第八話 [E]ポヰズニング・エスケヱプ - Bパート
「あ、おはようつるぎ。ミリィさんこっちに連れてこれたんだね。よかった大成功」
「何もよくありませんから」湊の隣でパトスがいう。「なぁんにも、よろしく、ございませんから」
百年後の世界――つまり、元の世界。
誰もいない早朝、宿屋の外で話していた湊とパトスのもとに、起きて支度を終えたつるぎとミリィがやってくる。もう変装をする必要はないが、つるぎはミリィにウィッグとメイクとコンタクトを与えていた。
「よくなかったなら僕が提案した時点でいってくれればよかったのに、声届けられるでしょう」
と湊は身分証明カードを撫でながらいった。
「わたくしは貴様らの監視だけして過ごしているわけではないのです。昨夜は大神官としての業務などを消化するため天界に戻っておりました」
「それでこのような結果を許したと。監督不行届ですね」
「先程からどういう態度なのですか! ちょっとは申し訳がないという素振りをいただいてもよいのではないですか! 異世界からものを持ってくるのは推奨されないと先日に申したでしょう!」
「やだな、ものじゃないですよミリィさんは。女性をモノ扱いするなんて酷いです、あなたをリコールして僕が大神官になってつるぎに仕えます」
「バケモノですかあなたは!」
「湊くん、無理に言い負かそうとしなくていいから」
とつるぎはいい、パトスに素直に頭を下げる。
「パトスさんごめんなさい、それ以外にいい案が出なくて。ちょっと深くは話せない事情なのですけれど、ミリィさんをあの家にいさせるわけにはいかなかったんです」
「……謝られても、こうなってしまったものは取り返しがつきません」
パトスはツルギの後ろのミリィに目を向ける。きょろきょろとしていたミリィは、その視線に怯えを見せる。
「貴様がミリィさんですね?」
パトスの呼びかけに、ミリィは何もいえない。
男性を前に、胸がぞめきだす。
「ふたつ、お約束していただけますでしょうか?
この世界に影響を与えないこと。騒ぎを起こさない、他人と会話をしない。百年前の世界あるいは異世界から来たなどと口にしないこと。
そして百年前の、貴様がいた世界……貴様がいた時代に戻ったとき、この世界で観たものや、そもそも百年後の世界に行けたというようなことを、いかなる場合であっても吹聴なさらないことを。
この世界とは異なる可能性の世界が存在しているという事実は、天界関係者以外には決して知られてはいけない機密なのでございます」
パトスはミリィの瞳をじっと見ていった。
ミリィの頭に、パトスの話はあまり入ってこなかった。パトスの背丈は伯父と同じくらいだった。目つきの鋭さも、どこか似ていた。そのせいで恐怖に拍車がかかり、手足が震えた。
「ひとこと、はいと仰っていただければよいのですよ。わたくしに約束をしていただければ、それで物事は平和に済むわけです」
「……えっと」消え入りそうな声でミリィはいって、それでまた止まってしまった。パトスの穏やかな口調から、しっかりと圧を感じ取ってしまっていた。
「……やれやれ。あまりもたもたとしないでいただけますか? ふたつ返事で許してあげようという優しさを――」
「うわ、パトスさんって結構重たい帽子被ってるんですね。偉いコックさんの帽子もこんな感じなのかな」
パトスの背後で、湊がいった。
湊はパトスの大神官帽をいつの間にか奪い、被っていた。
「な、な……何をなさっているのですか? 勇者様」
「いや、どんな感じなのかなって。ああすみません、ちょっとトイレに行ってきますね」
湊はそういうと、少し遠くの茂みに走り出した。
「ちょっと、お待ちください! 大神官の帽子をつけたまま立ち小便でもなさるのですか! 天界の評判を一滴で下落させるおつもりですか!??」
「トイレへ急ぐ憐れな僕に、待てだなんて酷い人!」
パトスも湊も遠くに行ったところで、つるぎはしゃがみこむミリィに水を差しだした。
「大丈夫ですよ。遠く行きましたから」
「……申し訳ありませんわ。この程度で、取り乱してしまって」
「自分が本気で苦しんでることを、この程度なんていっちゃだめですよ」
「ありがとうございますわ。……男性との、あの距離の対面は、辛いものがありますわね」
「そうですか、わかりました。パトスさんには代わりに返事をしておきます」
湊から帽子を奪還して戻ってきたパトスに、つるぎはいう。
「伝言です。『承知しましたわ。私は、決して、喋りません』」
「はあ……面倒だからもうよいです。御約束、違えぬことを願います」
パトスはそういうと懐から銀の横笛を取り出して、三音ほどのメロディを吹奏した。
大きな羽ばたきの音とともに、天翔ける白き巨大カラスが、大人の上半身ほどある羽を一枚落としながら、舞い降りた。
「キュイド。今回はひとり乗客が多いが、侵入者ではない。わかってくれるね」
白カラスのキュイドは、かあ、と鳴いた。それは了承だった。
「いい子だ。さて皆様、どうぞお先にご乗鳥くださいませ。つるぎ様、ミリィさんはお慣れでないでしょうから、ご補助のほどよろしくお願いいたします」
「はーい」
ミリィはなんにもついていけていないまま、つるぎに手を引かれて、キュイドの上に乗った。キュイドはパトスを乗せると、ゆっくりと飛び立った。朝の散歩をするジンコゥの町民が、誰か見ていた。
朝食のバターパンを食べる。つるぎと湊はもちろん、ミリィもゆっくりと食べていた。妊娠で体力がそもそもあまりないうえに一日絶食の状態で、何も食べないほうを選ぶ気力はなかった。
家々がゴマのように小さく見える高度を飛びながら、ここでもし突発的に飛び降りたら死ねるのだろうか、などとミリィが考えていたのを見透かすように、つるぎはいう。
「安心してくださいね、もしも落ちちゃっても、わたしも空を飛べるので助けます」
「……本当に神様なのですわね」
ひとまずそれだけは、やっとこさ飲みこめたミリィだった。これだけの超常体験をさせられては、神性を認めざるを得ない。もっとも、パトスとしては看過できない発言であったため、
「つるぎ様は研修中の身でございます。権能こそ持ち合わせておりますが、先代女神の足跡を辿る旅を終えて初めて、女神としての第一歩を踏み出すこととなるのです」
と訂正することを忘れなかった――それはミリィにとってはつるぎから説明済の内容ではあったが、しかし昨夜よりも真実味を持って受け止めることができる。
「それでパトスさん」つるぎはいう。「このまま次の町に行くんですか?」
「さようでございます。次の町はグザイという名の、大きな橋が特徴の町です。先代女神のキャルゼシア様は、その橋をお架けになりました。キャルゼシア大橋と呼ばれております」
「橋ですか。まあ、今日見た橋をそのまま架ければ安牌ですよね。カンニングみたいですけれど」
「ええ、そのままお作りいただきたく存じます。決して自己判断で別のことをなさらぬように」
と釘を刺されているのを聞きながら、まともにやらないせいで閑職に追いやられたとつるぎがいっていたことを思い出し、根っからそういう人間なんだ、とミリィは思った。その印象と女神研修生であるという事実が、やはりどうにも結びつかなかったが。
グザイは山間の大きな町だった。ダリアンヌ以上、どころかリリシシア城下町にも引けを取らないほどである。つるぎは書斎で読んだ内容を思い出す。たしかふたつの町がひとつに合併したところがあって、それがグザイという名前の町だった。
驚くべきは、グザイの教会は広い町の西端にあることだった。東端に住む人が命に係わる事態になったとき、危うくなりそうな距離だった――そんなことでどうするのだろう、とつるぎがパトスに訊くと、
「キャルゼシア大橋はその東端から架かっております。そして大橋の向こう岸に、またひとつ教会がございます。そもそもその教会にリーチできるようにするために、キャルゼシア様は大橋をお架けになりました」
とのことだった。
そうなると、元からそこには教会があったということになる。つるぎの知識では、教会はそもそも人が住むところを天使が確認し、現状の規模に合わせて女神が生成、その後は民が必要に応じて増築を要請し大きくしていくものである。
誰も住んでいないところに教会を建てるわけがないため、橋の向こうにも村か何かがあったのだろうか、と想像してみるが、それもしっくりこなかった。他所の町と勝手につなげられて教会を利用されてしまってはひと悶着ありそうなものである。ひと悶着あって、解決しただけだといわれてしまえばそれまでだが。
「合併っていつあったの?」と湊はいう。
「それも百年くらい前じゃなかったっけ?」とつるぎ。
「さようでございます」とパトスが続く。「キャルゼシア様が大橋をお架けになった少し後、合併がございました。西端のほうにありました富める町に、東端の貧しい町が助けてもらうような形でひとつの町となりました。その力関係ゆえに西端の町の名前であるグザイがそのまま使われております」
「なるほど。その東端の貧しい町に橋を架けに行くんですよね?」と湊。「そっちの町の名前は?」
「ポールトルという町であったと記録されております」
グザイに降り立った四人はまず宿に向かった。パトスがオーナーに、客がひとり増えること、つるぎと同じ部屋に泊まることを告げる。オーナーは広い部屋に移動することを勧めたが、それは断った。つるぎはミリィを部屋に入れると、宿のサービスで置いてあった温かい麦茶を湯呑に淹れる。
「ありがとうございますわ」
「え? 感謝を催促されたのかと思った」
「わかっておりましたのね、私の気分がすぐれないことを」
「妊婦さんですし、大丈夫かなって気にしてました」
ミリィはベッドに腰掛けて、麦茶をゆっくり飲む。彼女にとって飲んだことのない種類の茶であり、ブラックティーとは違う香りを楽しむように目を細めた。
「じゃ、ちょっと出てきます。すぐ戻りますから」
つるぎはそういって部屋を出て、本当にすぐに戻ってきた――色とりどりの十冊の本を持って。本読みの性か、宿の傍に小さな書店があったのをつるぎはしっかり覚えていて、異世界だから何を読んでも未読だろうということで、天界印のホワイトカードでざっくり買ってきたのだった。
「……別に、部屋にいなくてもよいのではありませんこと? あのナバナという男、あなたの恋人なのでしょう」
「ミリィさんが心配で」
「心配しなくとも、……百年後なんて信じられませんけれど、でも、違う世界なのでしょう? そんなところに父や伯父が来るとは思っておりませんし、自殺をするつもりもありませんわよ」
「本当ですか?」
「あら、疑いますの? 私、恩人の泊まる部屋を血や糞尿で穢すようなはしたない真似はいたしませんわ」
「……そうですか! じゃ、これ読んで待っててください」とつるぎは買ってきた本から一冊、ファンタジー小説をミリィに手渡した。「暇な時間があるでしょうし」
「ええ、楽しみに読ませていただきますわ。いってらっしゃい」
「いってきます」
ひとり残された部屋で、ミリィは飲みかけの麦茶を卓上に置き、ベッドに倒れこんだ。ひとりになると、途端に自分の身体が気色悪くなる感覚に襲われた。
伯父の子だと思って絶望していたけれど、実父の子である可能性が浮上し、もはや絶望する気力もなく、ただずっと混乱し、ただずっと、拒否感だけが蠢いていた。
この身体を自分のものとして動かすことを拒みたかった。
この身体が自分のものであるという事実を否みたかった。
でも、揺るがぬ事実だった――スーから伝えられた情報を反芻するたびに走る鳥肌が、動かぬ証拠だった。
ミリィは洗面台に立ち、嘔吐した。
それが悪阻であるのか、自身の肉体に抱く気色悪さによるものであるのか、わからなかった。
鏡があった。自分が映っていた。思わず笑ってしまった。銀髪のウィッグを被せられ、ミリィの人生では見たことのない謎の技法による化粧が施されていた。まるで別人だったけれど、別の人間として生きていけそうなくらいだったけれど、こんなもので。
「こんなものでおまえはおまえのじんせいからにげられない」
生きている限り。
生きていく限り。
身体に宿した子を、産むか殺すか。そしてその選択で、ミリィの人生が終わるわけではない。記憶は残る。記録にだって、どこかに残るかもしれない。
ミリィの人生はもう、ミリィの理想のものには絶対にならない。
真っ暗な井戸のなかにいるような気持ちで、ミリィはひとり、呟いた。
「わたしはにげられない」
「大丈夫ですか?」
背後につるぎがいた。
ミリィはびっくりしてひっくり返った。
「な、なんで」
「忘れものしちゃいまして」つるぎはそういいながら水筒を見せた。「水分補給って大事ですから」
「……私のことも忘れてくださいまし」
「苦しむ民を忘れちゃあ、女神失格ですよ」
つるぎはそういうと、ミリィを優しく抱きしめた。背中を優しく叩き、歌うようにいう。
「ミリィさんが自分の身体に何を選んでも、ミリィさんは何も悪くありませんよ」
「……命は、それでも、……命ですわ。捨てたいなんて、私は、間違っています」
「実はわたし女神をぶっ殺しちゃったんですよ。湊くんがいじめられてたんで。それでなんやかんやあってわたしが代わりの女神になることになったんですけれど」
「いまなんていいましたの?」
「湊くんを幸せにして自分が幸せになるために命を奪ったんです。きっとこういう倫理観を世界的に肯定するようになったら滅茶苦茶になっちゃうし、いっぱいの人が悲しんだり自由を奪われたりすると思うから、絶対よくないと思っています。だって、事実わたしも色んな人に迷惑をかけて悲しませているし、贖罪の気持ちも込めて研修を頑張っているところもあるので」
でも、とつるぎはミリィに笑いかける。
「世界的に肯定しちゃいけない過ちだって、人生単位なら、客観的にはさておき主観でなら、肯定しちゃってもいいんじゃないかって、甘いこと思ってるわたしもいるんですよ。大々的に自分が正義だって叫ぶのはよくなくても、部屋の壁とかに、間違ってなかったはず、とか呟いちゃうのは自由だと思うんです。だってそのおかげでいま湊くんといれて幸せですし。
幸せを求めることは、不幸のままでいることより、いいことのはずですから」
堂々と言い切り、罪深い自己を肯定するつるぎ。
ミリィはそんな笑顔を前に、なんだか少しだけ、どうだってよくなってきた。
「馬鹿ですわ、あなたは。本当に、馬鹿じゃありませんの、あなた。普通そんな狂った、自己中心的なこと、いえませんわよ、人前で」
「馬鹿でも狂ってても自己中でも、幸せならいいじゃないですか。最終的に幸せになれたらその人生は正解だとわたしは思いますよ」
そして、とつるぎはミリィの手を取る。
「ミリィさんの選択は、ミリィさんの人生は、正解になっちゃう可能性だって十分にあるんですよ。だって最悪な人もいるけれど、最悪なことも起こるけれど、素敵な人もいっぱいいるし、素敵な景色やものもいっぱいある世界で、生きていくんですから」
ミリィが思い出すのは、大ガラスの上で望んだ景色だった。落ちたら死ねるかどうか、ということを考えた一方で、実は少しだけ、絶景だと感じていた。
それから夜の教会で選んだ色とりどりのウィッグだった。無気力でどん底の気持ちだったけれど、ほんのりとだけ、心を動かされたのは事実だった。
そして、大好きなファンタジー小説だった。
「私は」
ミリィは、生きたいとか、子をおろしたいとか、そういうことをいおうとして、それでもいえなかった。代わりに、ぼろぼろと涙が出てきた。
「私は」
「大丈夫ですよ。いいたいことだけいえばいいし、いいたくないことも、こっそりいっていいですから」
つるぎはミリィを抱きしめて、ゆっくりと頭を撫でた。




