第二話 女神様は青二才 - Bパート
一か月前。
つるぎと同じタイミングで死亡した、つるぎと同い年の日本人の女性がいた。彼女は輪廻を繰り返す気がわかず、天使として異世界の管理に携わることにときめきを覚え、天使を志した。自然、境遇の似たつるぎと意気投合し、同じ机で一緒に勉強をするような仲になった。
しかし彼女は、ある日その志を折り、輪廻の門に向かうことにした。
理由を訊ねるつるぎに、彼女はいった。
「戒律の勉強してさ。同性愛ダメとか、子作りに繋がらない性行為はダメとか、そんな他人の恋愛に口出ししてくる世界を天使として保たなきゃいけないって思うと、嫌になっちゃって」
そのことを思い出しながら、つるぎはパトスの前で原稿を読む。
「初めまして、このたび新しく女神に着任することとなりました、蜷川つるぎと申します。
先代女神キャルゼシア様の意思を尊重しながら、新たな世代の女神として、
不肖ながら精一杯この世界を導かせていただく所存です。よろしくお願いいたします。
本日はご挨拶の場ではございますが、
まず三点、変更を発表させていただきたい戒律があります。
戒律にて戒められております、同性同士の性行為、それから生殖を目的としない性行為に関しまして。
こちら、本日を以て解禁させていただきます。
同性愛を解禁させていただく理由としましては、どのような相手を恋愛対象と採るかは生来のものであり、
異性を性愛の対象とする方もいれば、同性を性愛の対象とする方もいるなかで、
同性愛者のみの性愛を縛りつけることは不平等な行いに他ならないからです。
わたしは双方の、成熟した思考に伴う合意の上であれば、
人はどのような対象と、どのような恋愛を行ってもよいと考えております。
たとえば複数の相手との恋愛であっても、
恋愛関係を結ぶ全ての人間から心からの同意を得ているのであれば、
まったく問題はございません。
次に生殖を目的としない性行為に関しまして。こちらに関しても人それぞれの自由であるべきと考えております。やってみたいこと、されてみたいこと、人それぞれが抱える性的ファンタジーもまた、そのほかの夢や希望のように尊重をされるべきです。わたしはそれを縛る神ではありたくありません。
互いに心からの合意を得た上であれば、人と人はどのように愛し合ってもよく、その結果として刻み込まれる多様な経験が、仕事や修練や苦しみなどの経験と同じように、その人の世界観をより豊かなものとすると存じております。
これまで戒律で同性愛と避妊を禁じてきた理由は、人の繁殖を促すためでした。
しかし神が管理する世界で自由を侵して促す必要はないとわたしは考えています。
出生率減少による困りごとがあれば、女神であるわたしが解決を行えばよいのです。
自らの発案の責任を取るためです、その際には休みなく稼働させていただく覚悟です。
愛は自由と共にあってこそ煌めくものです。自由なき愛ほど、悲しいものはありません。
すべての民に胸いっぱいの愛と自由を与えられる、そんな女神を目標として参ります。
とはいえ、愛と自由のみで人は幸せになれません。よき知識と設備があるべきです。
この世界には必要なものがあります。以前からあるべきものでしたが、様々な形式での性交渉を解禁するのであれば、よりいっそう必要となるものです。それは、性感染症の予防のための設備です。今回は、皆様に二点のアイテムを配布させていただきます。
白い箱に入っているものはコンドームという名前の装備品であり、性行為の際に男性の生殖器に装着して使用します。この場合の性行為には生殖器同士、あるいは生殖器と肛門を結合することそのものだけでなく、口唇などを使用した、オーラルと呼ばれる行為も含まれます。性感染症は生殖器のみならず、舌などすべての粘膜から感染する恐れがあるためです。
それから、黒い箱に入っているものはデンタルダムというアイテムです。こちらは女性の生殖器や肛門に対しオーラルを行う際に使用する薄いゴムシートになります。肛門から女性の生殖器あるいは男性の生殖器に舌を移動させる際にも不衛生にならないため、こちらも両性ともに必携品ですね。
とにもかくにも、粘膜同士での接触を行う際にはゴムを挟んで行うことが推奨されるわけです。オーラルにより口や喉に感染が起こった場合、接吻のみでも感染の可能性が生じることとなります。幸せなスキンシップのためにきちんと予防を心がけましょう。
さて具体的な装着方法ですが、まずコンドームからいかせていただきます。こちらは男性の生殖器を象った
「あ、いいです」
つるぎの原稿朗読を大神官パトスが打ち切った。あと原稿用紙五枚ほど用意してあったため、少し物足りない気持ちでつるぎは原稿を積みなおした。
「じゃあ明日の本番がんばります」
「いや、この場合の《いいです》は《いいですね!》ではなく、《もうええわ》です」
「漫才の言い回しって異世界にもあるんですか?」
「キャルゼシア様がそちらの世界から借りた漫才ビデオを余暇に鑑賞されていました。さておき」パトスは咳ばらいをする。「その内容でのスピーチを認めるわけにはいきません」
「そんな!」
つるぎは悲しくびっくりする。
「最後まで聞かずに判断しないでください! 道具説明のパートが終わったら性感染症の危険と感染チェックの話をする予定だったんです、天界の元医師の方々に協力を仰いでそういった機関を設立すると約束するつもりで!」
「性感染症の危険を伝えてから予防の話をしたほうがいいんじゃないですか? でもそもそも、そういう拙さとかの話ではなく」
「ではなく、なんですか」
「貴様のそのスピーチでどれだけの信者が苦しみ、自死や発狂を選ぶ可能性があるか、考えましたか?」
パトスはいつになく鋭い眼光でつるぎを射抜いた。つるぎは、その言葉の意味をまだ理解できなかったが、どうしてか嫌な汗をかいた。つるぎは一応、反論する。
「同性愛を不当に禁ずる戒律の存在も自死や発狂の元となります。それに、より自由に性交渉を楽しめる世界であったほうが、人々の心にとってよいのではないでしょうか」
「しかし貴様のスピーチは大多数の信者を苦しめます。大神官としてそのような事態は許容できません」
「どういうことですか。説明してください」
「相手の気持ちになって考えなさいと言っているんですよ」
パトスはつるぎを睨み、いう。
「下界の人々にとって、女神はすべてです。倫理であり、価値観であり、判断基準であり、希望の根拠です。そのような存在が、ある日突然に代替わりしたうえ――未知の価値観を提示してきたら、ひどく戸惑われます。
不変と信じていた存在の大きな変化は、本当にこれからも拠り所としていてよいのか、頼り続けても裏切られないものか……いままでのように加護を与え続けてくれるという確証を、持てなくなるきっかけとなります。不安定になった思考は、やがて自暴自棄に辿り着きます。
神が確たるものでないのであれば、確たる希望もまたないとして絶望し自死を選ぶか、確たる倫理もまたないとし非倫理に走るか、……他の可能性を考慮しても、いずれも混沌の元となります。
神の不変こそ、民の安心を保つのです」
「それは、これからの行動で示していけば」
「これから? 何をいうのですか、女神が片時でも信者を絶望させてしまってはいけないに決まっているでしょう」
失格ですよ、とパトスはいった。
「……でも、代替わりなら、百年前にもしているんですよね。それに戒律だって、常に不変ではない」
「そうですね。しかし戒律の変更はいつだって期を見て行ってきました。少なくとも貴様の計画するように、代替わりと共に変更を行ったりはしなかった。少しずつ、手を添えるようにゆっくりとほんのりと、なんでもないことのように整えてきたのですよ。その思慮の価値がわかりませんか」
「ゆっくりなんて、そんなことをしているうちに下界の同性愛者はいまも苦しんでいるのではないですか? 性生活の不一致によるストレスを抱えながら我慢の日々を送る人々が増えていくのではないですか? 苦しむ者がいるのであれば、一秒でも早く解放を行うべきではありませんか?」
「貴様が王であれば正しかったかもしれません。王と思想が合わなければ、我慢をしたり、国から脱したり、その他色々な対応ができますからね。
しかし貴様は神です。神は、我慢や脱走を行う際に祈る相手です。神が見守ってくださるから我慢の先に幸福があるだろう、この国を出た先でうまく生きていけるだろう。
神は逃げ場であり、逃げてよいと自分を許す根拠なのです。重みを理解しなさい」
つるぎはそれ以上に反論が思いつかず、それでも言い返したい気持ちが昂って、泣きそうになった。パトスはそれを見透かすような冷たい瞳を、わざわざかがんでつるぎと目線を合わせて見せつけた。
「キャルゼシア様は決して涙を流しませんでした。貴様はなんて未熟な女神だ」
憐れんでほしいわけでもないのに、泣けばどうにかなるなど思っていないのに、涙があふれてしまう。つるぎは悔しさと情けなさに拳を握り、さりとてどうにもできず黙ってしまった。パトスはその様を見て嘆息した。
「貴様が未熟で失格でも、本来は女神殺害の罪で首を刎ねられるべきであっても、女神の権能を得た以上は女神です。これから成長していただくしかありません。しかし未熟な現在のままでは女神としてのスピーチも行うべきではないでしょう」
予定はキャンセルです、とパトスはいい、それからつるぎに告げる。
「貴様には研修を受けていただきます」
「研修……?」
「世界観を広げ、キャルゼシア様のような女神となれるように――蜷川つるぎ、貴様は、冒険の旅に出てください」
次回、第三話「つるぎは僕のすべて」
明日四分割で更新予定です。