挿話 [E]黄昏
百年前、天界。
下界旅行から帰ってきた新米女神キャルゼシアの一人称が「わらわ」二人称が「そなた」三人称が「あやつ」になっていたので、天界の人々はみな、何事かがあったのか、と思った。けれど、怒りとその先の悟りを手にした顔貌を見れば、何事かがあったのだ、と誰もが察した。
「おつかれさまです、キャルゼシア様」と大神官はいった。
「アウゴージュ。待たせてすまぬな。わらわは神務に戻る。情報共有を頼む」キャルゼシアはいった。
「ああ、情報共有ですか。少々お待ちを……」
「なんだ? そなた、なんの準備もせずにのこのこ出迎えに来たというのか? 時間が惜しいとは思わぬのか」
「しゅ、就任早々下界を巡る旅に出て自分で仕事ためたくせに……」
「そうだな。それについては詫びよう」キャルゼシアは頭を下げる。
「いや、別に必要なことだったと思いますよ。謝る必要はありませんて」
「いいや。わらわは間違っておった。わらわの甘い考え、弱い心がどれだけの結果になるか、身をもって知った。そして晩年のデュクシデュクシーのように怠惰であってはならぬと、悟ったのだ――下界は、デュクシデュクシーの負債ばかりじゃった。ああであってはならぬ」
「キャルゼシア様はデュクシデュクシー様を慕ってらしたと思いますが」
「過去の話だ。過ちを見つめて変わるのだ」
キャルゼシアは宣言したとおりに、きびきびと働き始めた。その機微のわからない者は、機尾にしがみつくこともできないほど、世界に急かされているかのように、せかせかと動き続けた。
天使長が取りまとめた提案や報告書の確認および承認、承認会議、天界の各所の清掃・補修に補充、機材のメンテナンス、全神王からの突然の呼び出しや要請への対応、女神会議、異世界の視察、日報の記載、大神官との会議、新米天使への挨拶などなど、女神の仕事は多い。
そして女神が不眠で働くことができる前提のもと、新たな業務は四六時中不休で湧いてくる。たとえば、消耗品がなくなったり天使がうっかり備品を壊してしまったりしたら、女神はすぐに駆け付けて生成しないといけない。何せ、天界のどこかに森や海や工場があるわけではないのだ――鉄から水まで、女神が生成することで賄われている。
まだまだ人手不足とはいえ、大量の天使を抱える天界では、ものがダメになるトラブルは毎日起こるものだ――女神は、下界でそうしたミスを起こさなかっただけマシ、と割り切ってさっさと対処するしかないのである。
さらには、天使長からの提案書の内容によっては会議を重ねたり、女神手ずから必要なものを生成したり、あるいはシフトの空いている天使たちと集団で新しいものの設計と開発に臨んだりすることとなる。
場合によっては異世界の女神とも交渉し資料や資材を取り寄せる必要も生じる。そのため、女神会議や視察時には女神との和やかコミュニケーションを演じて、いざというとき円滑に物事を進められるように地盤を固めておかなければならない。
デュクシデュクシーは、そのあたりの外交はまめにしていたけれど、パンゲア天界のなかのことは、なかなかにめちゃくちゃだった――資料室はまともに整理しないし、衣類やゼリーを作る機械のメンテナンスも不足していた。晩年に大神官を務めていたキャルゼシアの責もあるが、しかしデュクシデュクシーはそもそも、その必要性をまったくといっていいほどキャルゼシアに教えなかった。
女神と女神の間に生まれたキャルゼシアは、親と同じく女神であるデュクシデュクシーの影響をピュアに受けて育ってきたのだが――下界で人魚などに対応してきたいまでは、デュクシデュクシーの無責任さに、ほとほとあきれ果てていた。
(わらわも、デュクシデュクシーの軽率さにあてられて、どこの誰とも知れぬ男に洗脳能力を授けてしまったが――いまさら取り上げても不信心者を生むだけかもしれぬ。女神の施しが永遠のものでないとするのは、波風が立つ)
キャルゼシアはライドの件はそう考えて放っておきつつ、責任のある女神であろうと考えた。責任をとれる、対処法のわかる範囲の仕事に専念しようと考えた。あくまでもコンサバティブにかつ丁寧に、神務を全うしようと考えた。
甘さを見せたら付け入られる。
天界の天使も、天使長も、大神官も、元は下界の民である。いつか勝手な事情で、自分から搾取しようとしてくるかもしれない。キャルゼシアはそうした不安から、他者にも厳格な女神となっていった。書類に不備があれば、情に流されて下界の民に明らかに不必要な施しをしようとしたら、天界の外れでサボタージュを試みたら、キャルゼシアは自ら出向いて、ひとりひとりを叱責した。
むろん、元が女神を信奉する下界の民であるからこそ、女神という立場の者に対して、ハラスメントであると抗議をするような天使はいなかった――むしろ、いわれてみれば、民の暮らしを支える立場の存在としては、先代女神デュクシデュクシーの緩さがおかしかったのだと気づいた。たるんできていた天界は、キャルゼシアによって是正されていった。
ちなみにこのころ、キルムという天使の性根がキャルゼシアにばれて、民と一対一になる治療課から集団で対応にあたる環境課に異動になった。
キャルゼシアは誰よりも、傍にいるアウゴージュに厳しく当たった。キャルゼシアがデュクシデュクシーの新米大神官をしていたとき、デュクシデュクシーから評価されていたアウゴージュはキャルゼシアのサポートとしてあれこれ教えたり、ともにマンナカ火山に挨拶に行ったりしたものだけれど、いまのキャルゼシアが振り返ってみると、まったく甘っちょろい教育だった。
ともすれば、キャルゼシアは自分の下界での挫折の原因を、デュクシデュクシーとともに無責任に甘やかしてきた、アウゴージュにも求めているのかもしれなかったが――定かではない。
ただひとついえることは、客観的に行動と傾向をまとめるならば、キャルゼシアは不真面目な女性よりも、不真面目な男性と対したときのほうが、厳しかった。そしてアウゴージュは、不真面目で、へらへらとしている、ノリの軽い男性だった。下界に娘が四人いるとは思えないほどに、ちゃらんぽらんな男だった。だからキャルゼシアは、アウゴージュに対し、ウエ地方にある雪の降る地方の夜の風のように鋭い舌鋒を向けた。
長い年月を経たある日、アウゴージュは逃げ出した。輪廻の門に向かって、尻尾を巻いてとんずらこいた。
代役として、十分なほどに育っていた、不死鳥フェニックスの息子、過去鳥パトスがアサインされた。彼は折り目正しく恭しく、大神官という職務を誇るように、キャルゼシアの前に傅いた。過去鳥の力が神務に役立つことはないため、キャルゼシアとしては予言鳥アスのほうでないことが惜しく感じられたが、アスが病弱者であることは承知していたので、受け入れた。
もっとも、そうはいっても新しい職務ゆえのミスはあった。だが、キャルゼシアがその都度しっかりと注意をしたおかげで、パトス自身の向上心もあり、キャルゼシアに比肩するほど実直で自他に厳格な大神官となった。
地球界のほうで色々と文化的に目覚ましい発展があったと女神会議で耳にしたキャルゼシアは、パトスを伴って地球界の視察に向かった。宝石を作って金に換え、様々な文化に触れた。
あるときにはカレーライスというものを十数種類ほど試食し、キャルゼシアがもっともよいと感じたものを、デュクシデュクシーに倣って、パンゲア界に持ち込んだ――ちなみにこの行動の理由は、デュクシデュクシーが一度チョコレートをパンゲア界に持ち込んでしまったからには、キャルゼシアもそういうことをしなければ、誰かにとってはデュクシデュクシーに劣る女神と思われてしまう可能性があるためである。
ちなみにといえはちなみにそのとき、パトスはそのカレーに玉ねぎが入っているという理由で試食をしなかった。地球界の書籍で鳥が食べてはいけないものを予め調べており、玉ねぎもそのひとつであるという知識を得ていたことによるものだった。
漫才ビデオという、いまはなき劇場の町ダリアンヌの笑劇に似たものを一緒に見たこともあった――パトスは面白いと思った言葉を覚えたり素直に笑ったりと無邪気なものだったが、キャルゼシアには映像のなかの、なよっちくにやにや笑いをする男ふたりが無性に腹立たしく思えてしまった。
映画なども観てみたが、ヒロインを想って涙を流す男性俳優にも、なんだかストレスを感じた――キャルゼシアは耐え切れず、パトスを連れて地球界の上映室を出た。
「キャルゼシア様。いかがなさいましたか」とパトスはいった。
「パトス。そなたは、強く在れ。鋼のように冷静で、厳格であれ。わらわは、感情を面に出す男は好かぬ」
「……承知いたしました。キャルゼシア様のように、涙ひとつ流さぬ、強き天界人として、傍に在ります」
パトスがそういうと、キャルゼシアは、ああ、と腑に落ちた。
(自分よりも弱そうな男が気に食わないのか、わらわは――いや)
自分が殺された心を、弱さや甘えを、当然のように面に出す男が――気に食わなかった。
へらへらと笑って、真面目を踏みにじる男たちが。
「やっぱり女神様っつっても、女なんだな……ワンレドのいう通りだ」
「お、おいらたちでも、従えること、できた」
上手く行った安心からか、大それたことをやってしまった緊張からか、へらへらと笑う、洞窟の男たちの姿を思い出して――キャルゼシアは、倒れそうになって、踏みとどまった。
「キャルゼシア様?」
「何もありはせん。帰るぞ」
キャルゼシアはそういって、天界に戻った。
(あやつらは、とっくのとうに死んだ。天使にもならず、輪廻に入った。もういない。もういないのだから、わらわは気にしなくてよい。気にしているはずがない。わらわは強い)
それからもキャルゼシアは淡々と仕事をこなした。天使の提案がきっかけとなり、下界向けのスピーチをモニターによって実施する形式に改良するよう、様々な設備を開発する計画が始動したときは、あんまりにも忙しかったけれど、キャルゼシアは常に隙間時間を開発に充てた。甲斐あって、実現に至った。
それが終わっても忙しい日々は変わらない。そして、予言鳥が魔王と勇者についての予言をしたときは、一か月ぶんだけとはいえ、地球界の日本国の死者をパンゲア天界で受け入れることになり、多忙を極めた。女神の無尽蔵の体力を以てしても、独自の宗教を持つ者が女神キャルゼシアや天界を受け入れられず面倒ごとを起こしたり無宗教ゆえに馬鹿にするような態度をとったりする地球界の死者には、精神的に疲弊した。
けれどキャルゼシアはそれを認めなかった。疲れた、参った、女神がそんなふうに音を上げるなんてあってはならない。そんな弱い神ではない、そんな弱い自分はあの日あの夜のアハランドに置いてきた、とキャルゼシアは頑として、毅然として立ち続けた。
全神王から疲労の色を指摘され、代替わりを提案されても、退くことなど考えなかった。
いつしかストイックに働き続けることが、キャルゼシアの強さを、弱くなさを、キャルゼシア自身に証明する手段になっていた。その証明は毛布のようにキャルゼシアを落ち着かせた。
けれど、着実に、疲れは溜まり、圧し掛かり、キャルゼシアの精神を歪めていた。
だからだろうか。
ついに見つけることのできた予言の勇者、菜花湊のひ弱な胴体を見て修行をつけ始めたとき、すぐに泣き出してしまったとき。
キャルゼシアは叱咤だけで我慢ならず、暴力によって黙らせる道を選んでしまった。
そして一度そちらを選ぶと、すぐにそれを選ぶようになった。湊を虐げる頻度は、ゆっくりと上がっていった。
(いや、必要なことだ。そうじゃ、魔王に傷つけられたときすぐに怖気づくような者では困る。痛みが、痛みが必要なのだ、強くなるには。痛い目に遭わなければ、自らの甘えを省みることなどできぬのだ。わらわとて、そうじゃった――)
「キャルゼシア様。どうなさいましたか?」
モニターの前に立ち、菜花湊を遠隔で締め上げるキャルゼシアに、パトスはいった。
「どう、だと? どうもせぬわ。勇者ともあろうものがいつまでも脆弱な心身のままで、困惑しておったところじゃよ」
「さようですか――お困りなのですか? わたくしの目には、キャルゼシア様は、どこか楽しそうなご様子に見受けられましたが」
「は?」
「珍しく、口角が上がっておいでですよ」
キャルゼシアは口元を押さえると、自分がいよいよ、どことも知れない境地に辿り着いてしまったのだと気づいてしまって――しばらく、そこから動けなかった。
1月1日はおやすみです。2日からよろしくお願いします!よいお年を!




