最終幕 女神様と勇者様
蜷川つるぎ。享年二十歳。彼女が産まれた蜷川家は、いってしまえばお金持ちだった――大きくて美しい家で、たくさんの本に囲まれて育った彼女に、彼女の病弱な母がときどきいっていたことがあった。
「つるぎ。他人に優しく、自分に厳しい子になりなさい」
「おかあさん。優しいって何? 厳しいって何?」
「優しいというのは、未来の幸せを願って、そのためになることをすること。厳しいというのは、道徳に反するところを見逃さずに叱ること。蜷川家の豊かさは、そういう人になるために使いなさい」
思春期に入るころには、蜷川つるぎはときどき悩むようになった。完璧主義のような部分が芽生え、自分のなかの、道徳に反する反応を自覚するたびに自己嫌悪に陥るようになった。暴力はいけないのに殴りたいと思ってしまったり、差別的な嫌悪感を他者に抱いてしまったり、人身事故で電車が遅れたとき悼む前に迷惑をかけられた気持ちになってしまったり、そういった瞬間があるたびに自分が嫌になった。
そんな蜷川つるぎを解放したのは、菜花湊だった。男らしさの檻の向こうにいた菜花湊は、奇矯な発想でこちらを振り回しかき乱し、驚きとともに、なんだか色々とどうでもよくさせてくれる人間だった。もちろん湊の感覚に自分の感覚をチューニングするようなことはしなかった。けれど、湊に自分の不完全な内面を許容されるとき、自分以上に異常な感性を披露されるとき、どうしてか自己嫌悪が薄れた。
安らぎが恋になった。菜花湊といれば、何が起こるか何をやらかすかわからない人生のなかで、自分自身に追い詰められても大丈夫な気がした。自己嫌悪に時間をとられることなく、落ち着いて内面を磨けるように思えた。
だからつるぎは高校一年生のクリスマスに、彼の告白を受けた。
蜷川つるぎの転落死から一年が経った。一周忌法要の食事の席に、つるぎの両親と祖父、大学の友人たちが着いていた。どれだけ時間が経っても、彼女の突然の死を受け入れきれている者はあまりいなかった。
生前、恋人である菜花湊の病室に足しげく通いながら、大学の講義出席や早期化した就職活動の準備などに追われていた蜷川つるぎの憔悴には誰もが心配の目を向けていた。けれど、つるぎが明確に将来を見据えて就職や結婚の望みを語っていたことも、湊の死後も気丈に振る舞おうとしていたことも、みな知っていた。
祖父は、二十歳になったばかりの孫娘に、酒の道を乞われた日のことを、老いた脳でもはっきりと思い出すことができた。酒好きの祖父としては、小さなころからよく構っていた孫娘の成人と合わせて嬉しい誘いだったが、それがどうにもならない恋人の病気からの現実逃避であることをわかっていたから、複雑な気持ちだった。それでも、辛いことから逃げ込むことを選ぶということは、心を休めて生き続けようという意志でもあると解していたので、丁寧に手ほどきをした。
結局、生き続けることはできなかったけれど――それでも無駄ではなかったと、思った。
(つるちゃんには、酒飲みの才があった。黄泉で、呑んでくれるだろうか)
祖父はそう思って、墓前に一献の酒を供えていた。その酒を、祖父や他の出席者でも分けて呑んでいた。
「強いお酒」つるぎの母はいった。「私には辛いかも」
「つるちゃんが好きっていっていたんだ」祖父はいう。
「そうなんですか。お義父さん、つるぎとよく一緒にお酒を飲んでいましたよね。……あの子、こんなの飲めるくらい、大人になってたんだ。それなのに……」
ぼろぼろと泣きだす母を、つるぎの父が支えた。
「父さんに似て、酒豪だったんだね。そして、君に似て真面目だった」
「うん」母は涙を拭う。「あなたに似て読書家だった」
「つるちゃんは……あの世でも、本を読んだり、酒を飲んだり、できているかな」
「あの世って、あるんでしょうか。法要の席で、いってはならないかもしれませんが」
と、母はいう。
「わからない」
と祖父はいう。
「ねえ、お義父さん。死んでしまった人は、どこにいくのでしょうか。つるぎは、どこにいったんでしょうか。どこかに行ったとして、そこは優しいところでしょうか。温かいところでしょうか。望みの叶う、寂しくない、退屈のしない、ところでしょうか。付き合っていた、つるぎよりも先に亡くなってしまった、菜花くんもいるところでしょうか。ふたりは死んだあとの世界で出会えているでしょうか。抱きしめあったり、一緒に遊んだり、しているでしょうか。頑張って頑張って生きて、間違いや失敗があったって生きて、生きて、生きてきた人が死んでしまったあと、幸せなところに辿り着けているでしょうか」
「わからない。死後の世界を、生者には語れない」祖父はいった。
「だから遺された僕らは祈るしかない。そのために、宗教や、物語があるんだと思う」つるぎの父はいう。「死後の世界について、誰もが心地よい世界に行けるとか、罰の果てに罪の赦してもらえるとか、徳のぶんだけ素敵な生き物に生まれ変われるとか。そんなふうに、色んな空想を描くこと自体が、ひとつの祈りなんじゃないかと思う」
少し離れた席で、遺族の会話を聞いていたつるぎの友達のひとりが、別の友達にいう。
「なんかさ、不謹慎かもだけど。幽霊ものの漫画とか、死んで異世界に行くラノベとかだって、祈りなのかもね」
「いや、どうだろ……。でも、誰かは祈りとして書いているのかもしれないね」
秋の風が誰かの涙とどこかの寂しさを揺らした。
その世界で起こったことは、それだけだった。
パンゲア界。
「……っと、そろそろ時間」
つるぎは処理した書類の再チェックを終え、仕事部屋から出た。
女神の月桂冠を正し、切り替えの深呼吸。
「女神様! 合格者の謁見の時間ですゆえ!」
大神官のキュルーヴェルガウルコミット・リタが元気いっぱいにいった。
「はい。ありがとうございます、キュルーヴェルガウルコミットさん」
「いえ! スケジュール管理もワタクシの務めですゆえ!」
キュルーヴェルガウルコミットとともに玉座に向かうと、その途中で、双子聖獣サングルフとすれ違った。
せっかく魔力を持っているので天界で用立てるために持ち帰り、湊の変化の魔法で双子獣人の姿をとっていた。バダビーンとバダブン、と名づけられたこの双子とデュクシデュクシーのおかげで、つるぎの業務は少しだけ楽になってきていた。
「そういえば、つるぎ様が女神に着任されてからそろそろ一年が経ちますが」キュルーヴェルガウルコミットは廊下を歩きながらいう。「いかがですか。何かご感想など。あ、これはとくに他意のない雑談ですゆえ」
「ずっと大変で、気を抜くと何か感じるのも忘れちゃいそうなので、気をつけています。でも、キュルーヴェルガウルコミットさんのような、生前の世界からして違うわたしについてきてくださる天界の皆様のおかげで、どうにか立ち続けていられていて……本当にありがとうございます」
「いえいえ、ワタクシの務めですゆえ」
「ええ、務めあげていただき、ありがとうございます――」
つるぎはそういいながら、それだけのおかげじゃないな、と思っていた。
自分という、まだまだ青い人間が女神をやれているのは、女神の権能や、下界の単純さ――むろん、それなりに複雑なのだけれど、地球界ほどではない――のおかげなのだということを、つるぎは忘れていない。
女神の権能のような特別な力がなく、宗教や宗派などがもっと複雑に絡み合う世界だったら、蜷川つるぎがリーダーになることも、蜷川つるぎのアイデアで世界を変えることも、決して容易ではない。
いってしまえばチート級の環境だからできているだけなのだと――そう考えてみると、たとえばパンゲア界よりもずっと混沌としている地球界で、限りある体力を削りながら、ホルモンバランスにも振り回されながら、統治や改革に勤しむ人々はどれほど大変なのかと、思わざるをえなかった。
(わたしは、すべてに、恵まれている。環境にも能力にも運命にも。
そして、わたしがパンゲア界に贈ってきたものは、地球界の先人が創り上げた文化や見識や研究成果を借りたものばかりだ。わたし自身の知恵や発想がすべてじゃない。
わたしは頑張ってはいるけれど、前の世代の膨大な頑張りで作られたエンジンを使って、でこぼこな道をサクサクと往かせていただいている。それを忘れちゃいけない。
だから先人に恵んでもらえたすべてを全力で注ぎ込みながら、やるべきことを全部、ちゃんとやろう。休養、セルフケアも含めて、やるべきことを、ちゃんと。
そうして打ち立てるべき前例を打ち立てよう――わたしより未来の、新世代の女神様のために。
うん。そう決めていたからここまでやってこれたし、これからも、その基本は手放さないようにしなきゃ)
「さてつるぎ様、玉座の間ですゆえ」
「ありがとうございます。部屋の外に控えていてください」
「はい。しかし、本当にワタクシが伴わなくて大丈夫ですか? これは去年の襲撃事件を前提とした警戒ゆえのご確認ですゆえ」
「大丈夫です。合格者リストを」
キュルーヴェルガウルコミットから受け取って玉座についたつるぎは、今月の天使試験合格者のリストを確認した。事前に把握していた通り、今月はひとりだけだった。
ノックをされた。
「おはいりなさい」
つるぎがそういうと、失礼します、と男性が入ってきた。
「自己紹介を」
「地球界の日本国で生を受けました、菜花湊と申します」
菜花湊は、そういって――恭しく傅いた。
「この度は、天界使者採用試験の合格おめでとうございます。天界のため、そして民のために天使として奉仕する道を選び、たゆまぬ努力を続けて戸を叩いたあなたの貴き魂に、女神として心よりの祝福を送らせていただきます」
「もったいないお言葉でございます」
「そしてこれより、天使菜花湊に、女神つるぎより、配属先を命じさせていただきます。いかなる職務であっても、何よりも民のためにその知恵と能力を捧げることを誓いますか?」
「誓います」
「ありがとうございます。……ここまでがテンプレ。疲れたし崩していい?」
「あ、うん。いいけど、いいんだ」
「配属先なんだけど、新設の冒険課です」
「冒険家?」
「課。湊くんには下界をひたすら旅してもらって、何か異常が見られたら天界、っていうかわたしに連絡してもらう。基本的に民の教会への通報で動く天使だけじゃカバーできない範囲があるでしょ、たとえば誰にもいわない約束になっていたり、町とかじゃない道半ばでぶっ倒れていたり。だからパトロールをする人が必要だと思ってたんだけど、湊くんにはそれをやってもらいたいんだ」
「つまり、人助けの旅みたいな?」
「概ねそう。傷ついた人がいたら助けてあげてほしいし、悪だくみがあったら……まあ湊くん狂犬みたいなところあって怖いし、一応わたしに判断あおいでほしい。とりあえず色んな人と世間話でもして情報を集めてね、天使だっていえば知らない人でもお喋りしてくれるだろうから」
「なるほどね」
「不老不死で頑丈だし、変化の魔法も便利だし、聖剣もあげるし。湊くんだけの課になる予定だけど、どう? やれそう?」
「やるよ。冒険課」と湊は頷く。「女神様の御命令ですから」
「ありがと。じゃあ色々渡すものあるから。まずこれ」
つるぎが湊に手を翳すと、湊の全身が光に包まれた。そして気づけば、祈られた金属でできた冠と肩あて、愛の祝福を受けた赤いマント、慈愛と自由を引き寄せる衣を身に纏っていた。お馴染みの聖剣『イニミ・ニ・マニモ』も背負っていた。
「制服というか、目印というか。汚れたり破れたりしないようにできているから、天使たちが湊くんを冒険課の天使だってわかるように、基本的にこの格好で歩いてて」
「……なんか、魔王を倒したあとのほうが勇者っぽい格好してるね」
「たしかに。似合ってるよ、湊くん」
次につるぎは、革製のブックカバーで守られた、ソフトカバーの厚い本を渡した。暗い茶色のカバーには金文字で『冒険の書』と書かれていた。湊が開いてみると、なかは罫線の引かれた日記帳のような装いだった。
「これは?」
「下界であったことや見たものを毎日記録して、日の終わりになったら天使室の天使に提出してほしい。パトロールのレポートみたいな感じで。とくに何もなかったとしても、天使として仕事でやってるって体裁を保つのも大事だから忘れずに書いて出してね。言葉にするの難しかったら絵日記にしてもいいよ」
「わかった」
湊は『冒険の書』を懐に入れる。
「最後に、これ」と、つるぎは湊の前に小箱を差し出して開けた。「通信機。これに声かけてくれれば、どこからでもわたしに声を届けられるから」
それは鮮やかな赤色の宝石を嵌めた、銀の指輪だった。
そしてそれは、つるぎの薬指に嵌まっている指輪と同じデザインだった。海のひかりのような宝石が、対するように煌めいていた。
「……これって」
「あ、つけてほしい?」
つるぎは湊の左手を取ると、薬指にゆっくりと、リングを嵌めた。サイズはぴったりだった。
「ふふ。似合うよ」
「……つるぎ」
「時間ができたら、下界のどこかに家とか建てよう。一緒に場所決めようね」
「うん」
「で、わたしが休み作れたらそこで一緒に過ごそう。たまに、になっちゃうと思うけど許してくれる?」
「うん。いいよ。……嬉しい。……大好き」
「ありがとう。大好きだよ、ずっと」
湊はなんだか泣きそうになりながら、どうしても我慢ならなくなって、つるぎに抱き着いた。これからも自分とつるぎの間には、孤独もなく、疎遠もなく、隔絶もなく、ただ永遠だけがひかるのだと感じた。つるぎは慰めるように湊の頭を撫でると、そっとキスをした。
「ねえ、湊くん。お互い、やらなきゃいけないことはあるけど。別々の場所でお互い以外の誰かのためにも頑張らないといけないけれどさ、それでもずっと、ずっと一緒だよ」
「うん。ずっと一緒。どこにいても。つるぎは僕だから、一緒」
「あはは。そうだ、これからは蜷川湊って名乗っていいからね」
「つるぎ。……ありがとう。こんなにしてもらえて、嬉しい」
「湊くんいっぱい頑張ったでしょ。半年くらいだっけ、毎月試験受けてくれて。見てたし、嬉しかったよ」
「合格を逃すたびに、僕と会うために初回で合格できたつるぎすごいなって思ってた。愛だなって」
「何度も諦めないのも愛でしょ。愛してるよ」
「愛してる。……でも、僕たちが恋人同士なのを公表してる状態で、新設の課に僕を入れたりしたら、なんだか邪推されない?」
「そのときは堂々と、愛し合ってるから特別枠っていえばいいじゃん」
それこそ堂々といってのけるつるぎに、湊は変な笑いがこみあげた。
「誰にもわたしの幸せを邪魔させないし、そのためにたくさん頑張るよ。みんなの幸せだってわたしの幸せだけど、それだけじゃあ生きていかれないし。そういう前例としていい結果を残せば、わたしのあとに続く女神も幸せかもしれない。全部をみんなの幸せに繋げていくために、頑張る」
「僕はつるぎと、つるぎの愛する世界を護る。つるぎがくれたすべてを武器にする。そして一生つるぎに恩返しするから」
「頑張ろうね。ふたりで。頑張れなかったら、一緒に休もう」
「うん。相談とか愚痴とかあったら聞かせて」
「ありがとう。そうだ、天使になった特典として、なんでもわたしに訊いていい権利があるよ」
「ああ、あったね」
「何を訊きたい? なんでも教えるよ」
湊は少しだけ考えて、質問する。
「つるぎって、僕のことどれくらい好き?」
つるぎは考える余地もなく、即答する。
「神様も殺せるくらい」
Fin
ご愛読いただきありがとうございました。愛しています。




