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[E]第四幕 それぞれのエピローグ 第二話 ミリィ・アパシィの悲劇

 家長のロミオル、娘のミリィ、執事のスーを失って二か月以上の時間が流れたアパシィ邸からは、ユリアン夫人も姿を消していた。ミリィの身に起こったこと――父であるロミオルと伯父アルバンスによる性的暴行事件――は彼らの逮捕とともに報道され、ジンコゥの町にそのことを知らない者はいなかった。人々はミリィを可哀想に思い、女神の戒律を破り我が子や姪を傷つけた両者のことを、心から軽蔑した。


 アパシィ家の名前はすっかり地に堕ちた。ロミオルとアルバンスが刑期を終えて出てきたとしても、一緒に仕事をしてくれる人は、少なくともシタ地方にはほとんどいないだろうといわれるほどだった。そしてユリアン夫人は、その状態に耐えられずに身を隠したのだろう――といわれていた。


「お疲れ様です」つるぎと湊は断罪所を訪問した。

「これはこれは、女神様! 本日はどういった御用でしょうか」

「ロミオルとアルバンスの様子を」

「ああ、女神様が御証言なさって逮捕にいたった受刑者ですね。記録をお持ちします」

 断罪所のスタッフの中年はそういってノートを取りに行った。パンゲア界の断罪所には受刑者と面会をするための制度はなかった。その代わり、受刑者の様子や発言についての、看守がつけていた記録は自由に閲覧を願うことができた。


「こちらです、ご覧ください」断罪所のスタッフは二冊のノートを持ってきた。檻に入れられてから今日までの毎日の記録がつけられていた。つるぎはロミオルの、湊はアルバンスの記録を読み始めた。スタッフはそんなふたりにいった。「ロミオルとアルバンスは、檻を離してあります。だというのに、少し前、ふたり揃って同じことをいいだしたのです」

「同じことですか?」と湊がいった。

「はい。……それまではふたりとも観念して罪を認めていました。しかし、ある日突然、そんなことをした記憶がない、といいだしたのです」

「記憶がない?」

「私が何をしたというのか、と突然にいってきたのです。ミリィさんとスーさんの証言した行為を話すと、そんなことをした覚えはない、と。しかし、それまではその証言について、たしかだと白状していました。それに、していないというわりに動揺の色が見えました。まあきっと、認めてしまったことをいまさらになって後悔して、どうにか巻き返せないかと焦ったのでしょう。それにしても、ふたり同時にというのが不気味ですが――血の繋がる兄弟ですから、偶然のシンクロニシティなのでしょうか」


 断罪所のスタッフは不思議そうにいった。湊も不思議だった。つるぎはそれの理由を知っていた、なぜならふたりの犯行時の記憶を消したのはつるぎだから。


『懲役ですわ。生き延びるのですわよ、私を嬲った記憶を抱いて』

 ジンコゥにて女神就任スピーチを行った際、ミリィがそういっていたことを、つるぎはふと思い出したのである。そして、囚人たちにもスピーチを届ける――という体歳で牢獄に足を踏み入れ、さりげなくロミオルとアルバンスに手を触れて、忘却の魔法で記憶を抜き取ったのだった。

 ジンコゥでそれをしたせいで以降の町でのスピーチでも牢獄に入らなければいけなくなり大変だったが、きちんと忘れているらしいことを知り、つるぎは安心した。ロミオルとアルバンス、そして天界のキャルゼシアの件で、すっかり忘却の魔法のコツを掴んでいた。


(これなら今日、予定通りできるかもしれない。向こうも予定通りに進んでいたらだけれど――)


「アルバンスといえば、女神様。報道こそされておりませんが、新たな逮捕者が出たのです」

「逮捕者?」

「ユリアン・アパシィです。人目を盗んで断罪所の男性牢獄に侵入しようとしておりました……恐らくですが、夫であるロミオルを脱獄でもさせようとしたのではないでしょうか。本人は動機についてはついぞ口を噤んでおりましたが、配偶者が逮捕された者には、まれにあることです。むろん、『断罪所の妨害禁止』の戒律を破ったものとして、半年の懲役に処しております」


「なるほど。愛ゆえの暴走でしょうか」

 つるぎはそう受けながら、きっとロミオルではなくアルバンスのほうだろう、と思っていた。ミリィから、ユリアンがアルバンスに懸想していることを聞いていた。けれどここではいわないでおいた。いくらなんでも、部外者が勝手に話してよい範疇ではないように思えた。不倫と思うとフェニックスの件が想起されたけれど、何はどうあれ、ふれまわるものではないとつるぎは考えていた。


「女神様。女神様がいらっしゃる」と、応接室に若い男が入ってきた。断罪所のスタッフの制服を身に纏っているが、どこか着られているような雰囲気があった。「私は先月、断罪学園を卒業しこちらの断罪所に身を置くこととなりました、ケーヴルと申します」


「ケーヴルさん、こんにちは。新人の方なのですね」

「はい。……風のうわさでお聞きしたのですが、断罪学園のほうに、就任前、いらっしゃったことがおありなのですか?」

「ああ、はい。学園で発生した不可解な殴打事件の解決を、微力ながら手助けさせていただきました」

「やはりそうなのですか。実はその時期、ちょうど私の卒業試験が終わった翌日で、実家のあるジンコゥに帰省していたのですよ。おかげで就任スピーチで初めてお姿を拝見することとなりましたが、思い入れのある断罪学園でご活躍を拝ませていただきたかったものです」

 ケーヴルは本当に悔しそうにそういった。つるぎは、もうほぼ初対面の民から重い敬意を向けられることには慣れていたので、微笑みで受け止めた。


 断罪学園『スクロール』にはパンゲア界各地から断罪所で働く予定の人間が集められる。そして卒業をすると、さしたる事情がなければ出身地の断罪所に配属されることになる。断罪学園が唯一の『地元の外』である人間も珍しくはなく、それゆえに断罪学園に深い思い入れのある断罪所スタッフは多い。

 ケーヴルもまた、ジンコゥと断罪学園以外の場所で暮らしたことのない青年だった。


「ケーヴルさんは新生活、新環境で、何か変わったことや思ったことはありましたか?」

 つるぎは民の生活の一端を知るつもりで、そんな質問をした。

 ケーヴルは、そうですね、と考える。


「新生活や新環境よりも、一番強い印象を抱いたのは、新戒律でしょうか」

「わたしが発表したものですね。断罪学園のほうでスピーチをした際も、とてもざわめいておられましたね。……卒業試験、受け直しとかになってしまいましたか?」

「いいえ、そこまでは学園としても対応しきれないようで。ただ、新たな戒律を記載した資料が実家に送付されました。それから、新戒律を含めた講習会の開催告知も届きました」

「なるほど。どちらにせよ、ご迷惑をおかけしてしまいますね」

「いいえ、女神様がお気になさることではありません」

「民のことに些事などありませんよ」つるぎはそういって、ケーヴルに訊く。「ケーヴルさんは、新しい戒律について、どう思われましたか?」


「……率直に申し上げますと、まだ混乱しております。いえ、女神様のおっしゃることに間違いがあるとは決して考えておりませんが、幼少より刷り込まれてきた戒律が、突然いくつかなくなったり増えたりしてしまったものですから」

「そうですか。もう少し率直に、疑問を抱いた変更などはございますか?」

 つるぎがそういうと、ケーヴルを見守っていた断罪所の中年の表情に、にわかに緊張が走った。中年は、お願いだから女神様に疑問を呈するような不敬な真似はしないでくれ、と胸中で唱えた。

 沈思黙考の末、ケーヴルはいった。


「どうして女神様は、中絶を許容なさるのでしょうか? あれは、殺人ではないですか。

 女神様はスピーチで、すべての存在の幸福を願われました。胎児は別なのでしょうか?」


 ジンコゥは中絶を胎児の殺人であり『殺人の厳禁』に抵触する死刑相当の行為として解釈している、いくつかの町のひとつだった。ジンコゥで生まれ育ったケーヴルはその解釈が正しいものとして教えられてきた。断罪学園で、そのあたりは解釈がゆれるとも教わったが、ジンコゥの解釈が誤っているとは思わなかった。


「胎児も命です。幸福になるべき命です」つるぎはまず、ケーヴルの価値観に寄り添う。


「しかし、すべての胎児が、望まれて胎内に宿るとは限りません。望まぬ行為の果てに、望まぬタイミングで身に宿してしまうこともあるでしょう。そのとき、その女性は選択を迫られることになります。出産によって、身体に大きな負担をかけながら、思い描いていた人生の形や、尊厳を諦めるか。それとも胎児を殺めるか。そんな、選びたくもない二択を。しかも、いままでの戒律では、後者の選択は自分の人生もまた死刑で終わらせてしまうことになります。


 ほぼほぼ、選択の余地はありません。天使の支えがあるとはいえ辛い妊娠期間を経て、愛していない人との子を産み、生かすために時間と体力を費やさなければならなかった、そのためにまだ続けていたかった仕事やこれから掴みたかった幸せを諦めざるをえなかった、そんな女性がいままでどれだけいたことでしょうか。


 むろん、解釈の違う、中絶を許されている町に移動する選択もあるかもしれません。でも、誰しもにそれができるとは限りませんし、住み心地のよい町を運命によって半強制的に離れることになるというのも可哀想な話です。人は、住みたいところに住めるのが一番いいとわたしは考えています。


 だからわたしは変えたかったんです。変えたほうが、より多くの民が幸せになると思ったから。中絶を許されている町でも、やはり戒律がよぎり、罪悪感が生じる辛い選択には変わりないでしょう。それを選ぶことを、少なくとも神は否定していない、と信じていただくことで少しでも心が軽くなってくれたらと思ったから。心が圧し潰されたら、次は命が潰れますから」


「胎児は不幸ではないのですか」

「おい、ケーヴル。いい加減にしなさい、女神様に……」

「大丈夫です。そうですね。たしかにそこを考えると、残酷な選択ですが……中絶を選ぶ人のほとんどは、その残酷さに向き合っているものだと思います。死にそうになるほど向き合ってそれでも、幸せになるにはそれしかないと選ぶ人を、わたしは尊重します。自分の意思で別の道を模索する人と同じように」

「回答になっていません。女神様は、胎児の不幸をどうお考えですか」

「ケーヴル!」


「いえいえ。わたしがどう考えているかということですか。端的にいうと、考えを表明してはいけないと考えています。そしてケーヴルさんも同様に」

「なぜですか?」

「当事者ではないからですよ。わたしもケーヴルさんも、他者が妊娠した子供をどうするか考えて決めないといけないとき、それが自分以外の人間の話である限り、第三者です。そして他者の判断に口をはさんで、強制的に選ばせた結果、その人がどんな人生を歩むことになって、心にどれだけの傷を背負ったとしても、責任を取ることができません。


 わたしはほとんどの民から信仰をいただく女神ですが、同時にほとんどの民の人生の部外者です。だからわたしがしていいことは、選ばせることではありません。誰かがより幸せに、自由に生きようとするための選択肢を増やすこと、それだけだと思います。


 そして自由とは、誰かに共感されない選択肢であっても、自分のために選んでいいことだとわたしは思います。他者の無辜な幸福を阻害しない限りにおいて、ですが。

 つまるところ、ケーヴルさんが共感できなくても、誰かが中絶に対して自分なりの心の折り合いをつけて未来を選ぼうとすることを、あれやこれやという権利はないんじゃないかなあ、って考えています」


「つまり、……見殺しになさるのですか?」

「やだなあ、そんなわけがないじゃないですか」

 つるぎは穏やかに、否定する。


「これは秘密の話ですが、いま、天界のほうで開発に勤しんでいるところなんです、避妊魔法の――もちろん、緊急避妊魔法も含めて。月経困難症にも効くようなものを」

 要するに地球界でいうところの低用量ピルやアフターピルを、魔法で代用しようということである――薬品のようなリスクがない、誰でも利用できる、まさに魔法のような魔法の開発を、つるぎは計画していた。


「避妊禁止の戒律を撤廃したのだから、確実な避妊について天使室のほうでサポートしようという提案をわたしのほうからさせていただいて、みんなで進行しています。もっとも、そもそも魔法を新たに作ることの難易度や、実験体をどこから用意していくかという点で、二の足を踏む回も多いのですが。できるかぎりのスピードで頑張っていますよ」

 さらにいえば天使の人員不足も進捗に影響を及ぼしていたが、あんまり天界の事情を語りすぎるのもよくないので、つるぎは言及を控えた。


「ひ、避妊魔法……ですか」

「はい。望まぬ妊娠自体をなくすことができれば、中絶もそもそも行われませんから。もっとも、どうしても避妊魔法が間に合わないパターンもあると思いますが、それはほとんど不遇な経緯によるものであると予想できます。その場合に、死罪とするのはあまりにも可哀想ではないでしょうか」

 いわれて想像し、ケーヴルは黙した。

 つるぎはそれを見て、締めとばかりに付け足す。


「不幸に生きるかすぐに死ぬか、その二択しか許されなくても当然な人間なんて、ひとりもいません。幸せを模索する権利は誰にだってあります。わたしは女神として、民の人生の選択肢を増やすために尽力します。選択肢を与えることは愛のひとつの形であり、選択肢を許されることは自由のひとつの側面です。愛と自由をモットーに、女神つるぎはこれからも頑張ります。どうか温かく見守ってくださると幸いです」


 ケーヴルが曖昧に頷くと、中年スタッフがケーヴルの頭を掴んで深く下げさせた。

「女神様! 新人が不躾な発言を申しましたこと、深くお詫びします! ほら、ケーヴル!」 


「謝罪は必要ありません。わたしもまだまだ説明不足なところがあったから疑問を抱かれたのだと思いますし、今後に活かさせていただきます。むしろケーヴルさんにはお礼をしたいほどです――皮肉じゃないですよ、と付け加えると皮肉っぽくなっちゃいますが。とりあえず、とくに嫌な思いはしていませんから、どうかケーヴルさんに罰則など与えないようにお願いします。女神からのお願いです」

「は……はい」中年スタッフは戸惑い気味に了承した。

「それでは、お騒がせしました」


 つるぎは湊とともに断罪所を出た。

「ケーヴルさんって人、段々熱くなってなかった?」と湊はいった。

「うん。しょうがないよ、やっぱり染みついた倫理観に反する変更には拒絶反応が出てしかるべきだと思う」

「なるほどねえ。でも、あんなに向かってくるとは」


「わたしは安心したよ? わたしが女神って確定してるだけで誰もが無条件で呑み込んでくれるわけじゃないんだって。もちろん、ほとんどの人が女神のいうことなら呑み込むように洗脳されているか、不信心者のレッテルを貼られないように呑み込む選択を半ば強いられている、この不自由な力関係を意識しながら、自由を考えていかなきゃダメだけれど」


「洗脳。宗教を洗脳と表現するのは侮辱的な表現だけれど」

「たしかに。まあ、あくまでパンゲア界の女神教の話ってことで。……ミリィさんの件も、ロミオルさんとアルバンスさんを断罪所にぶち込むときは洗脳じみた納得が挟まれてしまったのが、実は気がかりではあるんだ」

「ミリィさんって……ああ、えっと、あの、お嬢様? の?」

「うん。湊くんは忘れても無理ないか、男の人苦手になってて会話もしなかったわけだし。これからミリィさんのところ行くからね?」

「そうなんだ」

「で、湊くんにも役目あるからよろしく」



 山間の大きな町グザイの東に走る、先の見えないほど広い川の向こう、町人の知らない静かな教会。その会食室をつるぎがノックして、つるぎです、と名乗ると、どうぞ、と少女の声がした。

 つるぎがドアを開けると、天界から教会に配布された黒無地の服を身に纏った、ミリィが椅子のうえで待っていた。ミリィはつるぎの姿を目に入れると、それまで色々な言葉を予定していたのに、どうしてか何もいえなかった。


「お久しぶりです、ミリィさん」つるぎはいった。「髪を切られたのですか」

「……ええ、今朝に」ミリィはいった。「なんだか、いままでの自分と別れることになると思うと、何もせずにはいられなかったのですわ。……おかしくて?」

「いいえ、素敵ですよ。そうだ、わたしもだいぶ短くなったんですよ、ほら」

「ほぼ丸刈りじゃありませんの。天界で髪を剃られる刑でもくだされましたの?」

「いいえ、マンナカ火山で不死の鳥から全身を丸焼きにされちゃって。ゆっくり伸びてきてる感じです」

「本当に刑に処されておりましたのね。冗談のつもりでしたわ」

 ミリィはそういうと、少し可笑しそうに顔をほころばせた。


「変わりませんのね、つるぎさん」

「変わりませんよ。色々ありましたけど、あんまり変われませんでした」

 つるぎは笑い、会食室のテーブルに麦茶とイチゴ大福を生成すると、ミリィに差し出した。

「ありがとうございますわ。のちほど、マーキュリーとヌルのぶんも用意いただけませんこと?」

「わかりました。マーキュリーさんといえば、完成はしましたか?」

「ええ」ミリィはテーブルの端に置いておいた紙束をつるぎに見せた。


『ミリィ・アパシィへ』


 と、題されていた。つるぎは紙を捲ろうとして、気づく。

「著者はマーキュリーさんとミリィさんの連名なんですね」

「ええ。二か月前につるぎさんが提案なさったように、マーキュリーに託したあと、できた文章を私が読んで、より私自身の感覚に近いものに書き換えさせていただきましたわ」


 そこに書かれている内容は、ミリィの受けた被害と、生きるために選ばざるをえなかった中絶処置、できなかった報復に対して、抱いたすべての感情だった。悲しみや怒り、やるせなさと後悔と、加害者への恐怖と殺意、ミリィ自身の抱える死にたさ、それでもつるぎやマーキュリーの支えで生き延びたことへの所感だった。そしてそれらを起こさせた一連の出来事についてだった。


 用紙はところどころに皺や補修の跡があり、血や何かに濡れた痕があった。字は乱れ、文もまた崩れていた。

「このあたりがミリィさんの書いた箇所ですか?」


「ええ。マーキュリーの物語はとても丁寧な文で、適切な配分で、抒情的で明るい言葉を選びながら、さくさくと進んでいく作風ですわ。ですから、傷や感情を濃く書き綴るということには、あまり適しませんでしたの。

 それにそもそも、マーキュリーは私ではありませんから、私と全く同じ気持ちを刻むことは、どれだけ話を聞いて想像をしてもできない。どこかで無意識に、マーキュリーの基準で、書き残すべきものを選んでしまう。マーキュリー自身がそういっていましたわ。ですから、現実に即した感情が絶対に必要なところには私自身の気持ちを、日記を綴るように、書き殴らせていただきました」

「必要なところ……」


 それはつまり、ミリィが体験した、様々な苦痛や恐怖、嫌悪や後悔など、ミリィの心に悪夢を刻んだ出来事についての段落だった。

 自分の傷を自分の指で抉るような行いである。夥しい苦痛と出血。涙も汗も、拒否感も不快感もとまらないことは、想像に難くない。

 それでも、ミリィの感情ができるだけありのまま残ることを、ミリィもマーキュリーも、優先した。


「改稿のとき、マーキュリーはたくさん、私に寄り添ってくれましたのよ。それでも、二か月後にまたつるぎさんがいらっしゃるとわかっていなければ、もう少し時間がかかってしまったかもしれませんわね」


「……完成が間に合ったことは喜ばしいです」つるぎはいった。「今日がだめだったら、いつ時間が作れるかわかりませんから」

「女神とは、とても忙しいのですね」

「はい。やるべきことだらけです。それでも、きちんと休みを確保して、絶対にミリィさんを解放したいと思いながら仕事を片付けてきました。……本当は、研修中にこの忘却の魔法を手に入れてから、ずっとミリィさんを楽にすることを考えていたんですよ」


 ミリィをいつまでも苛むであろう、耐え難い性被害の記憶。

 それを忘却の魔法で思い出せなくする。フラッシュバックなんて起こらなくする。

 ミリィが明るく未来を歩めるように、枷になるものは消してしまう。

(傷つくから人は学んで成長できるとか、雪耐えて梅花麗しとかいうけれど――未来を阻むような傷なんて、ないほうがいいに決まっている)


 就任スピーチの流れでこの教会に来たとき、すぐにつるぎはミリィにその提案をした。いますぐ魔法を使ったってよかった。しかしミリィは、首を縦には振らなかった。


「この怒りも忘れてしまうんですの? あっさりと、何事もなかったように? そんなこと、受け入れられませんわ。たしかにこんな記憶があったってろくな思いをしませんわよ。恨みなんて抱えずに生きられたほうが幸せなことくらい承知ですわ。でも、だけれど、私の胸で燃える怒りや憎しみを、最初からなかったみたいに忘れ去ってしまうというのは、あまりにもロミオルとアルバンスにとって、都合がよくありませんこと?

 私は生涯、あのクソどもを呪い続けて生きていきますわ。それが私の尊厳ですの。

 ……それに、忘れてしまっては、いつか何かがあってあのクソどもと再会したとき、私は仲良くしてしまうかもしれない。考えただけでおぞましく、危険ですわよね、それって」


 ミリィにそういわれて、つるぎは少し考えた。ミリィのその気持ちも大切だが、マーキュリーからフラッシュバックや悪夢の話も聞いていた。だから、そのままにしておくことが、適しているとは思えなかった――そこでつるぎは提案した。


 記憶を失っても、きちんと怒っていられるように、その気持ちを私小説として残すのはどうかと。マーキュリーはミリィを慮っているようだし、お願いすれば書いてもらえるのではないかと。

 むろん、記憶がなくとも、自分にそのようなことがあったと知ったら、とてもしんどいに違いなかった。無傷では済まない。けれども、だからこそミリィの望む通り怒りを持ってロミオルとアルバンスを拒絶できるかもしれない。

 それに、実際に経験した視界や感覚をそっくりそのまま想起してしまうようなことは、忘却の魔法があればありえない。ミリィが幸せになるための壁として、少なくともいまよりは楽になるのではないかと、つるぎは考えた。


「ひとつ、わかったことがありますの。その私小説を書いていて」

 と、ミリィはいった。つるぎは原稿から顔を上げてミリィの顔を見た。


「いままで、私は、明るい物語がとにかく好きでしたわ。わくわくするような冒険ファンタジー。どんな困難も勇気と協力で打ち破って、どこまでも行くことができる。癒されますわよね……現実は窮屈で、自分の手で動かせるものなんてとっても少ないのですから。でも、そうじゃない物語もいっぱいございました。私もそういうものをいくつか読みましたのよ」


 現実と同じように、理想が叶わない、どこにも行けない、後味の悪い物語。

 あるいはグロテスクなほどの悲劇に見舞われる物語。

 ミリィも色々な本を読むうち、そういう物語に触れてきた。


「そしていつも思いましたの、どうしてこんな物語があるのだろうと。だって現実を生きているだけで窮屈な時間にあふれておりますし、手に入らないもの、奪われるものだって多くて、どうにもならないこと、悲しいことがあるというのに。なんだってこんな、悲しくなる物語をわざわざ書いて、誰かに読ませようとするのだろうかと」


「……それが、わかったんですか?」

「はい。といっても、こうではないかと、想像できるようになっただけなのですけれど」

「聞かせてください」


「怒りや悲しみがあったことを、書き残す。そのおかげで、なかったことにしないでいることができる。いつか時間がさらってしまう思い出を、綺麗に忘れさせてしまう傷を、この大切な憤怒を、そのまま捨ててしまうものかと抗う気持ちが、現実に近くて悲しい物語を創るのではありませんか?

 自分は当時たしかに現実に怒って悲しんでいたのだと、やるせないと思っていたのだということをいつまでも残しておくことで、傷ついていたときの自分を尊重し、護り続けることができるのではなくて?

 そしてそれを読んだ誰かに、現実にも起こるような悲劇とそれにまつわる感情を知ってもらうことで、自分自身を護らせたり、もしかしたら、誰かの傷を気づかせたりすることができる……のではありませんこと?」


 つるぎはミリィの解釈に、そういう人もいれば、単純にそれが愉快だからとか、そのとき流行っていたからという理由で悲劇を書く人もいるだろうと思った。

 だから、つるぎはただ、

「そうかもしれませんね」

 というだけだった。


「少なくとも……こうして書き残しておけば、読んだ私は私を護れますわ」

「そうですね。あ、読み終わりましたよ。ミリィさん、改めて大変でしたね。お疲れ様です」

「もう読み終わりましたの?」ミリィは苦笑した。「じゃあ、あとは私の記憶を消すだけですわね。……なんだか、やっぱり、恐ろしいですわ」

「一応、ロミオルとアルバンス、あと異世界の女神相手にやってみて慣れたので、不必要な消去はせずにやれますよ。うっかりミリィさんの記憶を全部吹っ飛ばすようなことはまずないかと」

「しれっと。異世界の女神を実験台になさったんですの?」

「はい。ロミオルとアルバンスについてはさっきジンコゥの断罪所に行きましたが、安定して忘れてくださっているらしいです」

「そうですか」ミリィはいう。


「でも、……いまの私は、ほとんど、クソどもにされた傷を発端とする感情で、できているように思えます。その記憶がなくなるというのは、いまこの私が、……なくなってしまうようなものではありませんこと?」


「……傷をきっかけに作られた自己って、上から落書きされた絵のようなものなんですよ。はっきりいって、歪められたものなんです。傷を長い間抱えてると自分のデザインの一部のように思えますし、そこから動くことすら恐ろしくなりますけれど。それでも傷はアイデンティティにするものじゃなくて、解放される手段があるなら、解放されたほうがいいと思います」

「歪められたもの……」

「はい。そして歪められた結果どうなるか、そんなのは元の人間性によるでしょう。だから不幸になっても傷つけられてもミリィさんはミリィさんだったし、幸せになったって、傷を忘れたって、ミリィさんはミリィさんですよ」

 まあ傷ついてないミリィさんとはお会いしていませんけれど、とつるぎは笑う。


「それに、あなたの時間はきちんと奪われてしまったし、あなたの悲痛はこの物語に刻み込まれているから、忘れたってなくならないし、なかったことにはならない。それゆえにあなたは完全に真っすぐには戻れないかもしれない。でも、あなたはこれから、あなたの歴史を踏まえたうえで、何者にも足をひっぱられず、幸せになれる。わたしは道を作る。ミリィさんがミリィさん自身の身体で、歩幅で、そこを歩く。

 それができるのは、いま目の前のミリィさんが、頑張って死なずにここまできたから。だから、あなたが苦しみのなかを生き抜いてきたことは、生きることを選んだあなたの感情や意志は、絶対に、絶対に絶対に、なくならない」 


 つるぎが滔々と話しているうちに、ミリィは泣きだしてしまった。つるぎはミリィの涙を拭いもせず、ただ、続けた。

「ありがとうございます、ミリィさん。わたしに、あなたを救わせてくれて。あなたの傷も涙も怒りも復讐心も、苦しみの渦中でもあなたにあった優しさを、わたしはずっと忘れません」

「つるぎさん。あなたが本当に女神なら、教えてください」ミリィは泣きながらいった。「どうして私が、こんな目に遭わないと、いけなかったんですの」

「そうじゃなきゃいけないこと、ばかりが起こるわけじゃないんです。間違ったことが起こってしまうんです。あるべきでない傷が、生まれてしまうんです。あなたはなんにも、悪くないし、もしも悪かったとしても、そんな目に遭うべきではなかったんですよ」

 つるぎはそういって、震えるひとりの少女を、優しく抱きしめた。

 

(だから誰かが、正しくあろうとしないといけない。誰かが誰かを、抱きしめないといけない)

 そんなことを思いながら、つるぎはミリィの頭に手を翳した。

 ミリィ・アパシィの悲劇は、そんなふうに、ゆっくりと終わった。

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