったら、そんなシーン、あってほしくないものね)
ちなみにミリィに件のファンタジー小説をあげたつるぎは、そもそもざっくりと数冊買ってきたなかから、あらすじに不穏そうな設定のないファンタジー小説を選んで渡しただけだった。つまり、未読だった。
もしも最後まで読んだあとに渡していたならば、その可能性を予想し別の本を渡していたため、これはつるぎの確認不足による事故ともいえる。
けれど、ミリィはそうは思わなかった。
(私は……弱くなってしまいましたのね、すっかり)
石鹸で身体を洗いながらそう思って、
(弱くされてしまったのですわ、すっかり。
私は、実父と伯父に、精神までも)
ミリィはぞっとする。身体だけではなく、精神もボロボロにされてしまったのだと、改めて自覚して、浴室の床に吐く。汚い、と思いながら湯をかけて流す。
汚い。
きたない。
(きれいになれば、強くなれますの?)
マーキュリーは気になって寝つけなかったこともあって、表現のチェック作業に集中していた。そのせいで、気がつくのに遅れてしまった。
一旦清めるくらいのはずだった、ミリィの入浴がいやに長引いていることに、思い至るまで――時間がかかった。
「ミリィ?」
マーキュリーは気になって、浴室に行った。すると脱衣所に吐いたところで、ちょうどミリィが浴室から出てきた。
マーキュリーはぎょっとした。ミリィは全身が真っ赤だった。一瞬、そんなに熱い風呂に入っていたのかと思ったが、すぐにその赤が熱ではなく、引っ掻き傷であることに気がついた。
「マーキュリー。どうしましたの?」
「こっちのセリフ。いったい、どうしたっていうのよ? その身体は」
「全身、しっかり、くまなく、ごっそり、洗いましたのよ。泡のついた爪で、隅から隅まで汚れを擦り落としましたわ。どう、綺麗でしょう?」
そういって笑うミリィの肌から、じわりと血が滲み始めたのをマーキュリーは見た。
「傷になってるわよ! 軟膏……いや、天使室に!」
マーキュリーは先に天使室に入って、天使を呼んだ。まず、男性の天使がやってきた。
「こんばんは。どういったご用で?」
「あの、いつもの天使様は?」
「ご存知ありませんか? 彼女は日中だけです。夜勤は僕が」
「ごめんなさい、女性の天使を呼んでほしいの。事情があって」
「……そうですか、わかりました」
少しして、女性の天使がやってきた。マーキュリーは天使室にミリィを招いた。
天使の魔法で傷も肌の赤みもなくなると、マーキュリーはミリィを抱きしめていった。
「ミリィ。あなたは綺麗。あなたはもうすっかり綺麗なのよ。
だってお風呂に入ったもの。
お風呂で落ちない汚れなんて、この世にはひとつもないわ」
ミリィは抱き返すことはせず、代わりにマーキュリーに訊いた。
「マーキュリー。机の上にあるのは、あなたの作品ではなくて? さっき待っている間に見ましたわ。あれは何をしていたんですの?」
「……あれは、ミリィがいつか読むことを見越して、直しを入れるための印をつけていたのよ」
「直し?」
「ねえ、ミリィ。あなたは、読んでいる小説のなかのシーンにショックを受けてしまって、それで悪い夢を見てしまったんじゃないかと、あたしは思っているのだけれど。あっているかしら」
「そうですわね。それはまったく、その通りですわ。それで?」
「あたし、それで、不安になってしまったのよ。あたしの書いた小説もあなたを傷つけてしまうのではないかって。だから、その恐れがあるところを削って、書き直そうと思ったわ」
「やめてくださいまし」ミリィはかぶりをふった。「そんなこと、しなくてよいですわ」
「あたしはミリィを傷つけるような表現を届けたくないの。だから、直し終わったら、読んで」
「やめろといっているの! ねえマーキュリー、私はそこまで弱く見えますの? あなたの自由な想像を抑圧してしまうほどの弱者に、私が見えますの!?」
「ミリィ……」
「だとしたら、それもまったく、その通りなのかもしれませんわね! 私はすっかり弱くなってしまいましたわ! 昔はなんでも読めたのに、恐ろしい話だって誰かが傷つく話だって、なんだって楽しめる強い読者であったのに! 気がつけば、ずいぶんと迷惑な読み手になってしまったものですわね」
「……ミリィ。あなたは弱くないわ。あなたは弱いんじゃなくて、傷口があるだけ。どんなに強い人も、筋肉のある人も、傷口を刺されたら暴れたり泣いたりするわ。それってなんにもおかしくない普通のことよ。誰かの傷を刺さないように気をつけて生きることも、また普通のことじゃないかしら」
「詭弁ですわ。結局、弱点が増えているということですもの。ねえマーキュリー、お願いですから、お黙りになってくださいませんこと? 慰めさせることも苦しいって気持ちを、どうしてわかってくれませんの?」
マーキュリーは、そういわれると返す言葉もなかった。マーキュリー自身にもしっかりと身に覚えのある気持ちだった。かわいそうがられている、と理解したときの肌寒さ、申しわけなさを、マーキュリーが一番理解していたはずだったのに、いま自分がそれを味わわせているのだと自覚した。
傷つけた、とマーキュリーは思った。
知らず、憐れみの手で折れるほどに握りしめてしまったのだと悟った。
「……ごめんなさい。余計なことばかりね、あたし」マーキュリーは頭を下げた。
「そうですわ! 余計ですわ」ミリィは勢いで続ける。「謝罪だって余計ですわ。謝ってほしいわけじゃ、頭を下げてほしいわけじゃないんですのよ。ただ」
ただ、とミリィはいう。
「放っておいてくださいまし」
「……わかったわ。おやすみなさい」
素直にいうことを聞こう、とマーキュリーは思って寝室に戻った。
それから思い直して、成犬ブギとウーギーのもとに行き、ブギを抱きあげて顔を埋めた。なんで慰めようとしたあたしが黙れなんていわれなきゃいけないんだ、という大人げない気持ちを押し流すように、犬を吸った。ブギは急に起こされて迷惑そうな顔をしたが、鳴きも暴れもしなかった。マーキュリーはすっかり落ち着くと、寝室で眠った。
ミリィは受け手のマーキュリーよりも自分の言葉を冷たいものに感じて、ひとり焦った。
けれど、もうその夜は眠るほかになかった。寝つくまではとても時間がかかった。
次の日、朝の散歩に出かけるミリィとヌルとブギとウーギーを見送った。膝のうえの仔猫のドゥワップを撫でながら、マーキュリーは考える。自分はどうするべきなのか、と。
(直していないと嘘をついて、直したものを読んでもらう? いいえ、そんなのってないわ。ばれてしまったらもっと傷つけるだろうし、信頼関係に響いてしまう)
関係、とマーキュリーの脳内に浮かぶ。
教会で生活をともにし始めて、打ち解けてきていたところだった。お互いに敬称を抜いて声を掛け合うようになった。マーキュリーはミリィを庇護したい気持ちがあったけれど、それはそれとして、互いの経験や傷を認め合う対等な関係でもありたいと考えていた。
しかし、昨晩のマーキュリーは、対等であっただろうか。
ミリィが拒む形の庇護を、自分がそうしたいという気持ちのために、どうにか押し通そうとしていなかっただろうか。マーキュリーは振り返って辛くなった。
とにかく、小説の表現修正はしないほうがよいとマーキュリーは思った。修正することそのものの是非はさておき、ミリィはそれを求めていないのである。
(でも、あたしは、耐えられるかしら。ミリィがあたしの書いたものを読んで、悪い夢を見たり気性を荒らげたりしたとき、罪悪感に圧し潰されないといえる? いえないわ)
結局は、マーキュリー自身の気持ちが枷になった。思考をそこから進められないでいると、散歩を終えたふたりと三匹が帰ってきた。みんなで昼食を済ませると、ミリィはマーキュリーを呼んでふたりきりにした。
そしてミリィはマーキュリーに謝った。
「昨晩はごめんなさい。どうにも気が立っていて、非難ばかり……。私、混乱しておりましたの。久しぶりの悪夢にも、ヌルを突き飛ばしてしまったことにも、マーキュリー、あなたの小説世界を自分の傷が捻じ曲げてしまう可能性にも」
「気にしないで、ミリィ。あたしも、ミリィがやめてほしいっていったなら即やめるべきだったのよね。ミリィのためみたいな顔をして、ミリィの顔をきちんと見れていなかったわ」
マーキュリーはミリィに手を差し伸べた。
ミリィはそれに応えて、仲直りの握手をした。
それからマーキュリーは訊く。「ねえ、あのあと寝直したのよね。悪い夢は見た?」
「……違う夢を見たと思いますわ。恐ろしい記憶のものではないけれど、寂しい夢」
「そう……」
まだ不安そうにするマーキュリーに、あまり心配なさらないで、とミリィはいった。
「悪い夢くらい、教会に来るまでは毎晩のことだったのですのよ。何も読まなくても焼きついて疼き続ける暗闇のなかにいましたの。伯父が家に来るたびに、顔を合わせてもいないのに思い出して、窓の外に吐いておりましたのよ。死にたい気持ちばかりでしたわ。そのころに比べたら、教会で暮らしているいまは、そうそう吐かないし、色んな気持ちになれるから、マシなほう。だから、殊更に心配をされても居心地が悪いですわ」
「……だとしても、少しでもミリィの痛みを軽減したいと思ってしまうわ。ごめんね、あたしは、ミリィのことがどんどん大切になってきているのよ」
「その気持ちは嬉しいですわ。けれども、私もマーキュリーには感謝していて、大切だからこそ、マーキュリーの自由な想像を私の傷のせいで抑制してしまうことが心苦しいのだということを、お忘れなく。……あの下衆どものせいで大切な人が何かを我慢することになるなど、我慢ならないのです」
「ミリィ……」
「何も奪わせませんわ。私の自由も、マーキュリーの自由も。クソどもなんかに、何も」
これ以上、何も。
ミリィは拳を握りしめて、汗ばんだ手を服で拭った。
「ねえ、ミリィ。そうはいっても、やっぱり突然、そういうシーンに出会うと、ミリィはすごくびっくりするのよね。寝る前に読んだら、夢に出てしまうほどなのよね」
「ええ。それは事実ですわ。でも」
「だったらあたし、いま考えたんだけれど」
マーキュリーは修正が必要な個所の印として、小説を書く紙につけていた、付箋を指さす。
「この付箋があるところは、ミリィにとって辛くなるシーンな可能性がある。そういう証を残しておいたら、ちょっとは、楽かしら?」
「……そうですわね」ミリィは頷く。「心の準備ができますわ。明るいうち、誰かがいるときに読んだり、これは申しわけがないですが、薄目でさっさと読み進めてしまったり、することができることでしょう」
「じゃあ、そうしましょう。もしも付箋のないところで、気になったところがあったら遠慮なくいってちょうだいね」
「ありがとうございますわ」ミリィはそういって、それからマーキュリーの瞳を、じっと見た。「マーキュリーは、どうしてそんなに、私に寄り添おうとするんですの? 私、マーキュリーを助けるようなこと、ちっともできていませんのに。どころか、酷いことをいう日もありますわ」
「なんでかしらね。何をいわれても気にならないってわけでもないのにね。それでもあたし、ミリィが傷つくだけの世界やミリィを傷つけるだけの人は、間違っているって感じるから、なのかもしれないわ」
「……あやふやでして? おかしな人ですわね」
ミリィはそういって笑った。
ふたりの足元に、ドゥワップが歩いてきた。
陽の光に飾られた寝室で、ヌルとブギとウーギーが昼寝を始めた。




