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第十話 [E]誘拐 - Bパート

 天使室に入っていくミリィの背中を見ながら、そうはいったけれど、とマーキュリーは懸念する。


(『一緒に暮らす人には、幸せでいてほしい。不幸な人と暮らしていると、どうしても気を遣ってしまう』なんていってしまったけれど、不幸なところを隠すような子になってしまったりは、しないかしら?)


 マーキュリーとしてはそこの時点で嘘だから真に受けないでほしかったが、真に受けないよう誘導するタイミングは見つからなかった。どうしたものかと考えたあと、まあいまはいいか、と結論づけた。

 時間はきっと、たっぷりある。悲しむ時間も、話す時間も。

 そのなかでそれとなく訂正ができたらよいかと、マーキュリーは思った。



 ミリィは天使室のなかで、天使を呼ぶベルに手をかけた。少し揺らせば、天界から天使がやってきて、用を聞いてくれる。そのとき、してほしいことをいえばよい。ミリィはそれを揺らしてしまえば、もう戻れない気がして、汗ばんだ。

「私のせいではありませんわ」ミリィは唱える。「私のせいではなくて、ぜんぶ、マーキュリーさんのせいですわ」

 いってみたけれど、しかしまったく腑に落ちず、虚ろに響いた。罪悪感すらあった。ミリィはそれでも、

「マーキュリーさんのせいですわ、マーキュリーさんのせいですわ」

 うわごとのように続けた。呪うように続けた。注射を嫌がる子供が歌うことで気をそらそうとするみたいに口を、舌を、動かし続けた。


 りる、と鈴が鳴った。


 マーキュリーはその壮大な物語のエピローグをゆっくりと綴っていた。けれど、涙で終わらせるべきか、笑顔で終わらせるべきか、ということでとても悩んでいた。趣味の執筆でしかないとしても、小説としての美しさを気にしなくてよいとは思えなかった。むしろ誰かに急かされているわけではないからこそ、どこまでもこだわり、悩みぬくことが楽しかった。


 ドアが開いた。天使室に繋がるドアだった。

 ミリィはその手に、水の入ったガラスビンと完全栄養ゼリーを持っていた。


「ミリィさん。それは?」


 マーキュリーが訊くと、ミリィはとても小さな声で、いった。

「天使様が、おつかれさまと、おっしゃって、私をねぎらって、くださったの」


 ミリィはマーキュリーの車いすの手すりを掴むと、膝から崩れ落ちて、叫んだ。叫ぶように、号泣した。それは今年いちばんの豪雨のように思えた。命を絞るような、喉をぶち殺すような声だった。叫んで、泣いて歯ぎしりして、車椅子が傾きそうなくらいにしがみついて、頭を垂れて、ごめんなさいと謝って、どうしてと嘆いて、許せないと怒って、クソと罵って、もう嫌だと喚いて、死にたいと求めて、殺してくれと願って、わけがわかんないと惑って、あいつらこそ死ねばいいと呪って、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いと悶えて、その傍らに髪を掻き毟って、爪を噛みちぎって、床を殴って殴って殴って、ガラスビンを壁に叩きつけて割って水を撒き散らして、それから嘔吐して、それでも叫び続けた。いままで栓をされていたみたいに、ミリィの体内で熟成された地獄が喉と手に向かっていつまでも昇っていった。


 マーキュリーはすべてを黙ってみていた。金切り声で耳が痛くても、はねた水が少しかかっても、吐瀉物で車輪が汚れても、いまは気にしないふりをした。抱きしめることもせず、黙って見ていた。ミリィは暴れるなかで車椅子を強く押し、マーキュリーを遠ざけたけれど、それにも文句はいわないことにした。


 やがて、がらがら声で、ぼさぼさ髪で、ミリィはいった。

「たすけて」


 マーキュリーは少し悩んで、講壇の上に置いてあったいちご大福をひとつ、ミリィに差し出した。

「お疲れさま、ミリィさん」

「マーキュリー、さん」

「お腹すいたでしょ。つるぎさんからお菓子とお昼ごはんもらってるから、一緒に食べるわよ」

 いちご大福をミリィが受け取ると、マーキュリーはその頭をそっと撫でた。

「えらかったわよ、たすけて、って、いえて」


 ミリィはまた泣き出して、それを止めたくて、いちご大福を貪り始めた。



 つるぎが用意した昼食は六つのトルティーヤだった。ふたりにとっては知らない料理で知らない野菜が入っていたけれど、食べてみるとなかなか美味しいものだった。ミリィにはカレー粉の入ったものが、マーキュリーには玉子を中心としたものがとくに美味しく感じられた。


「美味しいですわね。これ、食べ終わったらもう食べられないと思うともったいないですわ」

「そうね。晩ごはんもいただいているけれど、明日からはゼリー生活だわ」

「天使様から賜わるものだから、文句などはいいませんわ」

「……ミリィさんは」

 これからどうしたい、とマーキュリーは訊きかけて、やめた。これからの人生の話は、もう少しだけあとのほうがよいかと思った。代わりに、

「ミリィさんは、今日、このあとどうする?」

 と訊いた。

「少し疲れてしまいましたから、ひと眠りさせていただくつもりです」

「そう。教会のなかのベッドを好きに使っていいわよ」

「感謝しますわ。マーキュリーさんは?」

「まあ、小説でも書いているわよ」


 食事を終えたミリィは、おやすみなさい、とマーキュリーに一言告げて、教会の患者などが眠るベッドに身体を預けた。それから眠ろうとして、また涙が出てきた。


(私はずっとこの教会にいるのだろうか)

(父や伯父が到底たどり着けないところに、信頼できそうな年上の女性に保護されて暮らせるというのはありがたいことだが、それ以外の生活を求めることは一生できないのだろうか)


 贅沢な疑問だとミリィ自身もわかっていた。少なくともいまは、男性と関わり合いになりたい気持ちは更々なく、この教会のなかで心身を休めていたいと考えている。それが最善だと理解している。

 けれど、とミリィは自分の腹部を撫でる。


(私の人生の可能性は、選択の余地は、もうないのだろうか。結局、父と伯父に奪われて、奪われっぱなしのままで死ぬことになるのだろうか)


 中絶手術の最中で、ミリィは改めて父と伯父を憎んだ。そして、自分の人生は理不尽に歪められてしまったのだと、どうしようもなく悟った。しかも父と伯父は、自分がいなくなって大変なこともあるかもしれないが、それでも長閑なジンコゥの町で仕事をしたり食べたいものを好きに食べたりできるであろうことが予想された。


 悔しいと、心底思った。

(けれど、男性のいないこの場所から出て暮らすという未来は、やはり、考えられない。マーキュリーさんとの生活は、きっと楽しいものだと思う。ファンタジー小説の話だってできるし、マーキュリーさんが書いた物語をたくさん読んでみたい。食べものだって着るものだって、別に選べなくていい

 というか、何をどうしたところで、あの川を私ひとりで渡れるわけがない)


 ここで暮らすことを選び受け入れることが最善であるという確信と、父と伯父のせいでここ以外を選べなくなってしまった悲しみで、涙があふれてしまう。けれどそれはマーキュリーに話してどうにかなるものでもないとわかっていたから、ミリィは息苦しさをなすりつけるように、枕に顔を埋めた。


 マーキュリーはいちご大福をつまみながら、どうしたものか、と考えた。ミリィの傷は今日で癒えるようなものではなく、これからも定期的に気分の落ち込みがぶり返してしまったり、思い出して傷ついてしまったりするものではないだろうか。何か気晴らしが必要なとき、この場はあまりにも選択肢が少ないのではないかとマーキュリーは不安だった。


 天使室で抗うつ薬のような作用の魔法をもらえることはマーキュリーも知っていたが、それさえあればよいという話では全然なかった――ミリィに寄り添い続けることが自分にできるだろうか、とマーキュリーは思う。人と人が暮らして、絶対に決裂がないといいきることはできないのではないかと、船内生活を思い出すと不安にならざるをえなかった。


 ミリィがたとえば、精神的なダメージの大きさから罵倒を振りまくような行為に出たとして、自分は許せるだろうか? 許し続けられるだろうか? マーキュリーは、自分はそこまで心の広い人間ではないと自覚している。きっといつか怒り、クールダウンの時間を必要とするときがくる。マーキュリー自身のストレスは創作と睡眠でどうにかなるけれども、しかしそのときミリィの精神も放置できない状態となっている。ミリィのケアは誰がすることになるのだろうか、と考えるとマーキュリーは息が詰まる思いだった。


 ロケットペンダントを開ける。愛犬の顔を見る。この肖像を眺めているともちろん嬉しいが、同時に故犬であることを思い出すと寂しくもなる。犬を抱きしめたい、とマーキュリーは思う。そして、ひょっとするとミリィだって、寄り添う犬がいれば少しは気が楽になるかもしれない、などと考えてみる。ミリィは犬が好きだろうか、このロケットペンダントをつけていたということは毛嫌いはしてないと思ってよいだろうか?


 ミリィのことを考えるのに疲れ、犬のことを考えて自分を癒しているだけだと、マーキュリーは気づいている。それでも少しだけ浸り、犬とはそういえばどんな感触であったか、もうずいぶん触っていない、犬がほしい、と切ない欲望が鎌首をもたげたけれど、犬など、マーキュリーのいる隔絶された地にはどこにだって居はしないのだった。


 なんだか余計にしんどくなってきて、溜息をつこうとしたところに――勢いよく、教会の入り口の扉が開けられる。


 マーキュリーの視界に、つるぎと、二匹の犬と、一匹の猫と、年端もいかぬ女児が飛び込んできた――空飛ぶじゅうたんに乗って。


「……なんで?」

「ごめんなさいマーキュリーさん、お願いしていいですか」つるぎは絨毯から降りると、真剣な顔でマーキュリーを見つめていう。「この子たちを、ずっととはいわないので、ここで保護していただけませんか」

「えっと、ちょうど犬を撫でたくなっていたから、その、あのね、撫でてもいい?」

「それはちょっと様子を見ていただけると。もしかしたら人間が怖いかもしれないので。というか説明したほうがいいか、この子たちはポールトルからさらってきました」さらっとつるぎはいう。「一応、追いかけられないように迂遠なルートで来ました。その間に傷も治療しましたが、精神面はまだわかりません――」


 そのときドアの開く音がして、視線が集まる――ミリィがそこに立っていた。

「ミリィさん」とつるぎがいう。「そうだ、ミリィさんにも説明というか……お願いしないといけないですよね、えっと、この子たちを教会で保護してもらいたいのですけれど、いいですか?」

「なんでもするので、聞いてほしい願いがありますの」とミリィは憔悴の感じられる声でいう。

「あ、はい。お願い。なんでしょう?」


「つるぎさんの力で裁きを下して、私の父と伯父を殺してくれませんこと?

 あのふたりがいまも罰のひとつも受けずに生きている事実が、私にはどうしても、耐えられませんの」

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