第四幕 それぞれのエピローグ 第五話 アハランドの未来と友達たち
アハランドの閑散とした料理店に、沈鬱な面持ちで入店する女性がいた。ワンレドである。彼女はかつてウーアハ王国の城内で、グル、ビッグデカという仲間と一緒に働いていた、それなりの人間だったけれど――二か月と少し前、辞職していた。
女神つるぎがウーアハ王国とリリシシア王国を和解に導いたことがきっかけだった。
ワンレドはかつて、先述の仲間と共謀して、女神つるぎから金銭を脅し取ろうとした。莫大な資金を国に献上することで、敗戦を回避しようという算段である――結果としては一銭も得られないばかりか、仲間は殺害されてしまった。
(それは……神の裁きというべきだ。あーしらは、それだけのことをした)
けれど、作戦考案に関わり、女神とその従者を引き離すように動いたワンレドは、無傷で生き延びていた。そのことに罪悪感のようなものはあったが、どうせウーアハ王国はリリシシア王国に滅ぼされることが確実なのだから、という暗い予想がワンレドの心を持ち直させていた。
そこにきての、和解である。
ワンレドは罪悪感の行き場を失い、他人のために仕事をするという資格が自分にあるとも思えなくなって、先月にとうとう辞職した。女神にも、グルとビッグデカにも、申し訳がなかった。自分は教会から完全栄養ゼリーをもらう資格もないのではないかと思い始めたので、外食をして貯金を切り崩すことを始めた。金の切れ目を命の切れ目にしよう、とワンレドは思っていた。
餡の絡んだ根菜と麺、それから熱い茶を注文した。待っているとき、新たに来店があった。
「こんにちはー」
という声に、ワンレドは思わず目を向けた。そしてすぐに、背けたくなった。
女神とその従者天使だった。ワンレドが仲間と一緒になって騙して脅した、被害者である。
「はい、いらっしゃいませ……あ、女神様!」
中年の店主はワンレドの席に料理を置きながら、女神に驚いて目を剥いた。
「お元気ですか? お店を開き直したと天使から聞いていました」
「はい! 全て女神様の御支援のおかげでございます、心より感謝申し上げます!」
「いえいえ、火災に見舞われても立ち上がられた店主さんのバイタリティの賜物ですよ」
つるぎはそういうと、花束を差し出した。
「開店祝いです。よかったら」
「女神様からお花をいただけるとは、なんたる幸せ! 俺、今度は絶対に燃やしません!」
「はい、どうかお気をつけて」とつるぎはいい、それから店内にワンレドがいることに気がついた。「あ、ワンレドさん。お久しぶりです」
「め……女神様」
ワンレドは突然のことに言葉がなかった。
それでも、ひとつ思った――まず自分は、謝罪をするべきではないか、と――。
「謝らせてください。申し訳ありませんでした」
と、つるぎはいった。
ワンレドはさらに戸惑った。なぜ女神のほうが謝っているのか、わけがわからない。
「わたしがもっと早く、一日でも早く、ウーアハとリリシシアの戦争を防ぐために動くべきでした。そうしていればワンレドさんも、グルさんも、ビッグデカさんも、罪に手を染めたり、命を落としたりすることはありませんでした。そのような結末にいたるほど、精神的に追い詰められることはありませんでした。わたしが女神として至らなかったばかりに……本当に、ごめんなさい」
「謝罪なさらないでください!」ワンレドはいう。「あーしたちが、悪いのです。女神様は何も悪くありません、被害者です。あーしたちはただの加害者です。グルも、ビッグデカも、あんな目に遭って当然のことをしました! こちらこそ、大変申し訳ありませんでした!」
「いえ。あなたがたは被害者です」つるぎはいった。「悪いのは戦争です。倫理を犯させるほどにあなたがたを追い詰めた戦争が悪くて、それを急いで止めようとしなかった、わたしが未熟でした」
「女神様」ワンレドは涙を流す。「ごめんなさい。女神様、ごめんなさい」
「……わたしはまだまだ、女神になったばかりで未熟なところがあるかもしれません。見落としてしまうことや、出遅れてしまうこともあるかもしれません。どうか、少しでもわたしがきちんと人々を幸せにできるように、もしも何か不穏なことがあれば、教会の天使室の天使に報告してください。民からわたしへの報告があれば、伝えるように指示してありますから」
「あーしに、教会の……女神様からのご慈悲を受ける資格があるのでしょうか」
「はい。愛させてください。わたしはあなたの苦しみも、取りこぼしたくありません」
つるぎはそういって、さらに泣きじゃくるワンレドにハンカチを贈ると、少しだけ頭を撫でて、店から出た。
「さて、ちょっと疲れたし温泉に行きます」
とつるぎはいった。湊は首を傾げる。
「温泉って……百年前の、リリシシアに滅ぼされていない世界線では王族専用のまま、みたいな話じゃなかった?」
「それがね、入れるようになったんだよ」つるぎは嬉しそうに笑う。「戦争は停まったけど、準備に費やしたお金は大きかったからさ。そのぶんを埋めるために色々頑張ってるらしくて、その施策のひとつとして、ウーアハ城の地下温泉を有料で開放することにしたんだって」
「なるほど?」
ウーアハ城をおとなうと、町民用の経路が作られていた。たくさんの人が経路に沿って進むなかを、ウィッグを取ったつるぎと湊はただの町民のような顔をして歩いた。
「大人気だね」
「みんな水風呂が主だから、熱い風呂に入れるっていうのが珍しいんだよ」
木の棚に衣服を収め、身体を清めて温泉に入る。混浴だが湯浴み着はまだ考案されていないようだったので、生成して身に着けておく。
広大な大浴場はどこもかしこもがやがやと浮かれていて、百年後の北リリシシアの温泉と比べるとあまり落ち着けない空間だったが、ここにいるすべての人間が戦争を回避することで死を免れた者だと思うと、つるぎは少しだけ誇らしかった。
「やっぱりね、いいですね、温泉はね」つるぎは肩まで浸かって、湊にいう。
「ですねえ。天界にないものね」
「うん。作ろうかな。いや絶対わたしが管理することになるからな。逆に疲れるからやめとこか」
つるぎはへらへらと笑う。酒は入っていないが、しっかりとリラックスしていた。
「ねえ、つるぎ。ずっと気になってたんだけど」
「なあに」
「つるぎは、ワンレドさんのこと、なんで許せるの? ワンレドさんだけじゃなくて、パトスさんとかさ。相手にも事情があったとか、そういうのってつるぎ自身が嫌な思いをしたこととは無関係じゃない? もっと怒ってもいいんじゃないかって、僕は思うけど」
「んー。そうだねー。わたしもそう思うよ。もっと怒ってもいいやつだなって。わたし以外の人が同じ目に遭って怒っていたら、普通に同調すると思う。きっちり嫌だなと思ったことは事実だし。きちんと怒ることって大切だし。不殺や非暴力と糾弾は両立するし。わたしが女神だってことも、わたし自身が誰かを殺してしまった経験があるっていうのも、怒る権利には無関係だよね」
堂々と、しかし喧騒にかき消される程度の声量でいうつるぎ。
「じゃあ、どうして怒らないの? どうして許すの?」
「目の前の相手をすごい罵倒したり、ぶん殴ったりしたとして、わたし別にそれですっきりしないというか。酷いこといいたくないし、酷いことしたくないんだよね。できるだけ、綺麗に生きていきたい気持ちも本音だから。
だったら相手に怒りをぶつけるより、いませっかく立場や権限を持ってるんだから、そんなことをさせてしまう相手の人生や構造に目を向けて改善したほうが、わたしも相手も、同じような流れに呑まれてしまうかもしれなかった人たちも、呑まれた人に巻き込まれてしまうかもしれなかった人たちも、幸せになれる」
そういう単純な話だよ、とつるぎはいった。
「……つるぎってさ、理性的だね、すごく」
「感情的だよ? 自分が在りたい自分を目指しつつ、自分がそうあってほしいと思ってる状態に持っていきたいだけだからさ。ただの欲望。自己中心的。他己を中心にできるほど、いかれてない」
「いまタコとイカで掛けた?」
「さて。茹でダコになる前に出てイカないと」
「うわあ。ちなみに他己って他人から見た自分って意味じゃなかったっけ」
「うん。誤用してみた」
「怖っ」
そして向かうは聖竜寝殿だった。元迷いの森の奥の穴まで瞬間移動してみると、穴の傍に馬車が停まっていた。
「誰か来ているのかな」と湊はいう。
「ダリアンヌの劇団かなあ。公演依頼したのかも」つるぎはいいながら鉄はしごを降りて行った。
坑道の奥に、リーナの母キャシィとリーナの弟アンドレア、赤子ロバート、オードリーと――旅芸人の一座がいた。ダリアンヌの劇場のそれよりは幾分か砕けた自己流のものだったが、途中から見ても十分に面白く、愉快なショーが繰り広げられていた。
よく近づいてみると、見覚えのある女性が、その旅芸人団のなかにいた。彼女は一座の紅一点のようだった。とくに芸をすることなく、団員のためのドリンクやタオルを用意する役割を持っているようだった。
「……スーさん?」
つるぎがいうと、彼女は怯えるようにこちらを向いた。つるぎがウィッグを被って手を振ると、彼女は――元アパシィ家の女性執事、スーはつるぎに駆け寄った。
「女神様。どうか……昔のことは絶対に、内密に!」
縋るようにいうスーに、つるぎは笑いかける。
「あ、はい。もちろん。それにしてもお久しぶりです。以前は色々とお世話になりました」
「つるぎ、その人誰?」湊はスーの顔をじっと見て、思い出す。「ああ、つるぎに毒を盛って殺そうとした」
「いや、結果はそうだけど狙ってたのはミリィさんのほうだよ」
「ご内密に!!!」
スーは叫ぶ。ちょうど休憩に入っていた旅芸人たちは、その声を聞いて振り向いた。
「スーちゃんあんなところで何やってんだ?」
「誰かいる……あ! ひょっとして女神様じゃないか?」
旅芸人たちが寄ってくる。つるぎが女神であることを確信すると、座長が前に出てきて頭を下げた。
「お初にお目にかかります、女神つるぎ様。僕はこの旅芸人一座のまとめ役、リングライトと申します。本日は、迷い込んだ森のなかに興味深い穴がございましたので、何か話題になればと思い皆で入ってみたところ、そこに住む者たちがいましたので、芸を披露しておりました」
「座長さんなのですね。旅芸人……ダリアンヌからの方々ですか?」
「いいえ。同じウーアハ王国で生を受けた昔馴染み同士で団を結成いたしました。その後、メンバーの入れ替えなどもありつつ、各地でステージをして経験や知名度を高めて参りました。とくにメンバーのゴスケは芸達者でファンも多く、僕たちのなかでは一番の名芸人と申してもよいでしょう」
リングライトの隣にいた男が、俺がゴスケです、と少し照れ臭そうに笑った。
「なるほど」つるぎはスーのほうを見る。「この女性も昔馴染みの方ですか?」
「いいえ、彼女は……スーは、僕たちが先月、ジンコゥの町で公演をした日の打ち上げで知り合いました。働き口を探しているといわれ、聞けば執事の経験があるとのことでしたので、僕たちのサポーターとして雑務をお願いしています」
「スーはすごいんです」ゴスケはいって、スーに笑いかけた。「いつでもテキパキと動いて、よく気がつく人で、頭もよくって。素敵な人です」
「ゴスケさん……」スーは顔を赤らめる。「お雇いいただいている身ですから、当然の御奉仕をさせていただいているだけです」
(ん? スーさん、そういうことか?)
とスーの恋心を察するつるぎ。
そしてそのいっぽう、湊はつるぎたちから離れ、ドリンクを飲んで休んでいる他の団員のところにいた。
「天使様なのですか。これはこれは、我々はなんと幸運でしょうか」
団員のひとりがいった。湊は会話を重ねて彼が初期からのメンバーであることを確認すると、
「実はこの団に、リフィーアさんという女性がいらっしゃるという話を小耳にはさんだのですが……抜けられたのですか?」
と訊いた。
団員は少し表情をこわばらせたあと、
「天使様に嘘や隠しごとをしたくありませんから、はっきりと申し上げますが……その前に、これから話すことは、スーには内緒にしていただけますか」
と切り出した。
「はい、秘密にします。リフィーアさんに何かあったのですか?」
「リフィーアは旅の最中にゴスケとの子を身に宿し、ジンコゥの教会で一年ほど団を休むことになりました。ですから、いまはいないのです」
「へえ。それがどうして、スーさんに秘密なんですか?」
「ゴスケはジンコゥで出会ったスーに関心を移して仲間に誘い、リフィーアのことを秘密にしながらスーを口説き始めました。スーもすっかりその気になってきていて、端から見ればふたりは男女の関係を持つまで秒読みといえます。スーはすっかり幸せそうですから、夢を壊さないようにリフィーアのことは秘密となっているのです」
「……まあなんというか、ゴスケさん、刺されたり毒盛られたりしないといいですね」
「え? ああ、嫉妬は怖いといいますからね。スーはそういうタイプの女にも見えませんが」
湊は暢気な団員を見ながら、まあこれはなるようになるか、と思った。スーにいい印象がなかったし、ライドがリフィーアをゴスケに奪われたと話していた件への同情も一応なくはなかったので、何かをマシな方向に誘導する気は起きなかった。
誰かが鉄はしごをくだる音が響いた。ふたりぶんの音が止むと、足音が近づいてきた。
「あー! つるぎちゃんだ! 来てたんだ!」
「つるぎ様、いらしていたのですね! ちょうど我々が帰るときに……なんという奇跡でしょう」
一族の存続のために、外の男から子種をもらいに行っていた二十四歳の女性、リーナと、その父のメルだった。
「リーナちゃん! 久しぶりです」つるぎが駆け寄ると、リーナはハグをした。「お元気でしたか? 大変じゃありませんでしたか」
「大丈夫! リーナ、つるぎちゃんのお金でお菓子もお肉もいっぱい食べたよ。大変なこともあったけれど、楽しいこともいっぱいあったー!」
「教会の天使様に確認していただいたところ、リーナは無事に妊娠期間に入ることができました」メルが誇らしげにいった。
「だから帰ってこられたのですね。お疲れ様です」つるぎはメルにいう。「何か危険なことはありませんでしたか」
「……我々としては真剣に取り込んでいることであっても、性交相手を探しているという噂が広まってしまうと、リーナには何をしてもよいというような考えを持つ輩が出てきました。私が牽制をすると収まりましたが、どうにも不安は拭えません」
「なるほど。そしたら、護身具などいかがでしょう」
と、つるぎがメルに色々と武器を提案している横で、リーナは旅芸人団のほうに興味を向ける。
「あ、ゴスケ様!」リーナはゴスケを見るや否や抱き着きに行く。「この前はありがとうね!」
「ゴスケ?」リングライトはいう。「その子は?」
「あーっ、えっと、その、ね……」
スーがゴスケを怪しむように見つめた。スーのゴスケへの気持ちなど知る由もないリーナは、
「ゴスケ様はね、リーナに初めて子種をくださった人だよ!」
といった。
湊もつるぎも耳を引かれてそのほうを向いた。
「は? ゴスケさん?」
「いや、スーと出会う前! 二か月も前のことだよ」ゴスケは弁明する。「アハランドに帰省したとき、この子とそのお父さんにお願いされてさ……断り切れず……」
「ゴスケ様、お力になれるなら喜んで! って笑顔で応えてくれたよ。リーナ初めてだったけど、すごく優しく」
「ちょっと!」ゴスケは思わずリーナの口を塞ぐ。
けれどスーはその距離感の躊躇いのなさも気に入らなかった。
「ゴスケさん……この女に子種を……行きずりの……」
「スー。……ごめん、まだスーに出会ってなかったから」
「わかっています」スーは表情に陰りをもたせながらいう。「ゴスケさんは、浮気をするような人ではありませんよね」
「う、うん……」
ひきつった笑顔でゴスケはいった。
つるぎはそんなスーの手を引いて、旅芸人団から離れたところに行く。そして小さな声でいう。
「スーさん。……リーナちゃんを殺したりしないでくださいね」
「しませんよ」スーはいう。「……ミリィ様の毒殺を試みたことを、反省していないわけではありませんから」
「そうですか、それならよかったです」
「はい。たとえゴスケさんが今後、別の女に手を出して妊娠させていたとしても――悪いのはゴスケさんでしょう。ゴスケさんを殺すだけです」
「……人を殺してはいけませんよ。スーさんのこと、わたしなりにマークしておきますね」
つるぎがそういうと、
「ええ、女神様。いけない冗談ですよ」
とスーは真顔でいった。
(好きな人の子を別の女に産まれては、何も殺さずに生きていられますか)
と腹のうちで思いながら。
「それにしても」ゴスケはスーが傍にいないことで少し安心しながらいう。「前から気になっていたけれど、どうしてわざわざ見知らぬ男の種なんかを」
「リーナたちが繁栄するため」
「うん? もしかして特別な一族とか……」
「ゴスケ殿」リーナ父は、つるぎからもらったばかりの武器――無骨な大金づちをゴスケに向けた。「すみませんが、詮索はなさらないように」
「は、はあ……」
「……お前たち、余計なことは話していないね」
メルは、アンドレアとキャシィ、そしてオードリーにいった。
「はい、パパ。なんにも」
「ひとつも口外していません」
「大丈夫デス!」
「今日は私の家族を楽しませていただいたようで、心より感謝申し上げます」メルは恭しく頭を下げた。「どうか今日のことは……地下に住む私たちのことは、どこにも秘密にしていただければと思います」
旅芸人団はそれを聞いて、不満の声を漏らした。迷いの森と呼ばれていた場所の奥に、地底に繋がる穴があり、そこには五人家族と、とんでもなく大きな身体の女性が住んでいた。芸人たちからすれば、場を温めるのに絶好の話題である。捨ててしまうのはもったいないように思えた。
(まあ、この人たちからはうんと遠い場所での公演ならいってもいいだろうか。アハランドは行動範囲のようだからよしておくとして)
リングライトがそう思って頷こうとしたとき、
「わたしからもお願いです」と、つるぎがいった。「詳しい説明は難しいため申し訳ありませんが。どうか、女神のためと思って、誰にも内緒にしていただきたく存じます」
「女神様……承知いたしました。絶対に口外いたしません」
リングライトは言葉の通りに、どこにもいわない意志を持った。他の旅芸人団員たちも同じである――女神のために秘密にしろといわれて、従わない者はいない。みな、女神と天使のおかげで安全に産道から取り上げられ、ここまで育ってきた自覚がある。長い旅のなかで、天界の恵みに感謝した日は何度もあった。女神の願いを聞かないなど、そんな不届きがあってはならなかった。
「ありがとうございます。どうかこれからの旅も、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
つるぎはそういって、旅芸人団を送り出した。
つるぎと湊、リーナとメルとキャシィとアンドレアとロバート、オードリーだけがその場に残った。
「ありがとうございます、女神様」とメルはいった。
「いえいえ」つるぎは会釈を返すと、魔法でオードリーの目線まで浮遊した。「さて、オードリーちゃん。お元気ですか?」
「元気デス!」
「そうですか。劇を呼ぶお金は残っていますか?」
「ちーっともないデス。七日で使い切りました」
「いっぱい呼んだんですねえ。またお金あげるね」つるぎはたくさんのお金をオードリーに渡した。
「ありがとデス」
「聖竜の……ヘップバーンの様子は?」
「何事もなく、すやすやぁデス」
「それはよかった」
つるぎはオードリーの笑顔を見ながら、彼女をこの役割から解放するべきかどうかについて考える。いってしまえば、湊が変化の魔法で巨大化すれば聖竜を起こすことはできるのだから、オードリーが聖竜ヘップバーンに縛られる必要はないように思えた。ずっと地下にいては、つるぎが忙しい間は劇を観ることもできないし、大好きなアイスを食べることもできないのだから――だから提案をしようかと考えて、やめた。
(まず、わたしが暴走したとして、湊くんがわたしを討つために聖竜を起こすわけがない。たぶん湊くんは一緒に世界を滅ぼそうとするほうだ、巨人にでもなって)
そして何より、オードリー、そしてリーナたちが自分の役割にある程度の誇りというか、存在価値のようなものを見出していることは、短い交流でも察せた。だから、本人が解放されたいといっていないのに、そんな提案をするのは失礼だと、思い直した。
「どうしましたか? 考えごとデスか」
「あ、いえいえ。オードリーちゃん、またいつか一緒にアイスとか食べに行こ」
「アイス! ひんやりぃ、大好きデス! 行きましょう」
「リーナも行きたい! 子供が産まれたら連れて行って!」
「ええ、リーナちゃんも」つるぎは微笑みかける。「それまで生きていてね、頑張って」
湊はつるぎに促され、オードリーを一般的な女性のサイズに変化させた。つるぎとリーナとオードリーは抱き合った。キャシィも混ざりたそうだったので、混ぜて四人で抱き合った。同い年の友達みたいに。
赤子の泣き出す声がした。それから少しして、どこからか音楽が聴こえてきた。高く優しい音色で、カノン進行だった。湊は自動演奏機のほうを見た。アンドレアが赤子のロバートを抱えながら、ぜんまいから手を離した。
「この音が、ロバートの好みのようです。これを鳴らすと、ロバートは眠ってくれます」
「そういうふうに役立っているんですね」湊はいう。「いい曲ですね」
「ええ。陽の光を浴びるようです」
「そういえば、外に家を建てたりはしないんですか?」
「それにも時間がかかってしまうので。少しずつ準備はしておりますが」
「なんだったら、どうでしょう」いつの間にか近づいてきていたつるぎがいう。「いまわたしの力で建てますか?」
「いいえ。お気持ちは嬉しいですが」アンドレアはいう。「父がいっていました。我々はあまり女神様になんでもしてもらっていてはいけないのだと。女神様を討つために聖竜を呼び覚ますとき、躊躇いが産まれてしまうかもしれないからと」
「さようですか。それでは、どうか素敵なおうちになりますよう。楽しみにしております」
つるぎはアンドレアから許可を取って、ロバートの頬を指先ですこし押す。赤子のほっぺにきゅうとなりながら、あなたも素敵な大人になりますように、とつるぎはいった。
(そしてわたしがしていいことは、ここまでなのだろう)
つるぎはオードリーとリーナたちに手を振って、湊と一緒にはしごを登った。
「次はどこだっけ?」
「マンナカ火山」
「そっか。あれ、断罪学園は行っておかないの?」
「いやあ、絶対に騒ぎになって、授業の邪魔になるし」
「なるほど」
「フーガスさんとルードさんが元気でありますように」
つるぎはそう祈りながら、瞬間移動で、マンナカ火山に行った。




