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第二幕 大神官ルシア

 一か月後。

「あ、湊くんいた。ねえ、ちょっとキャルゼシアさんとかと会ってくるけど、ついてく?」

「行くけど、いいの? いまの大神官の人が着いて行かなくて」

「そうするって決まってるわけでもないし、湊くんあっちじゃ勇者なんだからそんなに失礼でもないかなって。大神官さんには不在を任せる」

「そっか、わかった。行く」

「ん。じゃ、ぎゅってして」

 湊に抱きしめられたつるぎは、瞬間移動でドアの前に到着した。全神王の宮殿のある世界に続くドアである。ドアのなかに入ると、宮殿とは違う方向に向かって歩いた。少しするとドアがあり、ドアノブには『パンゲア』という札がかかっていた。


「あれがキャルゼシアさんの治める世界」

「へえ? こういうふうに世界を行き来できるんだ」

「うん。全神王の世界は他のすべての世界と繋がっているから、中継地点みたいな感じ」

「なるほど。ところで、つるぎの世界もキャルゼシアの世界もパンゲアだと紛らわしくない?」

「紛らわしいから、ちょっと名前の相談も今日してみるつもり。本題は様子を見に行くことだけど」


 つるぎと湊が、いわゆる現代のパンゲア天界に姿を現すと、天使たちは勇者の凱旋にこぞって騒ぎ出した。

「ああっ! あそこにいるのは聖なる竜に乗って魔王に立ち向かい、神の剣を振るって討ち倒した予言の勇者、菜花湊様じゃないか!」

「隣にいるのは、結局なんかよくわからない経緯で処刑されず魔王の死刑にも反対した倫理が意味不明な神殺し天使、蜷川つるぎだ!」


 つるぎは湊を制して、何もいわず、深々と頭を下げた。

 自分の行いで大きなストレスを感じさせ、仕事を増やしてしまった天使たちに向けて。

 静かに、美しい姿勢で、謝意を見せた。


 ざわつく天使たちの前で湊はおもむろにつるぎと指を絡めた。

 さらにどよめきが起こった。


 天界ではちょうど『正義の勇者が悪の天使と恋愛関係である』というのはデマだったのではないか、という言説が流れていたので、それこそがデマゴーグであると言外に証明されることとなった。


 騒ぎを聞きつけた大神官は、つるぎの姿を見ると近づいていった。

「騒々しいな、そなたら少し黙らぬか。こやつは異世界の女神じゃ、アポイントメントもある。――ふた月ぶりか? 女神つるぎよ。どうじゃ、そろそろ音を上げたころか」

「いえいえ、健勝に次ぐ健勝をさせていただいておりますよ、キャルゼシアさん」

「ふん、キャルゼシアはもうわらわの名ではない。当代女神の名じゃ。わらわはルシアと名乗っておる」

 と、先代女神キャルゼシア――大神官ルシアはいった。


 現代パンゲア界の女神は、つるぎが治めている百年前パンゲア界のキャルゼシアであり。

 現代パンゲア界を治めていた先代女神キャルゼシアは、大神官ルシアとして支えている。

「なるほど、それではルシファーさん」

「誰が堕天使じゃ。地球界の視察をしたときに神話くらい軽く目を通しておるからな」

「ごめんなさいごめんなさい。ルシアさん、キャルゼシアさんはどこに?」

「急用があっての、もう少しで済むじゃろうから、会議室で待っておれ」

「わかりました。呑みの用意をしてお待ちしておりますね」

 つるぎはルシアに頭を下げると、湊とともに会議室に入った。

 そして選り取り見取りの酒とつまみを生成して並べていった。


「え、呑むの?」

「酒の席が一番いいかなって。湊くん何か気分ある?」

「チョコレート食べたいから、それに合うものを」

「おっけ。そういえば勉強どう? 頑張ってる?」

「頑張ってるけど先は長いよ。あとから来たソーダクラッカーに抜かされた」


「ああ、天使になってたね。質問に答えたよ、『アッカ姉さまとブーは見かけたけれど、バッカ姉を見かけなかった。どうしたんだ』って。殺さなかったから、死んでなかったら生きてると思うっていったら少し安心してたけど、じゃあ寂しがってるだろうなあ、とかいってた」


「……なんというか、情が結構あるやつだよね、あいつ」

「お。友達になった? ひょっとして」

「ならないよ。ソーダクラッカー、天使になってからも暇さえあれば冷やかしにくるもんだから、うざったい」

「あっはっは! 湊くんがそんな顔で他人を語るの珍しいねえ。まあ度が過ぎているようだったら、いってくれたら対処するね」

「ありがとう」湊はつるぎが席を用意し終えるのを見て、その手の甲にキスをする。「まあ、僕も頑張るから。つるぎは心配しなくていいよ」

「わかった。よかった」つるぎは湊の顎に手を添えて上を向かせ、唇を重ねた。「頑張ってね」

「うん。頑張れる」といいつつ湊はつるぎにキスを返した。「でも久しぶりだからもっと」

「はいはい。……わたしも寂しかったよ」


 キスの応酬を十周くらいしたあたりで会議室のドアが開いた。

「ひえー。ルシアさん、すげえちゅっちゅしてるっす。女神ってキスとかしていいんすね」

「キャルゼシアよ、どうか悪影響は受けんようにの」大神官ルシアは、少し幼くも自分と同じ顔の女神キャルゼシアの未来を案じながら、先に会議室に入る。


「あ、キャルゼシアさんズ」

「さんズじゃない。よその天界で何をやっておるんじゃ、そなたら。パトスがいっておった通りの色惚けじゃの」

「すみません、二か月くらい会えてなかったもので」

「知るか。……これが酒の用意か?」

「はい。飲みニケーションといきましょう」



「ええ? じゃあ縫製の機械が壊れてるんすか。大変っすね」

「そうなんですよ。経年劣化みたいですねー。ちょっと構造が複雑で直しにくくて。設計書とかないかと漁ってるんですけれど、資料室がそもそもだいぶごちゃついているのもあって困っているんですよね」

「大丈夫なのか? 教会で配る服が足らなくなるじゃろう」

「あと七日は保つかなあって感じですが、何があるかわからないですよねえ。設計書どこにあるか、ルシアさんはご存知ないですか?」


「あそこはわらわが大神官に着任する前から乱雑な有様で、手を出している暇もないくらいじゃったから、どこにあるかとはいえないのう。わらわが女神になった頃、パトスが神官補佐として率先して整頓を行っておったから、それ以降は見やすいものじゃが」

「だったら、こっちの天界に設計書が残っているかもしれませんか?」

「さあのう。書類棚も有限じゃて、縫製機の新調に合わせて廃棄しておるかもしれぬ」


「いっそのこと、こちらの天界にあるいまの縫製機の設計書を使って、そちらの天界のものも新調してしまうのはどうっすか?」

「あ、キャルゼシアさんそれ素敵ですね。純粋に性能も上がりますし、是非そうさせてください!」

「ではあとで資料室に行くか。複写してかまわぬ」

「ところでつるぎさん、そちらの天界……百年前の天界に忘れ物したのを思い出したんすけど――」


 チーズや塩味の肉や魚の味噌漬けをつまみに麦酒を飲みながら、女神たちは仕事のやりとりをしていた。湊はとくに口出しすることもないので、チョコレートとワインを味わいながら、久しぶりに間近でつるぎを眺められる幸せを噛みしめていた。


「ところでルシアさん」話がひと段落したところで、つるぎはいう。「お尋ねしたいんですけれど。百年前の修練の旅の件で」

「なんじゃ?」

「百年前、どうしてウエ地方には赴かなかったんですか?」

「第一に、女神としてのスピーチの日が迫っておったのでな。そこまでの日程は用意できんかった」ルシアはチーズを魔法の火で炙ってとろけさせ、肉に絡めながらいう。

「第二に、ウエ地方はどうにも危険じゃ。シタ地方の比ではない。自然災害もそうじゃが、住む者も、シタ地方よりは信仰心にばらつきがある。デュクシデュクシーの大神官をしていたときにそれを理解しておったから、あえて足を踏み入れることもあるまいと思ったのじゃ」


「なるほど。……でも、各地で救済を行う目的もあったんですよね。であれば、むしろウエ地方は外せないのでは?」

「さて、どうじゃったかのう。そこまでは覚えとらん。キャルゼシアよ、なんじゃったか?」

「そうっすねえ、まあ、いってしまえば建前で……本当は、遊びたかったんすよ」

「遊び?」


「お恥ずかしい話、デュクシデュクシーを継いで女神になる、ということに少し怖気づいていたというか。大神官よりもさらに忙しい日々が待ち受けていると思うと、その前に気が済むまで自由な時間を過ごしたいと思ってしまったんす。結局、それはできなかったんすけどねえ」


「モラトリアムみたいなことでしょうか」

 と、つるぎは大学生らしい理解をする。それから、その幼さすらある動機で始めた修練の旅で、ルシアが経験した物事に想いを馳せる。キャルゼシアはルシアに比べて柔和で素直な佇まいである。その差を産んだのは百年の時間だけではないと、つるぎは知っている。


 アハランド北西の洞窟で百年前のルシアに何があったのか、わざわざ詮索するようなことをするつもりはないが、恐らく別の形で収まったつるぎのケースでも、考えを揺るがすほどの傷にはなった。


 傷。

 目の前で、モラトリアムという未知の言葉にきょとんとしているキャルゼシアにしたって、無傷ではない。一見平気そうだが、パトスに殺められた経験が、なんの傷も残していないとはとてもいえない。

 彼女が百年前ではなく現代パンゲア界の天界で女神をやることにしたのは、百年前の天界の玉座にいると冷や汗が止まらない、という理由からである。また殺されるかもしれない、と心が怯えているのだ。


「キャルゼシアさん、あなたにも訊きたいことがあります」

「なんすか?」

「パトスさんについて、どうしてお許しになったのでしょうか?」


 百年前の天界で、キャルゼシアを蘇生したとき――誰がどこの女神になるかを決めると同時に、パトスに殺められた被害者の立場から、キャルゼシアが望む罰について確認した。

 しかしキャルゼシアは、なんの罰を求めることもしなかった。

 なんとなく、などといって。

「なんとなくっすよ」キャルゼシアはいった。「なんとなく、裁く気になれなかったんす。だって、あの……パトスさん? って人」

 救ってほしそうな顔でしたもの。

 キャルゼシアはそういって、切なげに目を細めた。

「まあ、そうはいっても、すごく怖かったっすけどね」

「そういうの、美徳ではないですよ……? 怖い思いをしたなら、きちんと怒っていいと、わたしは思いますが」

「怒ってるっすよ。罰さないことを選んだまま、怒ってる。どっちも意志で、自我っす」

「そうですか、余計なこといいましたね」

 つるぎはそういいながら、キャルゼシアの空いたグラスに麦酒を注ぐ。


「ちなみに、フラッシュバックとかはありませんか? 怖い思いをした影響で」

「あー、それはあるっすね。やっぱり、武器庫とかでレイピア見ると、切っ先を向けられたこと思い出して、気分が悪くなるときがあります」

「そうですか。よかったら記憶を消してしまうこともできますが、いかがですか?」

「できるんすか? そんなこと」

「忘却の魔女から、魔法を受け継いだので」

「あー……聞いたことあるっすね。大神官から。んー、でもそれって安定するんすか?」

「わたしが死ぬか発狂するまでは安定して忘れ続けられるはずです」

「じゃあお言葉に甘えるっす。正直しんどいんで」


 キャルゼシアはつるぎに促されるまま頭を差し出した。つるぎは魔力を奮って記憶を探り、パトスの凶行による凄惨な記憶を消去した。

「はい。できました。キャルゼシアさん、どうですか?」

「や、すごいっすね。感覚も映像も、欠片も思い出せないっす。殺されたらしいって知識があるだけで。どこの誰がどんな顔で何をして殺してきたのか、全然思い出せないっす」

「パトスさんって人に殺されたんですよ。レイピアで」

「……全然、ぴんとこないっす。ありがとうございます」

「礼なんてそんな。忘れていただいてかまいませんよ」

 つるぎはそういって、キャルゼシアと笑い合った。


「ま、パトスの愚行に関しては記録や目撃者もあるからの。……結局、あやつは」ルシアは肩を竦める。「罪の大きさに反して、役職のはく奪および天界の出入禁止、過去鳥の能力使用禁止、マンナカ火山の地下牢で暮らしながらフェニックスの城で百年働く程度で済んだのじゃろう? わらわとしては意味がわからぬ温情の措置じゃが、全神王とフェニックスで改めて決めなおしたこととも聞いておるからのう」

「直接の被害者であるキャルゼシアさんが何もおっしゃらなかったことが大きいのかもしれませんね」つるぎはそういって麦酒をおかわりする。「そうだ、もうひとりの被害者のかたは、蘇生する前にとっくに輪廻を果たしてしまわれたんでしたっけ。お名前は、たしか、大神官の……」


「アウゴージュさんっすね」

「そうそう。地上で大魔術師やったあと死後に天使になって大神官になるなんて、なかなかすごい人でしたよね」

「まあ、あやつは割とすぐに音を上げたがな。わらわについてこれんかった程度のやつじゃ。そういう点では、パトスの忍耐力には目を見張るものがあったのう」

「なんで誰に対しても忍耐テストみたいなことしてるんだ……何様なんだ本当に……」

 湊はぼそりといった。


 つるぎは苦笑いしつつ、ルシアにいう。

「パトスさんの件も、わたしがルシアさんを殺しちゃった件も、結局はルシアさんの愛情の欠如も一因ですから。反省したほうがいいですよ?」

「わかっておるが、自分を殺した張本人から殺されないように反省したほうがいいぞと促されるのは、実に釈然とせぬな……天下一釈然とせぬ。おぬしは本当に反省をしておるのか? わらわはまだ、許すとも許さぬともいっておらぬからの」

「反省はしています、心から……と、口だけでいってもしょうがないので、女神としての働きでしっかりと示し続けるつもりです」

「そうか。まあ、頑張れ」

「ありがとうございます。頑張ります」


 それから議題はつるぎの統治しているパンゲア界の呼称についてに移り、色々とアイデアが出るが、どれも甲乙つけがたく、ぱっと決まることはなかった。

 ただ、湊が提案した『ツルガイア(つるぎ+ガイア)』に関しては満場一致で『それはない』と却下された。


 会議室を出て、つるぎはルシアと一緒に資料室に行く。

「そういえばナプキンを作る機械も作りたいんですけれど、ゼロから新しい機械作るってなると大変そうなんですよね。ルシアさん、異世界でそういう機械持ってる女神に心当たりありませんか?」

「ん? ナプキン? 口元を拭くものくらい配らなくてもよかろう」

「あー。えっと、月経用ナプキンです。パンゲア界ってまだ、ただの布あてるか脱脂綿入れるかじゃないですか。実際に肌に合う合わないはありますけれど、ちゃんとしたものを教会で配れたほうがいいかと思いまして」

「……つまり地球界で開発された経血の処理道具か? わらわは聞いておらぬな。次の女神会議のときにでも手あたり次第にあたってみてはどうじゃ。キレール界の女神は機械に強かった覚えがあるが」

「ありがとうございます。キレール界ですね」


「そういえば、コンドーム? とデンタルダムとやらも製造するのではないのか?」

「うぅん、まずあんまり急に教会で配るものを増やし過ぎると現場の負担が大きいというのと、天使の方々にとって馴染みがなさ過ぎて重要性があまり伝わらないという点で、まだ議論の最中ですね。新米女神があまり天界の業務を増やすような提案をしすぎるのも心象がよくなさそうだから慎重にやっていきたいんですけれど、でも同性愛や生殖を目的としない行為を解禁しておいてそのあたりが遅れすぎるのも問題でしょうから、悩ましいです」


「そうじゃな、権限で何もかもを勝手に押し通していると、下のモチベーション低下に繋がる。デュクシデュクシーの時代は意味のわからない思い付きを勝手に実行するものじゃから、それに疲れて天使を辞めた者もおったよ」


「やっぱりそうですよね。そうそう、デュクシデュクシーさんといえば、バレッタがそうだったようにいっそ下界の民に衛生用のゴム製品を作ってもらうことも考えたんですけれど、製法を伝授するための資料を、地球界から取ってこれないんで困っているんですよ。地球界の女神から来ちゃ駄目っていわれていて」


「おぬしは元々は地球界の死人だから、しょうがあるまい。お忍びで地球界に視察に行ったとして、なんらかの形でおぬしの死を知る者の目に入ってしまえば、死者の復活として騒ぎになってしまう。同様の理由で菜花湊も行ってはならぬ。百年も経てば問題ないようには思えるが」

「はー。百年後に期待ですね。それまで女神として失脚しないようにしないと」


 探し出した設計図を手に取って、ルシアはいう。

「おぬしが女神として目指すところは、なんじゃ?」


 つるぎはすぐに答える。

「民に対しては愛と自由を――愛ある自由と自由ある愛を。そして女神という立場に対しては、理想としては、余暇も欲望も肯定される、息のしやすい存在として更新したいです。いつか後続に席を譲るとき、少しでも楽ができるように、発狂とか暴力とかすることにならないように、仕組みも空気も創っていくつもりです」

「そうか」


「ルシアさんは、女神キャルゼシアとして、何を目指していたんですか?」


「何も。ただ、デュクシデュクシーのような波乱は起こさぬよう、現状維持に努めておったよ。天使から案が出なければ、モニター設備の開発などする気もなかった。夢も自我もなく、やることをやっておったよ。視察で他の世界の文化に触れたり採り入れたりしたが、あれも特段、楽しいということもなかった」

「そうですか」

「じゃからそなたの考えることなど、何ひとつ理解できぬし、共感できぬし、上手くいくとも思わん。リソースを割いて戒律をいじくり回す必要など本当にあるのか、降ってきた仕事をこなすことに注力すればよいじゃろうが、保守的であればみな安心じゃろうに、と思っとる。

 ……が、もしも上手く行ったなら、こっそりあっさりとパクらせてもらうつもりじゃ」

「あ、そうなんですね。大歓迎ですよ。そのほうがみんな幸せになるなら」

「はは。みんな幸せ、か。考えたこともなかったが、よい考えだと思うよ」

 大神官ルシアはそういって、女神のように微笑んだ。



 複写を持ったつるぎは、資料室の前で待っていた湊に声をかける。

「お待たせ。じゃあ行くよ」

「うん。帰ろうか」

「いや、こっちの世界のマンナカ火山に行く。フェニックスさんの様子を見に行く」

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